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『勤務三日目』
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さて、組織の一員として働くからにはミーティングには必ず出席しなければ、涼子はそんな心にも無い事を呟きつつ事務所へと入る。時刻は七時四十三分、朝礼の開始迄後二分。
「おはようございます」
そう挨拶しつつ向かうのはタイムカードを差し込んである壁掛け式のカードラック、そこから『高橋洋子』と書かれている自分のカードを取り出すと、流れる様な動きでレコーダーへと差し込んだ。
ピッという電子音とガーッという機械音、吐き出されて戻って来たカードには『07:44』の印字。その印字を確認してラックへと戻したのと、岡場の
「まだ八時になってないのに何やってんの!?朝礼に時給発生するわけ無いでしょ!!」
という、だみ声とも金切り声ともつかない不快な大声。
「え?朝礼も業務の一環なんですから時給発生しますよね?早く出て来るのは構いませんけど、その分のお金は貰いますよ?」
にっこり笑ってそう言えば、言い返されるとは思っていなかったのだろう、顔を真っ赤にして涼子を睨み付ける。
「営業所長に確認されては如何ですか?まぁ所長がどう言おうと請求はしますけど」
左眉と左口角を持ち上げての笑顔、見ている方としてはさぞかし虚仮にされた気分になるだろう。これだけ煽ってやればこの馬鹿は確実に所長の松川へと話を持って行くに違い無い、そうすれば松川のスタンスについても多少は分かるだろう。
「はい、朝礼始めます」
と、そこに松川の声が響き、岡場は涼子を睨み付け舌打ちをしながら自席へと戻って行く。涼子も自席へと荷物を置いて松川の方へと向き直れば、
「おはようございます」
という言葉の後、本日の伝達事項を松川が読み上げ始めた。松川の後は特に決まった発言の順番が有るわけではないらしく、その時々で情報の共有をしておきたい者が軽く挙手をし周知する。そうして八時を目安に話を纏め、松川の
「それでは、今日も一日よろしくお願いします」
という言葉を受けて解散となるのが恒例の様だった。その後はタイムレコーダーの前に並んで打刻の順番待ち、パートも社員も一つのレコーダーを使う為に長蛇の列となる。その打刻には明確な序列が有るらしく、社歴の順でないと駄目らしい。一番最初は岡場、なるほど事実上のこの営業所の支配者は彼女なのだろう。その後は社員が社歴順に打刻しその後が事務方のパート達。
(確かこの会社一分単位で時給支給してるって雅弘言ってたけど……これじゃ八時を何分も過ぎてからしか打刻出来ないパート達は毎日数分分の給料を貰い損ねてるわけか……チリツモじゃね?)
どうせほんの数日しかいない予定で、そもそも給与の支払いを受ける予定も無い涼子には関係の無い話だが、下位のパート達の事を考えると同情を禁じ得ないなと思いつつ越川へと
「今日は何をすれば良いですか?」
そう声を掛けた。しかし越川の返事の歯切れは悪く、
「うん……ちょっと待ってて?」
と言うだけで、しかも視線は涼子の後方へと向けられている。一体何なんだと涼子が振り返れば、そこには松川を取り囲み何やら言い募る岡場、篠塚、林の三人。どうやら涼子が八時前に序列も守らず打刻した事について言い募っているらしく、時折
「新人が」
だの
「非常識だ」
だのと言った言葉が途切れ途切れに聞こえて来る。
しかし松川の反応はと言えば極端に鈍く、時折ちらちらと涼子の方を見ながら何とか三人を宥めるのに腐心している様子だ。それはそうだろう、朝礼前の岡場との遣り取りは松川にも聞こえていた筈で、あれだけ『拘束された分のカネは貰う』とハッキリ言う人物を不用意に責め立てれば、退勤後どころか昼休憩の時にでも労基に電話をされるか駆け込まれるかされかねない。さりとて伏魔殿に蠢く魑魅魍魎に常識が通じるとは思っていない事も明白で、保身の為には双方を曖昧に誤魔化しておくしか無いのだろう。
それを行使するかどうかはともかくとして、松川は一定の良識と常識は持ち合わせている様子で、その上保身をその他の事に優先させて考えている小物でもある。どうやら、潜入が完了し土屋自ら詰問する日が来たとしても、松川が岡場達を売り渡す公算は大きいと見て良いだろう。
