65 / 101
第64章『月』
しおりを挟む
第64章『月』
「今日は君は酒無しな、飲むにしても控え目」
「えー、何でさ」
「いやぁ、今迄調子に乗って飲ませ過ぎてたかなって思ってさ、直ぐに轟沈して碌に話も出来ないんじゃおじさん寂しいし。最後に飲んだ時は敦賀が邪魔して飲ませられなかったけど」
「ああ、あれは私が轟沈したら自分が背負って帰らないといけないからだよ」
「とにかく、今日は程々にな」
「はーい」
前回中洲に出た時と同じ店の同じ座敷、そこの机を挟んで座りながら黒川はタカコへと釘を刺す。今迄はタカコについて探ろうとして口が軽くなればと、それを狙って飲ませて来たが今日はそんな気も起きず、出来るだけ長く彼女と話をしていたい、そう思う。
今迄軍人として他勢力の人間としての彼女の側面にばかり注視していた、立場を考えればそれで間違ってはいないのだが、最近その傾向が自分の中から薄れつつある事に黒川は気付いていた。彼女が全てを詳らかにしたとは思っていないしそれに対する警戒を緩める必然性は何処にも無い、その考えは今でも変わっていない。
それがいつ頃からだろうか、自分の中に流れ込んで来るタカコに個人を、女を感じ始めたのは。気付かない内に流れ込み始めたそれは彼女に逢う度に大きくなり、はっきりとした大きな流れになった今、その感情がどういうものなのか分からない程に幼くはないし気付かない振りをする程には歳をとってもいない。それでも気付いたからと言ってそれをそのまま言葉や行動に現す事もせず、ひどく曖昧な距離のまま今の状況を受け止めていた。
妻を、千鶴を亡くしてもう直ぐ十年になる、その間ずっと独りで生きて来て、その決して短くはない時間の中で彼女との事は掛け替えの無い想い出へと昇華出来たと、そう思っている。今でも変わらずに愛してはいるが、優しく暖かい想い出、それが今の黒川にとっての千鶴の位置付けだ。
目の前で笑顔で話しているタカコ、その彼女をどうこうしたいとは思っていない、彼女の気持ちが自分へと向けられていない事には気付いているし、夫を亡くして一年と少し、気持ちの整理はそう簡単に付けられるものではないだろう。今は未だこの曖昧な距離のままで良い、敦賀は全く動く様子も無いし、事を急く必要は何処にも無いのだから。
そうしてタカコの酒量に注意を払いつつ穏やかな時間を過ごし、四時間程してそろそろ日付も変わろうかという頃合いで勘定を済ませて店を出た。
「タツさん、御馳走様でした。でも、本当に良いの?」
「良いの良いの、若い女の子と二人きりでお話出来るんだから屁でもねぇよあの程度の金額」
「いや、それ何度も言うけどさ……私、若くもないから、もう三十二だから、女の子って歳でも柄でもないよ?」
「俺より十二も下なんだから充分若いさ、おじさんにとってはタカコちゃんは女の子だよ」
夜の道を並んで本部へと戻りながらそんな言葉を交わし、タカコの頭を優しく撫でてやれば照れた様な困った様な、そんな複雑の面持ちがこちらへと向けられる。こういう扱いをされるのは得意ではないのか、決まって浮かべる彼女のこんな表情が何とも可愛らしく、困っているのは分かるのについつい言ってしまう自分に苦笑すれば、そんな黒川を見上げていたタカコが何かに気付いて黒川の向こう側、上空を指差して口を開いた。
「うわぁ……ねぇ、タツさん、見て見て、あれ」
何を見付けたのか、黒川が彼女の指の先へと振り返り視線を移せば、そこに在ったのは天空に浮かぶ大きな満月。
「月が、綺麗だね」
冬の澄んだ空気、そこに浮かぶ月は青白い光を放ち、成る程荘厳な迄の美しさを湛えているだろう、タカコはそれを見て思ったままを口にしただけだ、それは分かっている。
けれど黒川の脳裏に浮かんだのは出て来る前にタカコが読んでいた本、その作者が英語の教師をしていた時に生徒と交わしたとされる言葉。
外国からやって来てまだ一年と少しのタカコ、小説ではなく作者に纏わる話迄は知らないだろう、事実自分を見上げる彼女は屈託無く笑い、自分の発言の意味に等まるで気付いていない。
けれど、自分の気持ちに気付いてしまっている黒川に与えた衝撃とそれによって生まれた衝動は殊の外大きく、思わず彼女の身体を引き寄せようとした両腕を何とか押し止め、
「ああ、本当だな」
と、それだけ言ってタカコの肩に手を掛け、本部への歩みを再開した。
