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第221章『幻影』
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第221章『幻影』
仕事の過酷さからか昔から月経は不順がちで、結婚してもそれは変わらなかった。自分自身は積極的に子供が欲しいと思っていたわけではないが夫は切望していて、特に避妊はせず、身籠ったら前線からは遠ざかろうと、そんな約束を夫と交わした。
『男も女もどっちも欲しいな、いっその事いっぺんに産んでくれない?しかも複数回。俺、子沢山に憧れてたから最低でも五人は欲しいんだよね』
『いや……人数はともかく双子は産もうと思って出来る事じゃないしそれ』
『顔はどっちに似ても良いな、性格は……タカコさんの優しいところは是非とも受け継いで欲しいけど、無鉄砲で人の話聞かないところはちょっとなぁ、後口が悪いところも似ないで欲しい』
『おま……自分が選んだ嫁に対して酷い言い草だな』
『タカコさん一人だけなら俺が何とか手綱取れるけど、それが六人になったら流石に無理だよ。タカコさんといちゃいちゃする時間削られるのも嫌だし』
『…………』
『あ、赤くなった。本当に分かり易いよね、あんた』
『うるせぇ……プレッツェル喉に詰まらせろお前なんか』
『いやぁそれ程でも』
『褒めてねぇよ馬鹿』
『タカコさん?』
『……何』
『愛してるよ、何よりも』
『…………』
『あ、また赤くなった。トマト?林檎?本当に可愛いよ』
休日には二人きりで抱き合って過ごし、まだ見ぬ我が子との生活を想像し数え切れない程に語り合った。胸が締め付けられる様な、泣きたくなる位に幸せだった日々。
鋭い痛みに現実に引き戻される、腕に食いついた活骸、体格からしてどう考えても年端もいかない幼い子供。互いの身体の間に膝を入れて思い切り突き放せば思いの外軽く吹き飛び、タカコは食いつかれた右腕を見遣り、直ぐに視線を前方へと戻す。筋は傷めていない、まだ銃もナイフも扱える、まだ、戦える。
その筈なのに何故自分はこんなにも身体が強張っているのか、恐怖にも似た感覚に支配されているのか、何故、震えが止まらないのか。
飛び掛かる様子を窺う小さな活骸が一体、また一体と増えて行く、早く無力化して凛の安全を確保しなければならないという事は分かっているのに、心臓が激しく鼓動を打ち息が荒くなるばかりで身体は指先すら碌に動かない。筋を傷めていない事だけは何とか確認したが、そんな物理的な問題ではなく、何か途轍も無く重いものが自分へと覆い被さっている様だ、タカコはそんな事を意識の片隅で考えた。
活骸の一体が飛び掛かって来たのはその直後、食い付かれ出血している右腕目掛けて飛び込んで来てそこへ再度食い付かれ、しまった、反応が遅れたと思った時には既に遅く、左手に握ったナイフを突き立てようとしたものの食い付きながら上を向いた活骸と目が合った瞬間僅かに躊躇し、その隙に左腕にも食い付かれ、如何に小柄な活骸と言えども二体同時に襲い掛かられてはタカコも一溜まりも無く玄関へと押し倒された。
それを合図に襲い掛かって来る残りの数体、首と頭部だけはと食いつかれた腕を何とか持ち上げて庇うものの、がら空きになった両脚へと食い付かれ、戦闘服の裂ける音と、ぶつり、がりりという、皮膚に鋭い歯が突き立てられそれが横に滑り皮膚を裂く感触が伝わって来る。
拙い、拙い、身体が動かない、凛を護らなければいけないのに、動け、動けと心の中で自分に対して怒鳴りつけるものの身体は少しも自由にならず、それでも必死に自由を取り戻そうともがき続け、どうにか手にした拳銃を数発発射して一体の喉元に銃弾を叩き込んだ。力を失いぐにゃりと倒れこんで来る小さな身体、その感触に吐き気すら感じつつ必死で身体を捩り残りを何とか弾き飛ばす。
肩でどころか全身を使って呼吸をしながら身体を起こせば、足元には活骸の小さな死体が一つ、目の前には口元から鮮血を垂らす活骸が数体と、その後ろで耳障りな奇声を上げるものが数体。その全てが自分よりも小さな子供で、タカコはその状況を把握した時、自らの死を明確に予感した。
『子供』を、護りたかった。
『母親』を、護りたかった。
私は、何も、護れない――
身体から力が抜けて行く、目の前で大きく開けられる幾つもの口、その中に並ぶ鋭い歯、自分を見る沢山の濁った目、それが段々と変わっていく。向けられるのは笑顔、瞳をきらきらと輝かせ頬を染め、抱っこをせがむ様にして両手を広げて駆け寄って来る子供達。
夫と何度も話し思い描いていた幸せな未来、それに無意識に両手を広げ彼等を迎え入れようとした瞬間、鋭い一声がタカコの耳朶を打ち、彼女を現実へと乱暴に引き戻す。
