犬と子猫

良治堂 馬琴

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第49章『越えてはいけない一線』

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第49章『越えてはいけない一線』

「少し見直した私が馬鹿だった、お前はやはっぱり女を突っ込む穴としか思ってない最低最悪の屑男だ!この女の敵!死ね!!」
「うるせぇよ!別に嫌がってるのを無理矢理やったわけじゃねぇ!!」
「じゃあ何か、あんな奥ゆかしい感じの子がだよ、真下に三人にも人がいるのにノリノリでお前と致してたとでも言うのか!!」
「や、それは……」
「ほら見ろ!やっぱり嫌がってたのに無理矢理押し切ったんだ!!」
 朝の海兵隊総司令執務室、ソファに踏ん反り返ったタカコが高根へと向かってぎゃんぎゃんと喚き、高根は着替えながらそれに応戦し、敦賀はタカコの隣で茶を啜りながら、黒川は高根と同じく着替えをしつつ、タカコ曰く『色ボケのハゲ猿』である高根にじっとりとした視線を向けている。
「お前さぁ……あんなに若くて可愛い子を自分の女に出来て舞い上がる気持ちは分からんでもねぇがよ、俺等が下にいるのに事に及ぶのは流石にどうかと思うのよ、俺も。なぁ、敦賀?」
「……海兵隊に入って後悔した事は無ぇのかと聞かれる事は偶に有るがよ……今が一番強くそう思ってるな」
「何なんだよお前等迄!タカコの味方か!!」
「弁護出来ねぇよ馬鹿」
「欠片も出来ねぇな」
 高根としては自分の悪戯心から恥ずかしがる凛に半ば無理矢理自分の名を呼ばせ、その恥じらう姿に理性の糸が切れてしまったという自覚は有るのか、タカコに対しても敦賀や黒川に対しても高根の言葉に普段の勢いや力強さは無い。
 タカコにしてみれば羨ましさが三分の一『あんな奥ゆかしい子だからきっと羞恥に苛まれるに違い無い』という心配が三分の一、そして、『とにかくムカつく』という気持ちが三分の一。いずれにせよ高根に対しての良い感情等抱ける筈も無く、とにかく高根を罵りまくる。敦賀や黒川も『男として気持ちは分からんでもないが幾ら何でもやり過ぎだ』という辺りが本音なのか、高根を庇う素振りは全く無い。高根にとっては孤立無援の状態だが、自業自得か、と、当の本人の高根ですらがっくりと肩を落とし、大袈裟に溜息を吐いた。
 事に及んだ事に加え、布団に入った時点でかなり遅い時間帯だったから、凛が目を覚ますのはきっと昼近く、目を覚ました後は昨夜の事を思い出して真っ赤になるのだろう。流石に少しは機嫌を損ねてしまったかも知れないから、今日は帰ったら先ず謝って、それからご機嫌取りに勤しむか、と、そんな事を考える。
「馬鹿!ハゲなんかもう知らない!!もっと禿げ散らかせば良いんだ!!」
「俺はハゲじゃねぇ!!五分刈りだ!!おい、タカコ!!」
 罵りの言葉をぶつけながら立ち上がり執務室を出て行くタカコ、反論の言葉を投げつけるも返答は無く、タカコに続く様にして敦賀も立ち上がり、こちらは無言のまま部屋を出て行った。
「ま、のぼせ上がる気持ちも分かるけどよ、もう少し自重しようぜ?海兵隊総司令殿?」
 残ったのは黒川、苦笑と揶揄い交じりのその言葉に言い返す気も起きず、制服の上着に袖を通し執務机の椅子へとどさりぎしりと音を立てて身体を沈め込み、舌打ちをしながらがしがしと頭を掻く。
 こういう風に首どころか全身を突っ込まれる事が分かっていたから泊めたくなかったし、そもそも自宅に上げるのも嫌だったのだ。凛の行動を極端に制限し人と触れ合う機会を奪う事は本意ではないし、タカコの事を随分と気に入った様子だったから、凛が望めばまた機会を作ってやっても良い。しかし、泊める事だけはもう二度とすまい、そう固く心に誓った高根は、そこで漸く意識を仕事へと、公人のそれへと切り替えていった。