そしてそれから二週間程、年末の忙しさも有り黒川は太宰府から離れる事は無く、年が開ける迄を太宰府と自宅の往復で過ごした。その間考えていたのは自分の気持ち、色々な事情を加味しつつ考え、やがて導き出した答えを胸に、夜の静けさの中一人千鶴の仏壇の前で胡座を掻いて座り込む。
線香を供え手を合わせ、立ち上る煙の向こうに位牌を見据え、静かに、優しく口を開いた。
「……お前に、許してくれとか、良いかとか、お伺い立てる気は無ぇぞ、お前が返事をする事なんか無いのは分かってる、『許してくれるのか、有り難う』なんて俺の独り善がりの身勝手な猿芝居だ。……もう決めたんだ、気に入らないなら俺が死んでそっちに行った時に全部聞くから……だから、見ててくれ」
黒川が言う様にそれに対しての返事等当然無い、目の前に有るのは今はもうこの世にはいない者、それが嘗て生きてこの世界に存在し、それを覚えている人間がいるという証、それだけなのだから。
「今日は君は酒無しな、飲むにしても控え目」
「えー、何でさ」
「いやぁ、今迄調子に乗って飲ませ過ぎてたかなって思ってさ、直ぐに轟沈して碌に話も出来ないんじゃおじさん寂しいし。最後に飲んだ時は敦賀が邪魔して飲ませられなかったけど」
「ああ、あれは私が轟沈したら自分が背負って帰らないといけないからだよ」
「とにかく、今日は程々にな」
「はーい」
前回中洲に出た時と同じ店の同じ座敷、そこの机を挟んで座りながら黒川はタカコへと釘を刺す。今迄はタカコについて探ろうとして口が軽くなればと、それを狙って飲ませて来たが今日はそんな気も起きず、出来るだけ長く彼女と話をしていたい、そう思う。
今迄軍人として他勢力の人間としての彼女の側面にばかり注視していた、立場を考えればそれで間違ってはいないのだが、最近その傾向が自分の中から薄れつつある事に黒川は気付いていた。彼女が全てを詳らかにしたとは思っていないしそれに対する警戒を緩める必然性は何処にも無い、その考えは今でも変わっていない。
それがいつ頃からだろうか、自分の中に流れ込んで来るタカコに個人を、女を感じ始めたのは。気付かない内に流れ込み始めたそれは彼女に逢う度に大きくなり、はっきりとした大きな流れになった今、その感情がどういうものなのか分からない程に幼くはないし気付かない振りをする程には歳をとってもいない。それでも気付いたからと言ってそれをそのまま言葉や行動に現す事もせず、ひどく曖昧な距離のまま今の状況を受け止めていた。
妻を、千鶴を亡くしてもう直ぐ十年になる、その間ずっと独りで生きて来て、その決して短くはない時間の中で彼女との事は掛け替えの無い想い出へと昇華出来たと、そう思っている。今でも変わらずに愛してはいるが、優しく暖かい想い出、それが今の黒川にとっての千鶴の位置付けだ。
目の前で笑顔で話しているタカコ、その彼女をどうこうしたいとは思っていない、彼女の気持ちが自分へと向けられていない事には気付いているし、夫を亡くして一年と少し、気持ちの整理はそう簡単に付けられるものではないだろう。今は未だこの曖昧な距離のままで良い、敦賀は全く動く様子も無いし、事を急く必要は何処にも無いのだから。
そうしてタカコの酒量に注意を払いつつ穏やかな時間を過ごし、四時間程してそろそろ日付も変わろうかという頃合いで勘定を済ませて店を出た。
「タツさん、御馳走様でした。でも、本当に良いの?」
「良いの良いの、若い女の子と二人きりでお話出来るんだから屁でもねぇよあの程度の金額」
「いや、それ何度も言うけどさ……私、若くもないから、もう三十二だから、女の子って歳でも柄でもないよ?」
「俺より十二も下なんだから充分若いさ、おじさんにとってはタカコちゃんは女の子だよ」
夜の道を並んで本部へと戻りながらそんな言葉を交わし、タカコの頭を優しく撫でてやれば照れた様な困った様な、そんな複雑の面持ちがこちらへと向けられる。こういう扱いをされるのは得意ではないのか、決まって浮かべる彼女のこんな表情が何とも可愛らしく、困っているのは分かるのについつい言ってしまう自分に苦笑すれば、そんな黒川を見上げていたタカコが何かに気付いて黒川の向こう側、上空を指差して口を開いた。
「うわぁ……ねぇ、タツさん、見て見て、あれ」
何を見付けたのか、黒川が彼女の指の先へと振り返り視線を移せば、そこに在ったのは天空に浮かぶ大きな満月。
「月が、綺麗だね」