「多佳子さん!伏せて下さい!!」
凛の声、おっとりした彼女からは想像もつかない程に鋭く芯の通った声に抗う事もせずに身体を倒せば、顔の直ぐ脇を鋭い何かが走り抜けて行く。何を、そう思った直後飛んで行った方向から上がったのは血飛沫と叫び、そちらへと視線を遣れば首に刃を叩き込まれ崩れ落ちる活骸が一体。その刃は直ぐに引かれそれが下がって行った方向を見上げれば、そこには眦を決し薙刀を一振り構えた凛がいた。
「私も……鬼の孫です!!」
言葉の意味は分からない、けれど、小さな命をその身に宿した母親が毅然と立ち敵に向かう様、神々しさすら感じさせるその姿はタカコの身体に動きを取り戻させるには充分だった。
「凛ちゃん……下がってて!私なら大丈夫、掃討部隊が来る迄持ち堪えて見せるから、凛ちゃんは子供の為に下がってて!!」
心配の言葉を掛けようとする凛、その彼女を鋭い視線で往なしてタカコは再び前を向く。手も足も筋は傷めていない、大丈夫、戦える、そう自分に確認し、銃とナイフをしっかりと握り直し地面を蹴る。
この子供達はもう救えない、殺して楽にしてやるしか方法は無い。今迄関わりの無かったこの子達よりも、凛と彼女に宿った命の方が自分には大切なのだ。
『Please forgive me..., please...』
けれど、それが正しいのだと、少なくともそれが最善なのだと分かっていても心臓が痛い、心が悲鳴を上げる。銃弾を撃ち込む度に、ナイフを突き立てて首を抉る度に悲鳴が、泣き声が聞こえる、助けを求める叫びが聞こえる。
気配を察知して次々と現れる小さな活骸、それを殺し続けるタカコの双眸からはいつの間にか涙が溢れ頬を濡らし、放つ怒号は悲鳴とも泣き声ともつかず。どれだけ殺し続けたのかいつしか周囲からは活骸の姿も気配も消えていた。
動くものの無くなった界隈、タカコは虚ろな眼差しでそれを見詰めゆっくりと歩き出す。高根の自宅へと戻って来て玄関先で戸を叩き凛の名を呼べば中から飛び出して来た凛に誘われて中へと入り、そこで力尽きたかの様にがっくりと三和土へと崩れ落ちる。
「多佳子さん!大丈夫ですか!?」
焦った様な凛の問い掛けに返事は無く、様子を見ようと脇へと膝を突いた凛をタカコは何も言わずに抱き付いた。そして、何かを押し留めていた堰が決壊したかの様に声を上げて泣き始め、凛は一瞬焦りはしたものの何も言わずにそっと抱き締めた。
仕事の過酷さからか昔から月経は不順がちで、結婚してもそれは変わらなかった。自分自身は積極的に子供が欲しいと思っていたわけではないが夫は切望していて、特に避妊はせず、身籠ったら前線からは遠ざかろうと、そんな約束を夫と交わした。
『男も女もどっちも欲しいな、いっその事いっぺんに産んでくれない?しかも複数回。俺、子沢山に憧れてたから最低でも五人は欲しいんだよね』
『いや……人数はともかく双子は産もうと思って出来る事じゃないしそれ』
『顔はどっちに似ても良いな、性格は……タカコさんの優しいところは是非とも受け継いで欲しいけど、無鉄砲で人の話聞かないところはちょっとなぁ、後口が悪いところも似ないで欲しい』
『おま……自分が選んだ嫁に対して酷い言い草だな』
『タカコさん一人だけなら俺が何とか手綱取れるけど、それが六人になったら流石に無理だよ。タカコさんといちゃいちゃする時間削られるのも嫌だし』
『…………』
『あ、赤くなった。本当に分かり易いよね、あんた』
『うるせぇ……プレッツェル喉に詰まらせろお前なんか』
『いやぁそれ程でも』
『褒めてねぇよ馬鹿』
『タカコさん?』
『……何』
『愛してるよ、何よりも』
『…………』
『あ、また赤くなった。トマト?林檎?本当に可愛いよ』
休日には二人きりで抱き合って過ごし、まだ見ぬ我が子との生活を想像し数え切れない程に語り合った。胸が締め付けられる様な、泣きたくなる位に幸せだった日々。
鋭い痛みに現実に引き戻される、腕に食いついた活骸、体格からしてどう考えても年端もいかない幼い子供。互いの身体の間に膝を入れて思い切り突き放せば思いの外軽く吹き飛び、タカコは食いつかれた右腕を見遣り、直ぐに視線を前方へと戻す。筋は傷めていない、まだ銃もナイフも扱える、まだ、戦える。
その筈なのに何故自分はこんなにも身体が強張っているのか、恐怖にも似た感覚に支配されているのか、何故、震えが止まらないのか。
飛び掛かる様子を窺う小さな活骸が一体、また一体と増えて行く、早く無力化して凛の安全を確保しなければならないという事は分かっているのに、心臓が激しく鼓動を打ち息が荒くなるばかりで身体は指先すら碌に動かない。筋を傷めていない事だけは何とか確認したが、そんな物理的な問題ではなく、何か途轍も無く重いものが自分へと覆い被さっている様だ、タカコはそんな事を意識の片隅で考えた。
