犬と子猫

良治堂 馬琴

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第44章『不確か且つ確かな約束』

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第44章『不確か且つ確かな約束』

 情交の後の心地良い気だるさ、眠りに落ちそうになる度に腕の中の凛の存在に意識を引き戻され、それを繰り返し暖かで優しい空気の中に意識を漂わせていた高根の耳を優しく愛しい声が擽った。
「あ、あの……高根さん?」
「……真吾だっつの、何度言えば分かるんだよ?」
 黒川、敦賀、小此木、そしてタカコ。高根を真吾と呼ぶのはその四人だけ。性的な意味ではなく良き友人として関わっている彼等に名前で呼ばれるのは全く不快ではないが、遊女屋の女とは何度同衾する事になろうともそれは決して許さなかった。欲の処理と楽しみの為だけの存在に馴れ馴れしく名前を呼ばれる謂れは無い、そんな割り切った考えで二十二年間ずっとやって来て、そこに食い下がろうとする女は容赦無く切り捨てた。
 今腕の中にいるのは友人でも処理の為の女でもなく、安らぎと昂ぶりを同時に与えてくれる優しく温かい存在。その彼女には誰よりも近くで誰よりも多く自分の名を呼んで欲しいと思うのに、帰宅してから何度強請っても真っ赤になるばかりで呼んでくれる事は無く、抱いている最中に流れと勢いで呼ばせようと試みてみても頑として拒むという徹底振り。その頑なさに思わずやさぐれた物言いをしてみるものの、びくりと身体を強張らせる反応に小さく溜息を吐き、しっかりと抱き寄せて頬へと一つ口付けを落とす。
「……で?何だ?何か聞きたい事でも有ったんじゃねぇのか?」
「いえ、あの……大した事では無いんですが……」
「何だよ、言ってみな?」
「あの……何で今日は避妊具、付けたんですか?」
「……へっ?」
 予想もしていなかった凛の言葉、意図するところが全く分からずに思わず顔を覗き込んでみれば、何とも複雑な胸の内を表すかの様な揺れる眼差しを向けられた。
「や、あの、この間、最初に、その……抱いてくれた時、付けなかったじゃないですか。でも今日は付けてたから、何でかなと思って。私、子供が出来なくて離縁されてるし……そういうの、多分心配しなくても良いと――」
「元旦那の方が原因かも知れねぇだろ、種無しとか」
 突然の凛の発言、他の男を引き合いに出された事にムッとして思わず言い返し、言ってしまった後で自分には医学の知識等全く無い事を思い出す。きょとんと自分を見上げる凛、彼女にとっても予想外の返しだったのだろう、しかし言い出した以上はこれで押し切ってしまえと高根は再度口を開いた。
「だってよ、男がいて女がいて、それで子供を作るんだから、どっちかにしか理由が無いなんて方が変じゃねぇか?検査する方法とかが有るのかどうかすら知らねぇけど、不妊の夫婦を何組か調べれば絶対に半分は男に原因が有るに決まってるって」
「……そういう……ものなんでしょうか」
「おお、絶対にそうだ。で、何の話してんだっけか……ああ、俺が前回付けなくて今回付けた理由な。えーっとだな……前回はアレだ、お前の色気に中てられて、気が付いたらそのまま入れてた……すまん。いや、そもそもこの家に女上げたのお前が初めてで、家にそんなもん置いてなかったんだけどな、出先で調達してたからさ。俺、この間お前を抱く迄避妊具無しで女を抱いた事無かったんだよ、お前が初体験」
 言いながら顔が熱くなる、きっと今自分は真っ赤になっているだろうと思いつつ凛を抱き締める腕に力を込めれば、胸板に押し付けた彼女の頬もとても熱くなっていて、何だ、若い男女の初心な語らいの様だと思わず笑ってしまう。肩を揺らせてくつくつと小さく一頻り笑えば、その後に残ったのは凛と共に歩む未来の青写真。
「……今迄な、仕事一辺倒で生きて来て、女なんて処理と適当で後腐れの無い楽しみでしかなかったんだ。だから、孕ませて結婚する羽目になるとか冗談じゃねぇと思ってさ、避妊具を付ける事だけは絶対に忘れなかった。でも、お前はそういうのとは違って、抱きたいと思うだけじゃなくて、これから先の人生、どっちかが死ぬ迄一緒に生きて行きたいと思ってる。付け加えて言うならガキ、あ、子供なんか欲しいと思った事は今迄無かったけどお前が俺の子産んでくれるなら嬉しいし欲しいし、生まれたら無茶苦茶可愛がると思う。でもさ、今はまだ駄目なんだよ、仕事の方がどんどん忙しくなると思うし、今子供が出来ても妊娠してる間も生まれてからも殆ど一緒にいてやれねぇと思うんだ。欲しくないんじゃなくて今は時期が悪いから、だから今日は付けたんだよ」
 務めて穏やかに優しく言葉を紡げば、やがて小さく震え始める凛の身体、そして小さく啜り上げ泣いている感触が胸板と腕を通して伝わって来て、高根はその様子に目を細め、柔らかな髪へと幾度も口付けを降らせた。
「本当はさ、籍入れるとか、そういう確かな約束をしてやった方がお前も安心出来ると思うんだけどな。籍入れて正真正銘の夫婦になんぞなっちまったら俺の方が歯止め効かなくなりそうでよ、あっと言う間にお前を身重の身の上にさせちまいそうだからさ……後二年、このままで、この家で俺が帰って来るの、待っててくれねぇかな……駄目か?」
 きっと自分はとても勝手な事を言っている、自分の臆病さ故に未だに凛に自分の職業を告げる事も無く、鳥栖では立場も忘れて滾る血のままに活骸を斬り伏せ、今はこうして不確かな未来を餌にしてまだまだ未来の有る若い彼女を自分に縛り付けようとしている。
 全て自分の為、凛の為ではない。それでもこの小さく温かく、そして優しい存在を今更手放す事も出来ずに抱き締めれば、返されたのは背中に回されて抱きついて来た細い腕と、胸元に感じる頷き、そして、
「……はいっ……!……でも、私で良いですか……?」
 という、小さく震える声音。
「お前で良いんじゃなくて、お前が良い。いや、それも何か違うな……うん、お前じゃないと駄目だ、俺」
 そう言って再度髪へと口付ければ背中に回された腕に力が込められて、高根はそれを感じつつ、腕の中の小さな身体を更に強く抱き締めた。
「……将来的に夫婦になるんなら、苗字で俺の事呼ぶのは変だよな?」
「う……そ、それは……」
「二年後には夫婦になるんだから、今から名前で呼ぶのに慣れてもらわねぇとな?ほれ、言ってみ?」
「……高根さん……意地悪です……」
「あれ?知らなかったか?ほれ、言ってみろって。言わないとまた無茶しちゃうぜ?おじさんはねちっこいって言ったよな?」
 そんな遣り取りを交わした後に結局またお互いを貪る様に求め合い、根負けした凛がたどたどしくも高根を『真吾さん』と呼んだのは夜明け近くの事。
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