涼子が頭の中で算盤を弾いている間に一応話は終わったのか、岡場が手下二人を引き連れてこちらへと戻って来る。その彼女がこちらを見て口元をいやらしく歪めて笑いながら着席する様子を見て、どうやら適当に丸め込まれた様子だなと、そんな事を考えた。
越川が言い淀んでいたのは松川と岡場達の話が終わったらそのまま涼子へと絡んで来ると思っていたからなのか、予想が外れた越川は少々戸惑った様子を見せたものの、
「あ、じゃあ、今日も伝票の処理と電話応対をお願いします」
軽くそう説明して涼子に伝票の束を渡し、彼女は彼女で自分の仕事へと取り掛かる。涼子はそれを受け取り仕分けを始めながら、今日はどんな風に動こうか、と、そんな事を考えた。
その後暫くすると岡場が荷物を纏め始め、
「郵便局と銀行と□□営業所行って来るから、よろしくね。午後には戻ります」
そう告げて事務所を出て行く。書類や封書等を入れていた紙袋の口からは昨日自分が即決購入した商品が緩衝材で巻かれた状態で入っているのが見え、外出ついでに発送かよ仕事しろよ、と、思わずツッコミを入れてしまう。そうして岡場が出て行った後は五分程は引き続き伝票処理をしていたが、不意に
「高橋さんさぁ」
と篠塚に声を掛けられ、処理の手を止め顔を上げ、篠塚の方へと向き直った。
「はい、何でしょうか」
「岡場さん凄く怒ってるよ、ちゃんと謝りな?」
「そうだよ、高橋さんが非常識なんだから、ちゃんとした方が良いよ?あたし達も意地悪で言ってるわけじゃなくてさ、高橋さんの事を思って言ってあげてるんだよ?」
篠塚に続いて口を開いたのは林、二人揃って嫌な笑いを浮かべながら涼子を見ており、他の面々はそれを否定する事も無く各々の仕事を続けている。
「朝の件ですよね?法的には岡場さんが間違ってますよ、判例も有ります。それに、所長は私には何も言ってませんけど、それ、実際どうなのかって分かってるからじゃないですか?揉め事になったら岡場さんの独断とか言いかねないと思いますけど」
涼子が言い返すとは思っていなかったのか動きも言葉も止まる二人、涼子はその様子を見て内心で笑いながら言葉を続ける。
「それに……これとは関係無いんですけど……あの、岡場さん、仕事中にもちょくちょく煙草休憩とってるじゃないですか、私がお昼頂いてる時にも休憩室の喫煙所来るんですけど……その時、昨日も一昨日も電話してて。その時に、あの、皆さんの事……その……長くいるだけで碌に使えないとか、役立たずとか、いない方がマシとか色々言ってるんですよね……それで、戻る時に私に『余計な事言うなよ』って……皆さんお仕事頑張ってるのに、何であんな言い方するのかなって。何か誤解が有るんじゃないですか?」
職場での力関係の上に成り立っている互いの繋がり、強い信頼が有るわけでもなく、社歴の長さと性格の陰湿さによって無理矢理成立させている不確かな関係。そんなものは、一つ二つ『不和の種』を放り込んで少々の水を掛けてやれば、簡単に亀裂が入り、そして、最初は僅かで小さかったそれは直ぐに目視出来る程大きくなる事を涼子はよく理解している。
「え……何、適当な事……」
「言ってましたよ、嘘吐いてもしょうがないじゃないですか」
これが決定打になるわけではない。
それでも、事を有利に運ぶ為に打つ石は一つでも多い方が良い。そして、後はそれを回収するタイミングを虎視眈々と狙い続ければ良い。
静かに、しかし確実に広がり始めた不信の蠕動。涼子はその様子を見て小さく笑いながら、
「あの、でも、皆さんの事言ってたわけじゃないかも知れませんよね、名前は出てなかった気がしますし。仕事、しますね」
と、それだけ言って処理業務へと戻って行った。
そして昼休みに入る少し前にフリマアプリに登録しているメールアドレスに購入商品の発送通知が届き、それを見て
(仕事しろよババア)
と毒を吐きつつ昼食を摂る。そしていつも通りに休憩時間を過ごした後事務所へと戻れば、それから二時間程経ってから岡場が漸く事務所へと戻って来た。事務所内の微妙な空気には気付かないらしく、相変わらず涼子の方を見てはあれがなっていないこれが駄目、非常識だの使えないだの、言いたい放題。そして他の事務方に対しても元々決して優しく親しみを以て接しているわけでもないらしく、自分の思い通りに事が動いていないと直ぐに口調がきつくなる。
岡場が涼子に言う度にそこに存在するフレーズが事務方達の中に淀んだ澱の様に溜まって行く。そして自分達にも向けられる負の感情、それは淀みを益々加速させ強化し始め、涼子はその様子をちらちらと盗み見ながら、ひどく満足した様な笑みを唇の端にうっすらと浮かべた。