活骸の一体が飛び掛かって来たのはその直後、食い付かれ出血している右腕目掛けて飛び込んで来てそこへ再度食い付かれ、しまった、反応が遅れたと思った時には既に遅く、左手に握ったナイフを突き立てようとしたものの食い付きながら上を向いた活骸と目が合った瞬間僅かに躊躇し、その隙に左腕にも食い付かれ、如何に小柄な活骸と言えども二体同時に襲い掛かられてはタカコも一溜まりも無く玄関へと押し倒された。
それを合図に襲い掛かって来る残りの数体、首と頭部だけはと食いつかれた腕を何とか持ち上げて庇うものの、がら空きになった両脚へと食い付かれ、戦闘服の裂ける音と、ぶつり、がりりという、皮膚に鋭い歯が突き立てられそれが横に滑り皮膚を裂く感触が伝わって来る。
拙い、拙い、身体が動かない、凛を護らなければいけないのに、動け、動けと心の中で自分に対して怒鳴りつけるものの身体は少しも自由にならず、それでも必死に自由を取り戻そうともがき続け、どうにか手にした拳銃を数発発射して一体の喉元に銃弾を叩き込んだ。力を失いぐにゃりと倒れこんで来る小さな身体、その感触に吐き気すら感じつつ必死で身体を捩り残りを何とか弾き飛ばす。
肩でどころか全身を使って呼吸をしながら身体を起こせば、足元には活骸の小さな死体が一つ、目の前には口元から鮮血を垂らす活骸が数体と、その後ろで耳障りな奇声を上げるものが数体。その全てが自分よりも小さな子供で、タカコはその状況を把握した時、自らの死を明確に予感した。
『子供』を、護りたかった。
『母親』を、護りたかった。
私は、何も、護れない――
身体から力が抜けて行く、目の前で大きく開けられる幾つもの口、その中に並ぶ鋭い歯、自分を見る沢山の濁った目、それが段々と変わっていく。向けられるのは笑顔、瞳をきらきらと輝かせ頬を染め、抱っこをせがむ様にして両手を広げて駆け寄って来る子供達。
夫と何度も話し思い描いていた幸せな未来、それに無意識に両手を広げ彼等を迎え入れようとした瞬間、鋭い一声がタカコの耳朶を打ち、彼女を現実へと乱暴に引き戻す。
「多佳子さん!伏せて下さい!!」
凛の声、おっとりした彼女からは想像もつかない程に鋭く芯の通った声に抗う事もせずに身体を倒せば、顔の直ぐ脇を鋭い何かが走り抜けて行く。何を、そう思った直後飛んで行った方向から上がったのは血飛沫と叫び、そちらへと視線を遣れば首に刃を叩き込まれ崩れ落ちる活骸が一体。その刃は直ぐに引かれそれが下がって行った方向を見上げれば、そこには眦を決し薙刀を一振り構えた凛がいた。
「私も……鬼の孫です!!」
言葉の意味は分からない、けれど、小さな命をその身に宿した母親が毅然と立ち敵に向かう様、神々しさすら感じさせるその姿はタカコの身体に動きを取り戻させるには充分だった。
「凛ちゃん……下がってて!私なら大丈夫、掃討部隊が来る迄持ち堪えて見せるから、凛ちゃんは子供の為に下がってて!!」
心配の言葉を掛けようとする凛、その彼女を鋭い視線で往なしてタカコは再び前を向く。手も足も筋は傷めていない、大丈夫、戦える、そう自分に確認し、銃とナイフをしっかりと握り直し地面を蹴る。
この子供達はもう救えない、殺して楽にしてやるしか方法は無い。今迄関わりの無かったこの子達よりも、凛と彼女に宿った命の方が自分には大切なのだ。
『Please forgive me..., please...』
けれど、それが正しいのだと、少なくともそれが最善なのだと分かっていても心臓が痛い、心が悲鳴を上げる。銃弾を撃ち込む度に、ナイフを突き立てて首を抉る度に悲鳴が、泣き声が聞こえる、助けを求める叫びが聞こえる。
気配を察知して次々と現れる小さな活骸、それを殺し続けるタカコの双眸からはいつの間にか涙が溢れ頬を濡らし、放つ怒号は悲鳴とも泣き声ともつかず。どれだけ殺し続けたのかいつしか周囲からは活骸の姿も気配も消えていた。
動くものの無くなった界隈、タカコは虚ろな眼差しでそれを見詰めゆっくりと歩き出す。高根の自宅へと戻って来て玄関先で戸を叩き凛の名を呼べば中から飛び出して来た凛に誘われて中へと入り、そこで力尽きたかの様にがっくりと三和土へと崩れ落ちる。
「多佳子さん!大丈夫ですか!?」
焦った様な凛の問い掛けに返事は無く、様子を見ようと脇へと膝を突いた凛をタカコは何も言わずに抱き付いた。そして、何かを押し留めていた堰が決壊したかの様に声を上げて泣き始め、凛は一瞬焦りはしたものの何も言わずにそっと抱き締めた。
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