 仕事を終えて辿るいつもの家路、その歩みを止めたのは自宅玄関前。凛のご機嫌をとらなければと多少の無理をして仕事を進め、普段よりは多少早い帰宅時間、まだ普段凛が就寝している時間帯ではない。それなのに扉脇の擦り硝子から窺える室内は真っ暗で、鍵を開けて中へと入ってみれば、廊下はおろか居間や台所にも明かりや人の気配は無い。風呂かと思いもしたが耳を澄ませても水音は聞こえず、以前の様にまた体調を崩して寝込んでいるのか、そう思った高根は慌てて靴を脱ぎ、寝室へと向かって階段を駆け上る。
「凛?」
 しかし、そこに在ったのは書架と机と椅子、そして無人の寝台だけ。一体何処に、一瞬そう思いはしたものの、体調を崩しているのであれば下の客間に違い無い、そう思い至り今度は今来たばかりの階段を駆け下りた。
「凛?どうした?熱でも有るのか?」
 そっと襖を開けてみれば、そこにはやはり布団が一組敷かれており、盛り上がった掛布団は中に人が潜り込んでいる事を窺わせる。返事は無く、眠っているのか、そう思った高根は様子だけでも見ておこうと客間の灯りへと手を伸ばした。

「……真吾さん、嫌いです」

 聞きたくない、理解したくもない言葉。凛の声音で紡がれたその意味を確かめようと高根が布団の脇へと膝を突けば、その気配を感じ取ったのか、凛が布団を撥ね退ける勢いで身体を起こし高根へと向かって再度口を開く。
「皆さんが下にいるのにって、私、言ったじゃないですか!名前を呼び捨てにすれば大人しく寝るって言ったのに……嘘吐くなんてひどいです!」
 明かりに照らし出される凛の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていて、ずっと泣いていたのだろう、目の周りは真っ赤に腫れぼったくなっている。そこ迄嫌な思いをさせたとはと固まる高根をよそに、凛は一日溜め込んでいたものを吐き出し続けた。
「声、出さない様に頑張りましたけど、もしかしたら気付かれたかも知れないし!そうしたら、きっと、凄いはしたない、いやらしい女だって思われます!私、恥ずかしいからって、嫌だって言ったのに!!」
 その後はもう両手で顔を覆ってさめざめと泣き始める凛、高根は自分の行いを軽く考え過ぎていた事を漸くと実感し、膝を突いて前のめりになっていた体勢から素早く正座をし、五指を揃えた両手を身体の前に置き頭突きをするかの如く凄まじい速度で額を畳へと叩き付けた。
「すみませんでした!俺が考え無しでした!ごめん、本当にごめん!!お前の気持ち、全然考えてなかった!!」
 土下座の教科書というものが存在するのであれば、お手本の写真として採用される事間違い無しの見事な土下座、状況が違えば潔さ男らしさに溢れるのかも知れないが、今の状況では情け無さしか漂わない。それでもとにかく謝罪しなければ、悪いと思っている事を伝えなければという高根の思いは、ほぼ無意識に反射的にその体勢をとらせていた。
「……本当に……そう思ってますか?」
「思ってる、本当にごめん。俺が我慢きかなくて考え無しで、お前に嫌な思いさせた……本当にごめんなさい」
「……それは、分かりましたけど、私、凄い恥ずかしいです……皆さんがまたいらした時にどんな顔をすれば良いか……」
「大丈夫、それは大丈夫だから。あいつ等、気付いてなかったよ、朝も何も言われなかったし」
「……本当ですか?」
「うん、だから、大丈夫」
 自らのその言葉が大嘘である事を、高根はよく分かっている。朝あれだけ罵られたのだから、忘れ様が無い。それでも今は凛の心の痞えを消し去ってやる事が先決だ、あの三人が凛の目の前で態々蒸し返す様な事も無いだろう、何より、これ以上こんな風に泣かれて責められていたくない。そんな思いから咄嗟に口にした嘘、凛の心持ちはそれで多少は和らいだものの、流石に即仲直りとはならなかったのか、その後二日間、彼女は高根と同じ寝台で寝る事を拒否し、夜間は客間へと籠る事を続けた。
 そして、タカコが口を滑らせた事により、あの日客間で寝た三人共が事の次第を知っていたという事を凛が知り、一週間の間客間へと籠城し高根を遠ざける事になるのは、また別の話。
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