実際のところ、岡場が喫煙所で事務方達を悪し様に言っていたという事実は無い。自分の前を通り過ぎる時に見下し切った眼差しを向ける、その程度のものだった。しかし、彼女の振る舞いを見ていれば事務方達に対して恐怖政治を敷いていたのは明らかで、阿る者も何も言わず従う者もそれに対しての不信感は存在していたに違い無いのだ。それをほんの少し刺激してやれば、後は岡場が勝手に成長させ増大させてくれる、自分はその切っ掛けの石を置いたに過ぎない。
そうやって事務所内の重苦しい空気を楽しみつつ仕事を続け、伝票の処理が思った以上に多かった為か三十分程残業になった。その上今日は横領に関しての情報を集める事は殆ど出来なかったが、それでも人間関係に石をブチ込んで混乱する様を観察出来たのは楽しかった、そう思いつつ立ち上がりタイムカードを打刻しようとした涼子の動きは、手にしたカードの印字を見た瞬間に停止した。
「……あの、タイムカード、誰か間違えて私のを通しちゃったみたいなんですけど」
本来であれば空欄である筈の今日の退勤時刻欄、そこには既に『17:00』とはっきりと打刻されており、誰が間違えたのかと振り返れば、鼻の穴を広げてニヤニヤと笑う岡場と目が合った。
「自分が仕事遅かったから残業になったんでしょ、自分が使えないツケを会社に払わせるとか、どんだけ非常識なの?」
「……はぁ、そうですか。じゃあ、今の時間を本来の退勤時間として記録しておきますね、お疲れ様でした」
勤務初日からこちら、『それやっちゃアカン』という事しか岡場はしていない。麻雀だったらどれだけ翻を重ねているのか、役満で言えばダブルかトリプルかそれ以上か。社会人歴は自分よりも長いのだろうが、社会性も常識も身につける機会は無かったらしい。
今日は三日目の木曜日、一緒に仕事をする機会は恐らく明日だけになるのだろうが、明日は明日でまた楽しませてくれそうだ、そう思いつつ涼子はもう一度
「お疲れ様でした、失礼します」
と、そう言って会釈をして事務所を出て行った。
「おはようございます」
そう挨拶しつつ向かうのはタイムカードを差し込んである壁掛け式のカードラック、そこから『高橋洋子』と書かれている自分のカードを取り出すと、流れる様な動きでレコーダーへと差し込んだ。
ピッという電子音とガーッという機械音、吐き出されて戻って来たカードには『07:44』の印字。その印字を確認してラックへと戻したのと、岡場の
「まだ八時になってないのに何やってんの!?朝礼に時給発生するわけ無いでしょ!!」
という、だみ声とも金切り声ともつかない不快な大声。
「え?朝礼も業務の一環なんですから時給発生しますよね?早く出て来るのは構いませんけど、その分のお金は貰いますよ?」
にっこり笑ってそう言えば、言い返されるとは思っていなかったのだろう、顔を真っ赤にして涼子を睨み付ける。
「営業所長に確認されては如何ですか?まぁ所長がどう言おうと請求はしますけど」
左眉と左口角を持ち上げての笑顔、見ている方としてはさぞかし虚仮にされた気分になるだろう。これだけ煽ってやればこの馬鹿は確実に所長の松川へと話を持って行くに違い無い、そうすれば松川のスタンスについても多少は分かるだろう。
「はい、朝礼始めます」
と、そこに松川の声が響き、岡場は涼子を睨み付け舌打ちをしながら自席へと戻って行く。涼子も自席へと荷物を置いて松川の方へと向き直れば、
「おはようございます」
という言葉の後、本日の伝達事項を松川が読み上げ始めた。松川の後は特に決まった発言の順番が有るわけではないらしく、その時々で情報の共有をしておきたい者が軽く挙手をし周知する。そうして八時を目安に話を纏め、松川の
「それでは、今日も一日よろしくお願いします」
という言葉を受けて解散となるのが恒例の様だった。その後はタイムレコーダーの前に並んで打刻の順番待ち、パートも社員も一つのレコーダーを使う為に長蛇の列となる。その打刻には明確な序列が有るらしく、社歴の順でないと駄目らしい。一番最初は岡場、なるほど事実上のこの営業所の支配者は彼女なのだろう。その後は社員が社歴順に打刻しその後が事務方のパート達。
(確かこの会社一分単位で時給支給してるって雅弘言ってたけど……これじゃ八時を何分も過ぎてからしか打刻出来ないパート達は毎日数分分の給料を貰い損ねてるわけか……チリツモじゃね?)
