大和―YAMATO― 第一部

良治堂 馬琴

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第64章『月』

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第64章『月』

「今日は君は酒無しな、飲むにしても控え目」
「えー、何でさ」
「いやぁ、今迄調子に乗って飲ませ過ぎてたかなって思ってさ、直ぐに轟沈して碌に話も出来ないんじゃおじさん寂しいし。最後に飲んだ時は敦賀が邪魔して飲ませられなかったけど」
「ああ、あれは私が轟沈したら自分が背負って帰らないといけないからだよ」
「とにかく、今日は程々にな」
「はーい」
 前回中洲に出た時と同じ店の同じ座敷、そこの机を挟んで座りながら黒川はタカコへと釘を刺す。今迄はタカコについて探ろうとして口が軽くなればと、それを狙って飲ませて来たが今日はそんな気も起きず、出来るだけ長く彼女と話をしていたい、そう思う。
 今迄軍人として他勢力の人間としての彼女の側面にばかり注視していた、立場を考えればそれで間違ってはいないのだが、最近その傾向が自分の中から薄れつつある事に黒川は気付いていた。彼女が全てを詳らかにしたとは思っていないしそれに対する警戒を緩める必然性は何処にも無い、その考えは今でも変わっていない。
 それがいつ頃からだろうか、自分の中に流れ込んで来るタカコに個人を、女を感じ始めたのは。気付かない内に流れ込み始めたそれは彼女に逢う度に大きくなり、はっきりとした大きな流れになった今、その感情がどういうものなのか分からない程に幼くはないし気付かない振りをする程には歳をとってもいない。それでも気付いたからと言ってそれをそのまま言葉や行動に現す事もせず、ひどく曖昧な距離のまま今の状況を受け止めていた。
 妻を、千鶴を亡くしてもう直ぐ十年になる、その間ずっと独りで生きて来て、その決して短くはない時間の中で彼女との事は掛け替えの無い想い出へと昇華出来たと、そう思っている。今でも変わらずに愛してはいるが、優しく暖かい想い出、それが今の黒川にとっての千鶴の位置付けだ。
 目の前で笑顔で話しているタカコ、その彼女をどうこうしたいとは思っていない、彼女の気持ちが自分へと向けられていない事には気付いているし、夫を亡くして一年と少し、気持ちの整理はそう簡単に付けられるものではないだろう。今は未だこの曖昧な距離のままで良い、敦賀は全く動く様子も無いし、事を急く必要は何処にも無いのだから。
 そうしてタカコの酒量に注意を払いつつ穏やかな時間を過ごし、四時間程してそろそろ日付も変わろうかという頃合いで勘定を済ませて店を出た。
「タツさん、御馳走様でした。でも、本当に良いの?」
「良いの良いの、若い女の子と二人きりでお話出来るんだから屁でもねぇよあの程度の金額」
「いや、それ何度も言うけどさ……私、若くもないから、もう三十二だから、女の子って歳でも柄でもないよ?」
「俺より十二も下なんだから充分若いさ、おじさんにとってはタカコちゃんは女の子だよ」
 夜の道を並んで本部へと戻りながらそんな言葉を交わし、タカコの頭を優しく撫でてやれば照れた様な困った様な、そんな複雑の面持ちがこちらへと向けられる。こういう扱いをされるのは得意ではないのか、決まって浮かべる彼女のこんな表情が何とも可愛らしく、困っているのは分かるのについつい言ってしまう自分に苦笑すれば、そんな黒川を見上げていたタカコが何かに気付いて黒川の向こう側、上空を指差して口を開いた。
「うわぁ……ねぇ、タツさん、見て見て、あれ」
 何を見付けたのか、黒川が彼女の指の先へと振り返り視線を移せば、そこに在ったのは天空に浮かぶ大きな満月。

「月が、綺麗だね」

 冬の澄んだ空気、そこに浮かぶ月は青白い光を放ち、成る程荘厳な迄の美しさを湛えているだろう、タカコはそれを見て思ったままを口にしただけだ、それは分かっている。
 けれど黒川の脳裏に浮かんだのは出て来る前にタカコが読んでいた本、その作者が英語の教師をしていた時に生徒と交わしたとされる言葉。
 外国からやって来てまだ一年と少しのタカコ、小説ではなく作者に纏わる話迄は知らないだろう、事実自分を見上げる彼女は屈託無く笑い、自分の発言の意味に等まるで気付いていない。
 けれど、自分の気持ちに気付いてしまっている黒川に与えた衝撃とそれによって生まれた衝動は殊の外大きく、思わず彼女の身体を引き寄せようとした両腕を何とか押し止め、
「ああ、本当だな」
 と、それだけ言ってタカコの肩に手を掛け、本部への歩みを再開した。
 そしてそれから二週間程、年末の忙しさも有り黒川は太宰府から離れる事は無く、年が開ける迄を太宰府と自宅の往復で過ごした。その間考えていたのは自分の気持ち、色々な事情を加味しつつ考え、やがて導き出した答えを胸に、夜の静けさの中一人千鶴の仏壇の前で胡座を掻いて座り込む。
 線香を供え手を合わせ、立ち上る煙の向こうに位牌を見据え、静かに、優しく口を開いた。
「……お前に、許してくれとか、良いかとか、お伺い立てる気は無ぇぞ、お前が返事をする事なんか無いのは分かってる、『許してくれるのか、有り難う』なんて俺の独り善がりの身勝手な猿芝居だ。……もう決めたんだ、気に入らないなら俺が死んでそっちに行った時に全部聞くから……だから、見ててくれ」
 黒川が言う様にそれに対しての返事等当然無い、目の前に有るのは今はもうこの世にはいない者、それが嘗て生きてこの世界に存在し、それを覚えている人間がいるという証、それだけなのだから。
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