大和―YAMATO― 第一部

良治堂 馬琴

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第63章『約束』

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第63章『約束』

 狙撃事件から一ヶ月と半、黒川が再び一人で海兵隊本部を訪れたのは博多がすっかりと冬の気配に染まった頃。彼は制服の上に同色の外套を着込み、黒の革手袋を手に持ち黒の羊毛の襟巻きを緩く首に巻いた姿でタカコの前に現れた。
「よっ、タカコちゃん。約束果たしてもらいに来たぜ?」
「……扉を叩かずに入室して来る馬鹿が一人増えたのね……」
「俺とタカコちゃんの仲だし?」
「……いや、どんな仲なのよそれは」
「え、何、言っちゃって良いの?」
「意味分かんねぇよおっさん」
 自室の寝台の上で寝転がって本を読んでいたタカコ、その彼女の前につかつかと歩み寄り寝台の空いた場所へと腰を下ろした黒川はいつもの笑みを浮かべたまま、タカコの手にしていた本を取り上げて表紙を見る。
「ふーん、『こゝろ』ね。面白いかい?」
「いやぁ、恋愛とかマジでもういいわと思えて来るよね、破滅的と言うか鬱々とすると言うか」
「だよなぁ、これ読んで恋愛って良いわとはなかなか思えないよなぁ」
「それで?何か用事?」
「いや、さっき言ったじゃん、俺とサシで飯付き合ってくれたら許すよって、あの約束果たしてもらいに来たよ。漸く自由になる時間がとれたからね」
「あー……そう言えばそんな約束したね」
「そうそう。ほら、行こうか、外は寒いよ、しっかり厚着して」
 本を枕の脇に置いた黒川の手が代わりにタカコの腕を掴み引き起こし、タカコは靴を履いて寝台を降り、椅子の背凭れに雑に掛けた上着を手に取りそれに袖を通す。
「えーっと、財布財布……と、有った有った、中身は足りるかな……うぁ、真吾に預けてるの少し出して行った方が良いかも。タツさん、ちょっと真吾のところ寄ってからで良い?」
 捕虜の立場のタカコは銀行や郵便局に口座は持たず、本国の代わりに海兵隊から支給される給与は総司令執務室の金庫に預かってもらっている。その中から必要な分だけ出してもらい財布に入れているのだが、黒川の分も出す事を考えれば少々心許無い中身にそう言ってみれば、黒川は一瞬動きを止めた後に笑みを深くして再度タカコの腕を掴み外へと向かって歩き出した。
「女の子と飯に行くのに金出させる程落ちぶれてねぇよ。これでも准将、旅団総監よ俺。金は俺が出すから、君は文句言わずに付き合ってくれればそれで良いの、さ、行こう」
 出て来る時に隣室のアレが不機嫌全開で嘴を突っ込んで来てはさぞや鬱陶しかろう、そう思って高根に頼んで敦賀を総司令執務室へと呼び出してもらっている。そこに行かれてはたまったものではないと思いつつ歩き出せば、その真意には気付かないタカコが
「いや、でも、私が許してもらう立場なんだし、タツさんが出すのはおかしいでしょ、私が出すよ」
 と、そう言って黒川の顔を見上げて来る。
「タカコちゃん、俺、あの時奢ってなんて言ったっけ?」
「え、いや、そうは言ってなかったけど」
「うん、俺、飯に付き合ってって言ったよな?だから、君は文句言わず反論もせずに俺の言う通りにすれば良いの。分かった?」
「いや、でもさ――」
「返事は?」
「……はい」
「良し。行こう」
 どうもこの男と話していると彼の調子に直ぐに巻き込まれてしまう、この如才の無さは流石この若年で今の地位に伸し上がった人間の才覚とでも言うべきか。タカコは自分の調子を完全に崩されてしまう事に若干の戸惑いは感じつつも、それでも不快感を感じる事は無く、こうも言うのだから合わせておくかと反論をするのは止めにする事にした。
 高根には先に断ってあるから、そう言って営外へと出る黒川、タカコはそんな彼に並んで歩き、会っていなかった一ヶ月半の間の出来事をお互いに報告し合う。事件に絡む事はお互いに口にも態度にも出さず、まるで何も無かった様に振舞った。機密や重大な内部情報に関わる事、頂点同士が利害を判断し情報を共有するのならともかく、世間話のノリで口にする事ではない、海兵隊と陸軍という立場の違いも有るのだから。
 夜に外出する事は最近無かったから冷え込みがこうも厳しかったとは予想外だった、手袋もして来れば良かったなと思いつつタカコが自らの指先に息を吐き掛ければ、それに気付いた黒川が手袋を片方だけ渡して来て、タカコがそれを嵌めるのを確認するともう片方の手を取り自分のそれと一緒に外套のポケットの中へと突っ込んだ。
「京都に比べれば随分とマシだけどよ、博多の冬も冷えるぜ?」
「京都?タツさん、中央にいた事も有るの?」
「おう、博多駐屯地司令に任じられる前は統幕にいてね、その時に」
「うへぇ、ここより寒いのか……私、寒い所にはあんまり縁が無いんだよねぇ、アラスカの活骸侵攻も冬は無かったから、その間は南方戦線にいたし」
「そうは言っても君去年の今頃はもうここにいただろう?」
「うん、そうなんだけどさ、捕虜になって間も無かったから夜に営外出る事無かったし、本格的に過ごすのは今年が初めてになるのかな」
「ああ、そういう事か。風邪ひいたらいけねぇからな、出歩く時はしっかり厚着して手袋もして、暖かくしときな。今は取り敢えずこれで、な?」
 言葉と共にポケットの中で握られる手、大きく暖かなそれに思わず頬が緩み、
「ん、分かった」
 と、そう言って黒川を見上げて微笑んだ。
 まるで今は亡き夫の様だと、そう思う。彼もまた同じ様に然りげ無い優しさをこうして与えてくれていた事を思い出す。相手は今も尚亡き妻を愛し続ける男、安全牌そのものの存在に夫を感じる安心感、ずるいとは思うがそれでも今はこれに浸っていても良いだろうか、そんな事を考えながら黒川の掌に自らの指の腹でそっと触れてみた。
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