犬と子猫

良治堂 馬琴

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第80章『副司令』

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第80章『副司令』

 兄の家に世話になるという事で話は纏まったものの、それでも家の中の事は気になるから週に一度は帰宅し掃除をし、有れば洗濯や台所の片付け等をして一日を過ごし、それが終われば兄の家に戻る、そんな生活をする様になって暫くが経ち、段々とそれに慣れつつあった。
 家の中の雑事を終えてソファに座りうとうととしていた凛、その彼女の耳朶を玄関の呼び鈴の音が軽く揺らす。背凭れから身体を起こし立ち上がり掛けるが、高根から誰が来ても出るなと、そう言い付けられている事を思い出し、さてどうしたものかと思案にくれつつ、一応はと玄関の方へと向かい歩き出してみる。
 扉の脇は擦り硝子の嵌め殺しになっていて、輪郭だけなら様子が窺える。取り敢えず誰が来たのかだけでも確かめようと歩み寄った時、向こうからも室内の人の気配が分かったのか、扉の向こうから声が聞こえて来た。
「事前の連絡も無しに申し訳有りません、海兵隊の小此木です、副司令の。お知らせしないといけない事が有りまして、直接お伺いしました」
「はい、今開けます」
 そう告げる声には確かに聞き覚えが有り、披露宴の時に高根の紹介で挨拶をした彼の同期且つ親友、そして直属の部下のものだと思い出し、凛は玄関へと小走りで駆け寄り開錠し扉を開ける。
「御無沙汰しております、お身体の方はお加減は如何ですか?」
「はい、お陰様で……あの、今日は、何か」
 扉の向こうから現れたのは制服姿の小此木海兵隊副司令、以前会った時にはその顔に湛えられていた笑顔は今は無く、何処と無く思い詰めた様な、緊迫感に満ちた面持ちのまま、制帽を脱ぎ小脇に抱えつつ頭を下げる。
「先程の放送……お聞きになりましたか?」
「いえ、少し眠っていたもので何も……何が、有ったんですか?」
 ひどく嫌な予感がする、緊迫し切った小此木の様子、彼の言った『放送』とは何なのか、何故、夫を通さずに自分のところへと直接海兵隊の人間がやって来たのか、心拍数が急激に上がるのを感じながら、凛は努めて冷静を装い、小此木へと問い掛けた。

「軍用火力発電所が……占拠されました。その要求が先程放送されたところです。丁度海兵隊と陸軍合同の視察が行われており、その参加者全員が人質となっています……高根さんも……その中に」

 ぐらり、と、視界が揺れた気がした。目の前の小此木が慌てた様にこちらに両腕を伸ばして来て、そのまま抱き抱えられる。
「……あ……すみません……」
「中に、座ってお話ししましょう、失礼します」
 背中を支えられる様にして体勢を立て直せば居間へと促され、それに逆らう事も無く歩き出しソファへと腰を下ろせば、小此木は
「自分も失礼します」
 と、短くそう告げて凛の向かいへと腰を下ろした。
「現在、三軍の総力を挙げて救出の為の作戦を実行中です。海兵隊にも陸軍にも沿岸警備隊にも優秀な人間が揃っています、高根さんは必ず救出します、任せて下さい。本来であればお知らせするかどうか微妙なところではあったんですが……市街地へと向けて敵からの放送も有りましたので、そちらだけをお聞きになっているよりかはお気持ちが和らぐかと思いまして、自分がお伺いしました」
 淡々とした、敢えて抑揚を抑えた小此木の言葉。凛はそれを聞きながら、ふう、と一つ大きく息を吐き、小此木へと姿勢を正し向き直り、静かに口を開く。
「御多忙の中、態々お知らせ頂き、有り難う御座います……大変な国難かとは思いますが……夫の事、また、人質となられた皆様の事、宜しくお願い致します、御武運を」
 そう告げて深々と頭を下げれば、正面の小此木の動きが一瞬固まったのが伝わって来る。その数秒後、
「勿論です……お任せ下さい」
 という言葉が聞こえてきた。頭を上げればそこには口元を引き結んだ小此木の顔、覚悟を決めた『もののふ』の面持ちに凛も再度小さく頷く。
「お一人では不安でしょうしお身体の事も有りますから……解決する迄は島津の、失礼、お兄さんのところに行かれた方が良いかと」
「はい、元々昨今の情勢で夫からもそう言われておりまして、今日は家の事を片付けに戻って来ているだけなんです。そろそろ戻る時間ですので」
「そうでしたか。それでしたら自分が送ります、車で来ておりますので」
「いえ、そこ迄して頂くのは」
「遠慮なさらずに。溺愛してる奥さんを歩いて行かせたなんてあいつにバレたら、後で何を言われるか分かりませんからね」
 空気を少しでも和らげようとしてか若干おどけた小此木の物言い、凛はそれに小さく笑い、
「分かりました、今準備しますので少々お待ち下さい」
 そう言って立ち上がった。
 道中の車内ではお互いに無言のまま、島津の家の前で車を降りれば、
「それでは……自分はこれで失礼します」
 小此木はその言葉と共に運転席へと戻り走り去って行く。家の中に入れば、敦子は小此木の言っていた『放送』を聞いていたのだろう、
「凛ちゃん!大丈夫だから……仁ちゃん達に任せて、気をしっかりね!」
 と、そんな言葉と共に抱き締められた。
 その後も何度も繰り返された『放送』、その内容は少し前の新聞やアジビラと然して変わらず軍を侮辱している以外の何ものでもなく、それを耳にする度に腹が張り、敦子にはもう布団に入れ、とにかく眠れとそう言われた。その勧めに従い横になるものの、家も部屋も防音仕様になっているわけではないから定期的に繰り返される放送は嫌でも耳に入って来る。それを聞く度に怒りと不快感が胸を焼き、それと同時に高根の安否が気に掛かり、眠気はいつ迄経っても訪れる事は無かった。
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