どうせほんの数日しかいない予定で、そもそも給与の支払いを受ける予定も無い涼子には関係の無い話だが、下位のパート達の事を考えると同情を禁じ得ないなと思いつつ越川へと
「今日は何をすれば良いですか?」
そう声を掛けた。しかし越川の返事の歯切れは悪く、
「うん……ちょっと待ってて?」
と言うだけで、しかも視線は涼子の後方へと向けられている。一体何なんだと涼子が振り返れば、そこには松川を取り囲み何やら言い募る岡場、篠塚、林の三人。どうやら涼子が八時前に序列も守らず打刻した事について言い募っているらしく、時折
「新人が」
だの
「非常識だ」
だのと言った言葉が途切れ途切れに聞こえて来る。
しかし松川の反応はと言えば極端に鈍く、時折ちらちらと涼子の方を見ながら何とか三人を宥めるのに腐心している様子だ。それはそうだろう、朝礼前の岡場との遣り取りは松川にも聞こえていた筈で、あれだけ『拘束された分のカネは貰う』とハッキリ言う人物を不用意に責め立てれば、退勤後どころか昼休憩の時にでも労基に電話をされるか駆け込まれるかされかねない。さりとて伏魔殿に蠢く魑魅魍魎に常識が通じるとは思っていない事も明白で、保身の為には双方を曖昧に誤魔化しておくしか無いのだろう。
それを行使するかどうかはともかくとして、松川は一定の良識と常識は持ち合わせている様子で、その上保身をその他の事に優先させて考えている小物でもある。どうやら、潜入が完了し土屋自ら詰問する日が来たとしても、松川が岡場達を売り渡す公算は大きいと見て良いだろう。
涼子が頭の中で算盤を弾いている間に一応話は終わったのか、岡場が手下二人を引き連れてこちらへと戻って来る。その彼女がこちらを見て口元をいやらしく歪めて笑いながら着席する様子を見て、どうやら適当に丸め込まれた様子だなと、そんな事を考えた。
越川が言い淀んでいたのは松川と岡場達の話が終わったらそのまま涼子へと絡んで来ると思っていたからなのか、予想が外れた越川は少々戸惑った様子を見せたものの、
「あ、じゃあ、今日も伝票の処理と電話応対をお願いします」
軽くそう説明して涼子に伝票の束を渡し、彼女は彼女で自分の仕事へと取り掛かる。涼子はそれを受け取り仕分けを始めながら、今日はどんな風に動こうか、と、そんな事を考えた。
その後暫くすると岡場が荷物を纏め始め、
「郵便局と銀行と□□営業所行って来るから、よろしくね。午後には戻ります」
そう告げて事務所を出て行く。書類や封書等を入れていた紙袋の口からは昨日自分が即決購入した商品が緩衝材で巻かれた状態で入っているのが見え、外出ついでに発送かよ仕事しろよ、と、思わずツッコミを入れてしまう。そうして岡場が出て行った後は五分程は引き続き伝票処理をしていたが、不意に
「高橋さんさぁ」
と篠塚に声を掛けられ、処理の手を止め顔を上げ、篠塚の方へと向き直った。
「はい、何でしょうか」
「岡場さん凄く怒ってるよ、ちゃんと謝りな?」
「そうだよ、高橋さんが非常識なんだから、ちゃんとした方が良いよ?あたし達も意地悪で言ってるわけじゃなくてさ、高橋さんの事を思って言ってあげてるんだよ?」
篠塚に続いて口を開いたのは林、二人揃って嫌な笑いを浮かべながら涼子を見ており、他の面々はそれを否定する事も無く各々の仕事を続けている。
「朝の件ですよね?法的には岡場さんが間違ってますよ、判例も有ります。それに、所長は私には何も言ってませんけど、それ、実際どうなのかって分かってるからじゃないですか?揉め事になったら岡場さんの独断とか言いかねないと思いますけど」
涼子が言い返すとは思っていなかったのか動きも言葉も止まる二人、涼子はその様子を見て内心で笑いながら言葉を続ける。
「それに……これとは関係無いんですけど……あの、岡場さん、仕事中にもちょくちょく煙草休憩とってるじゃないですか、私がお昼頂いてる時にも休憩室の喫煙所来るんですけど……その時、昨日も一昨日も電話してて。その時に、あの、皆さんの事……その……長くいるだけで碌に使えないとか、役立たずとか、いない方がマシとか色々言ってるんですよね……それで、戻る時に私に『余計な事言うなよ』って……皆さんお仕事頑張ってるのに、何であんな言い方するのかなって。何か誤解が有るんじゃないですか?」
職場での力関係の上に成り立っている互いの繋がり、強い信頼が有るわけでもなく、社歴の長さと性格の陰湿さによって無理矢理成立させている不確かな関係。そんなものは、一つ二つ『不和の種』を放り込んで少々の水を掛けてやれば、簡単に亀裂が入り、そして、最初は僅かで小さかったそれは直ぐに目視出来る程大きくなる事を涼子はよく理解している。
「え……何、適当な事……」
「言ってましたよ、嘘吐いてもしょうがないじゃないですか」
これが決定打になるわけではない。
それでも、事を有利に運ぶ為に打つ石は一つでも多い方が良い。そして、後はそれを回収するタイミングを虎視眈々と狙い続ければ良い。
静かに、しかし確実に広がり始めた不信の蠕動。涼子はその様子を見て小さく笑いながら、
「あの、でも、皆さんの事言ってたわけじゃないかも知れませんよね、名前は出てなかった気がしますし。仕事、しますね」
と、それだけ言って処理業務へと戻って行った。
そして昼休みに入る少し前にフリマアプリに登録しているメールアドレスに購入商品の発送通知が届き、それを見て
(仕事しろよババア)
と毒を吐きつつ昼食を摂る。そしていつも通りに休憩時間を過ごした後事務所へと戻れば、それから二時間程経ってから岡場が漸く事務所へと戻って来た。事務所内の微妙な空気には気付かないらしく、相変わらず涼子の方を見てはあれがなっていないこれが駄目、非常識だの使えないだの、言いたい放題。そして他の事務方に対しても元々決して優しく親しみを以て接しているわけでもないらしく、自分の思い通りに事が動いていないと直ぐに口調がきつくなる。
岡場が涼子に言う度にそこに存在するフレーズが事務方達の中に淀んだ澱の様に溜まって行く。そして自分達にも向けられる負の感情、それは淀みを益々加速させ強化し始め、涼子はその様子をちらちらと盗み見ながら、ひどく満足した様な笑みを唇の端にうっすらと浮かべた。
実際のところ、岡場が喫煙所で事務方達を悪し様に言っていたという事実は無い。自分の前を通り過ぎる時に見下し切った眼差しを向ける、その程度のものだった。しかし、彼女の振る舞いを見ていれば事務方達に対して恐怖政治を敷いていたのは明らかで、阿る者も何も言わず従う者もそれに対しての不信感は存在していたに違い無いのだ。それをほんの少し刺激してやれば、後は岡場が勝手に成長させ増大させてくれる、自分はその切っ掛けの石を置いたに過ぎない。
そうやって事務所内の重苦しい空気を楽しみつつ仕事を続け、伝票の処理が思った以上に多かった為か三十分程残業になった。その上今日は横領に関しての情報を集める事は殆ど出来なかったが、それでも人間関係に石をブチ込んで混乱する様を観察出来たのは楽しかった、そう思いつつ立ち上がりタイムカードを打刻しようとした涼子の動きは、手にしたカードの印字を見た瞬間に停止した。
「……あの、タイムカード、誰か間違えて私のを通しちゃったみたいなんですけど」
本来であれば空欄である筈の今日の退勤時刻欄、そこには既に『17:00』とはっきりと打刻されており、誰が間違えたのかと振り返れば、鼻の穴を広げてニヤニヤと笑う岡場と目が合った。
「自分が仕事遅かったから残業になったんでしょ、自分が使えないツケを会社に払わせるとか、どんだけ非常識なの?」
「……はぁ、そうですか。じゃあ、今の時間を本来の退勤時間として記録しておきますね、お疲れ様でした」
勤務初日からこちら、『それやっちゃアカン』という事しか岡場はしていない。麻雀だったらどれだけ翻を重ねているのか、役満で言えばダブルかトリプルかそれ以上か。社会人歴は自分よりも長いのだろうが、社会性も常識も身につける機会は無かったらしい。
今日は三日目の木曜日、一緒に仕事をする機会は恐らく明日だけになるのだろうが、明日は明日でまた楽しませてくれそうだ、そう思いつつ涼子はもう一度
「お疲れ様でした、失礼します」
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