冬の澄んだ空気、そこに浮かぶ月は青白い光を放ち、成る程荘厳な迄の美しさを湛えているだろう、タカコはそれを見て思ったままを口にしただけだ、それは分かっている。
けれど黒川の脳裏に浮かんだのは出て来る前にタカコが読んでいた本、その作者が英語の教師をしていた時に生徒と交わしたとされる言葉。
外国からやって来てまだ一年と少しのタカコ、小説ではなく作者に纏わる話迄は知らないだろう、事実自分を見上げる彼女は屈託無く笑い、自分の発言の意味に等まるで気付いていない。
けれど、自分の気持ちに気付いてしまっている黒川に与えた衝撃とそれによって生まれた衝動は殊の外大きく、思わず彼女の身体を引き寄せようとした両腕を何とか押し止め、
「ああ、本当だな」
と、それだけ言ってタカコの肩に手を掛け、本部への歩みを再開した。
そしてそれから二週間程、年末の忙しさも有り黒川は太宰府から離れる事は無く、年が開ける迄を太宰府と自宅の往復で過ごした。その間考えていたのは自分の気持ち、色々な事情を加味しつつ考え、やがて導き出した答えを胸に、夜の静けさの中一人千鶴の仏壇の前で胡座を掻いて座り込む。
線香を供え手を合わせ、立ち上る煙の向こうに位牌を見据え、静かに、優しく口を開いた。
「……お前に、許してくれとか、良いかとか、お伺い立てる気は無ぇぞ、お前が返事をする事なんか無いのは分かってる、『許してくれるのか、有り難う』なんて俺の独り善がりの身勝手な猿芝居だ。……もう決めたんだ、気に入らないなら俺が死んでそっちに行った時に全部聞くから……だから、見ててくれ」
黒川が言う様にそれに対しての返事等当然無い、目の前に有るのは今はもうこの世にはいない者、それが嘗て生きてこの世界に存在し、それを覚えている人間がいるという証、それだけなのだから。
0
あなたにおすすめの小説
『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』
放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。
「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」
身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。
冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。
お兄様、冷血貴公子じゃなかったんですか?~7歳から始める第二の聖女人生~
みつまめ つぼみ
ファンタジー
17歳で偽りの聖女として処刑された記憶を持つ7歳の女の子が、今度こそ世界を救うためにエルメーテ公爵家に引き取られて人生をやり直します。
記憶では冷血貴公子と呼ばれていた公爵令息は、義妹である主人公一筋。
そんな義兄に戸惑いながらも甘える日々。
「お兄様? シスコンもほどほどにしてくださいね?」
恋愛ポンコツと冷血貴公子の、コミカルでシリアスな救世物語開幕!
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
【短編】記憶を失っていても
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
7年以上前の記憶のない平民出身のラチェルは、6年前に娘のハリエットを生んでからグリオス国のアンギュロスの森付近の修道院で働きながら暮らしていた。
そんなある日ハリエットは見たことのない白銀色の大樹を見つけたと、母ラチェルに話すのだが……。
これは記憶の全てを失ったラチェル──シェシュティナが全てを取り戻すまでのお話。
※氷雨そら先生、キムラましゅろう先生のシークレットベビー企画開催作品です( ´艸`)
【完結】メルティは諦めない~立派なレディになったなら
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
レドゼンツ伯爵家の次女メルティは、水面に映る未来を見る(予言)事ができた。ある日、父親が事故に遭う事を知りそれを止めた事によって、聖女となり第二王子と婚約する事になるが、なぜか姉であるクラリサがそれらを手にする事に――。51話で完結です。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる