犬と子猫

良治堂 馬琴

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第81章『小便』

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第81章『小便』

「君達が大人しくしているのであれば彼の身の安全は保証しよう……君達次第だよ、高根准将」

 その言葉と共に黒川が別室へと連れて行かれてから二時間程、一緒に拘束された中央の人間達が何やら身体をもぞもぞとさせ始めたのを横目に見つつ、高根は
(ああ……そんな頃合いか)
 と、胸中でそう独り言ちた。やがて遠慮がちに便所へ行きたいという声が上がり始めたが、見張り役がそれを受け入れる筈も無く、
「……垂れ流せ、あっちの連中はそうしてる」
 そうばっさりと切り捨てられるのを見て、今度は自分の下半身に視線を移す。自分もそろそろ行きたいと思っていた頃合いではあったが状況を考えれば行かせてももらえるとも思えず、限界迄は我慢していようかと思っていたが、そろそろ決壊の時が近付いている。
 海兵隊の人間はこの場では自分一人、他は全員陸軍の人間で、その上泥臭い現場とは縁遠い中央や研究施設の者ばかり。彼等に恥を掻かせるのも忍びない、と、ふう、と一つ大きく息を吐き、膀胱の口をしっかりと閉じている外尿道括約筋の力を一気に抜き去った。
 瞬時に股間に広がる湿った温かさ、制服のズボンを越えて来たそれが制御室の床にじわじわと染み出すのを見下ろした後は顔を上げ、
「はは、やっちまいました、限界だったもんで。小便漏らすのなんてガキの頃以来ですよ」
 と、人質達に聞こえる程度の声量で少しおどけた様に自分の『不始末』を自ら曝露する。突然のその発言に驚いた様な視線が幾つも向けられる中
「自分が一番乗りですね」
 そう言いへらりと笑えば、力の抜けた笑みを浮かべる者、張り詰めた雰囲気を和らげ溜息を吐く者、様々な反応が返って来る。そして高根の言動が引き金となったのか、あちこちに小さな水溜りが出来始めた。
「……大丈夫ですか、副長」
「……ああ、この歳になってまさか漏らす羽目になるとは思わなかったが……まぁ、しょうがないな。しかし、君は随分と開き直ってるな、出す時も躊躇していなかっただろう」
「自分等海兵隊は対馬区への出撃と活骸を斬る時に、汚れる事には慣れてますからね。初めての出撃で恐怖で漏らす奴もいますし、活骸の体液を浴びるのは毎回です。後は……仲間の遺体を集める時にも」
「……そうだな……しかし、総司令に迄伸し上がった君も抵抗は無いのか?」
「偉くなったとは言っても、自分も少佐に昇進する迄は現場の人間でしたしね。それに、出撃の時には自分も毎回対馬区に出てますから」
「頼もしいな……しかし、この事はお互いに内密にしておかないか」
「そうですね、沽券に関わります」
「……息子にも内密に頼むよ」
「了解です」
 僅かにおどけてみせた調子の副長の言葉、高根はそれに小さく笑って首肯し、ゆっくりと視線を天井へと向けた。思い出すのは凛の事、昨日の朝はいつも通りに彼女に口付け、そして随分と大きくなった腹に頬擦りをして中の我が子達へと話し掛けて家を出た。自分の人生に不要とすら思っていた優しさと愛しさ、手にした今となっては失う事はもう考えられず考えたくもない。恐らくは小此木から連絡が行き事情は知らされているだろうが、心細い思いをしているだろう。芯の強い彼女の事だから人前では泣きはしていないだろうが、一人になった時にはきっと泣いているに違い無い。早く帰って無事な姿を見せて安心させてやりたい、そして、緊張の糸が切れて泣き出すだろう彼女を抱き締め、宥めてやりたい。
 しかし、それも先ずは救出部隊の襲撃が無事に終わらなければどうにもならない。自分達人質は力量的にも動かずに大人しくしているしか無く、きっともう敷地内には侵入しているであろうタカコ達の部隊へと思いを馳せ、頼むぞ、と、高根は小さく呟いた。
「……臭いな」
「……みっともないな……他にばれなきゃ良いけど」
「なぁに、そこい等はうちの人間が上手くやりますよ。幸いな事に真隣がうちの、海兵隊の基地です。救出されたら先ずはそっちに運んでもらって、シャワーを浴びて着替えてから移動しましょうや」
 そこ迄言って
(……いや、無理だろ……全員無傷だったとしても一旦陸軍病院に搬送されて検査だの何だの有るだろうし、負傷者出たら当然病院だよな……で、退院前に家族に解放されたって連絡行くだろ……お偉方は良いよ、博多の人間いねぇんだから。でもよ、俺はどうなんのよ……俺一人だけ恥掻けってのかよ……最悪だな……)
 そう思い至るもそれは流石に口にも顔にも出せず、内心で落胆しつつ人知れず小さく息を吐く。
 心配して病院に飛んで来てくれるに違い無い凛、その彼女に小便臭い制服の洗濯を頼む羽目になりそうだが何とか回避出来ないものか、と、そこ迄考えたところで殉職する可能性等自分の中には全く無い事に思い至り、小さく笑った。
 そう、自分は公人としては大和海兵隊の総司令、これから、否、既に大和に襲い掛かりつつある国難に対し、その最前線で指揮を執りこの国の未来を切り拓いていくという大役を負っており、私人としては夫として妻と共にこれから親になり子供を育てていくという、こちらもまた大役を負っている。そしてそれは誰かに強制されたものではなく、自ら望み掴み取った道、この二つが有る限り、自分の中では少なくとも今ここで死ぬという事は有り得ないのだろう。
 そして何より、恐らくは既に行動に移っているであろう、自分達を救出する為の部隊、その陣頭指揮を執っているに違い無い同盟相手――、タカコの存在が奇妙な安心感を与えていた。下品で騒々しく気性は荒くとことん扱い難い、けれど一人の兵士として指揮官として寒気がする程の有能さをその身に秘めた彼女がいるのであれば、そんな事を思わせる説得力が彼女には有る。
(しかし……こっちはあの馬鹿がいるから多少は安心してても良さそうだが、龍興がなぁ……間に合ってくれよ)
 後ろ手に手錠を掛けられ拘束されて行った黒川、高根は腐れ縁の親友の佇まいを思い出し、彼の無事を祈りつつもう一度小さく息を吐いた。
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