16 / 60
第2章:天才たちと盗賊団
第16話 達人の見識と隠された力
しおりを挟む夜の闇が、瑠璃色の絵の具をほんの数滴垂らしたかのように、ゆっくりと薄まっていく。そんな空の階調の変化を、世界の誰よりも早く知るのは、東の山の稜線を縁取る一本一本の木々の梢だろう。冷たく澄み切った夜の名残をその身に纏いながら、夜明け前の静寂の中でじっと息を潜めている。やがて、稜線の向こう側から、まだ目には見えない太陽の存在を予感させる、白金の光が滲み始める。それはまるで、巨大な和紙の裏から、誰かが静かに灯りを掲げたかのような、柔らかく、そして荘厳な光の気配だった。
村は、まだ深い眠りの底に沈んでいる。土壁の家々が寄り添うように立ち並び、その屋根には夜露が真珠の粒のように無数に光っていた。ひんやりとした空気が、昨日の日中に土や草木が放った熱の名残をすっかりと洗い流し、世界を生まれたての赤子のように清浄な状態へとリセットしていく。鶏小屋の奥で、気の早い一番鶏が、まだ少し眠たげな、しかし誇らしげな第一声を上げた。その声が、静寂という名の湖に投げ込まれた小石のように、小さな波紋を広げていく。それに呼応するように、あちこちの軒先で、小鳥たちがちゅるちゅると囁くような歌の練習を始めた。
俺、リヒトは、宿の固いベッドの上でその気配を感じながら、できることならこのまま世界が動き出さないでくれと、柄にもなく祈っていた。昨日の酒場で出会ったあの胡散臭い着流しの親父、十兵衛とかいう剣豪。彼の存在が、俺の心の平穏という名の繊細なガラス細工に、見事なヒビを入れてくれたのだ。あの男、ただのエロ親父ではない。チンピラを吹き飛ばしたあの太刀筋、あれは間違いなく本物だ。本物というのは、いつだって面倒事を連れてくる。俺がこの世界で最も避けたいものランキング、堂々の第一位である。
(頼むから、今日の昼過ぎくらいには村を出て、俺たちのことなんか綺麗さっぱり忘れてくれ…)
そんな俺の儚い願いは、宿の廊下をミシミシと軋ませながら近づいてくる、遠慮という概念を母親の腹の中に置き忘れてきたような足音によって、無慈悲に粉砕されることとなる。
ドン!ドン!ドン!
俺たちの部屋の扉が、攻城兵器による攻撃かと見紛うほどの勢いで叩かれた。
「おい、若いの!とっくに夜は明けてるぜ!いつまで寝ぼけてやがる!日の光を浴びねえと、きのこが生えるぞ!」
十兵衛の、朝から無駄に張りのある大声が、壁を震わせ、俺の鼓膜を直接殴りつけてくる。隣の部屋からは、サラとセシリアの「ひゃっ!」「な、何事ですの!?」という可愛らしい悲鳴が聞こえてきた。グラン爺とカインの部屋は…まあ、あの二人は動じないだろう。
俺は重い体を起こし、寝癖で芸術的なオブジェと化した頭を掻きながら、渋々扉を開けた。そこに立っていたのは、朝日を背に浴びて妙な後光を放ちながら、口の端に人の悪い笑みを浮かべた十兵衛だった。その手には、どこから調達してきたのか、人数分の朴訥な木刀が握られていた。
「へっへっへ。お前さんたち、昨日はなかなか骨があるところを見せてもらった。礼と言っちゃあなんだが、このわしが直々に稽古をつけてやる。ありがたく思え。さあ、とっとと広場に来やがれ!」
有無を言わせぬその態度に、俺は天を仰いだ。どうやら、俺の平穏な一日は、始まる前に終わりを告げたらしい。
◇
村の中央に位置する広場は、朝の光をたっぷりと吸い込んで、きらきらと輝いていた。夜露に濡れた短い草が、朝日を受けて銀色に光り、踏みしめるたびに土の柔らかい感触と、青々しい草いきれの匂いが立ち上ってくる。広場の隅には、この村の歴史をずっと見守ってきたであろう、巨大な樫の木がどっしりと根を張り、その無数の葉が、吹き抜ける涼やかな風にさわさわと音を立てていた。空は一点の曇りもなく、突き抜けるような青色だ。こんな清々しい朝に、好き好んで汗を流そうというのだから、世の中には物好きな人間もいたものである。
「さて、と」
十兵衛は、仁王立ちで俺たちを見渡すと、満足そうに頷いた。
「まずは、そこの別嬪さんからだ。ほれ、木刀を構えてみろ」
指名されたのは、セシリアだった。彼女は「はいっ!」と元気よく返事をすると、緊張した面持ちで木刀を両手でぎゅっと握りしめた。その姿は、初めての遠足に心を躍らせる子供のようで、微笑ましいやら不安やらで、見ているこっちの胃が痛くなってくる。
サラが隣でこめかみを押さえている。「やめておけ、セシリア。お前の剣は、その…なんだ、前衛的すぎて、常人には理解できん」
「まあ、サラ!失礼ですわ!私もこれでも、毎日素振りは欠かしておりませんのよ!」
セシリアはぷん、と頬を膨らませると、大きく息を吸い込み、気合と共に木刀を振りかぶった。
次の瞬間、広場にいた全員の時間が、数秒間だけ止まった。
セシリアの構えは、構えと呼んでいいものか、専門家の意見が真っ二つに分かれるであろう、斬新なフォームだった。腰は引け、膝は笑い、なぜか片足がつま先立ちになっている。両手で握られた木刀は、今にも手から滑り落ちそうなほど心許なく、その切っ先は、明後日の方向を向いて震えていた。
「えいやっ!」
掛け声と共に振り下ろされた木刀は、美しい放物線…ではなく、泥酔したカモメが千鳥足で飛ぶような、予測不能な軌道を描いて空を切った。ぶん、でも、ひゅっ、でもない。「ふにゃり」という、剣戟の世界では決して耳にすることのない、気の抜けた効果音が広場に響き渡る。その反動で、セシリア自身も「とととっ」と数歩たたらを踏み、危うく尻餅をつきかけた。
サラはもう見ていられないとばかりに、天を仰いでいる。グラン爺は「ふむ…あれは、古流剣術『酩酊流』の型かもしれんな。敵の意表を突く、高度な技じゃ…」と、必死にフォローの言葉を探しているが、無理がありすぎる。ルナだけが、純粋な瞳を輝かせ、「まあ、セシリア様、今の動き、とても軽やかで素敵でしたわ!」と、見当違いの賛辞を送っていた。
俺は思った。これは剣術ではない。これは、概念だ。もはやアートの領域なのだ。常識という名のキャンバスに、「私には剣の才能がありません」というメッセージを、全身全霊で叩きつけているのだ。
ところが、十兵衛の反応は、俺たちの予想とは全く違っていた。
彼は、腕を組み、顎に手を当て、驚くほど真剣な、射るような眼差しでセシリアを見つめている。その瞳には、からかいの色も、呆れの色も一切ない。まるで、極上の宝石を鑑定する鑑定士のような、あるいは、難解な数式を解き明かそうとする数学者のような、純粋な探究心と、微かな興奮の色さえ浮かんでいた。
「…面白い」
ぽつり、と十兵衛が呟いた。
「面白いじゃねえか、嬢ちゃん。もう一度振ってみな」
「は、はい!」
セシリアは、褒められたと勘違いしたのか、ぱあっと顔を輝かせ、先ほどと寸分違わぬ「ふにゃり」を、今度は連続で繰り出した。ふにゃり、ふにゃり。その動きは、もはやラジオ体操と盆踊りを足して二で割り、さらに足元に現れたGに驚いてパニックになったような、混沌の極みであった。
サラが耐えきれずに叫ぶ。「よせ十兵衛さん!こいつをからかうのはやめてやれ!見てるこっちが恥ずか死ぬ!」
「からかう?」
十兵衛は、サラの方をちらりと見ると、心底不思議そうな顔をした。
「何を言ってるんだ。わしは本気で感心してるんだぜ。なあ、嬢ちゃん。お前さん、剣を振る時、何を考えてる?」
「え?ええと…」セシリアは、突然の問いに目をぱちくりさせた。「皆さまをお守りできるよう、強くならなければ、と…」
「違う。そうじゃねえ。振るその瞬間だ。剣の軌道とか、力の入れ具合とか、そういうことを考えてるかと聞いてるんだ」
「い、いえ…?夢中なので、何も…」
その答えを聞いた瞬間、十兵衛の口元が、カッと吊り上がった。それは、獲物を見つけた獣のような、獰猛で、喜びに満ちた笑みだった。
「だろうな!そうじゃなきゃ、あんな剣は振れねえ!」
彼は、俺たちの方に向き直ると、興奮を隠せない様子で言った。
「お前らには、こいつの剣がただのでたらめに見えるだろう。だが、違う。全く違うんだ。よおく見てみろ。あれだけ滅茶苦茶な動きをしているのに、こいつの体の中心、へそからみぞおちにかけての軸は、コンマ一ミリもブレていねえ。そして、その腕や肩、どこにも一切の無駄な力みがない。だからこそ、あの『ふにゃり』とした、常識外れの太刀筋が生まれる」
十兵衛の言葉に、俺たちは改めてセシリアを見た。言われてみれば、たしかにそうだ。動きは奇妙奇天烈だが、その体幹は、まるで地面に根を張った若木のように、しなやかで、そして安定している。
「普通の奴はな、まず『型』を覚えようとする。『正しい剣の振り方』ってやつだ。だが、その瞬間に、心に『我』が生まれる。『こう振らねばならぬ』『こうあるべきだ』という、つまらねえ思い込みだ。その『我』が、体を縛り、剣を鈍らせる。心が体をコントロールしようとするから、動きが硬くなるんだ」
十兵衛は、セシリアを指差した。
「だが、こいつにはそれがない。空っぽだ。空っぽだから、心が体の邪魔をしねえ。体の声、筋肉の声を、そのまま剣に乗せることができる。それは、磨けばどんな宝玉よりも輝く、とんでもねえ才能だぜ」
その言葉は、まるで説法のように、広場に静かに響き渡った。
俺は、驚きと共に十兵衛を見つめた。このエロ親父、ただの達人じゃない。物事の表面を覆う「形」や「常識」といったノイズをすり抜け、その奥にある本質…「あるがままの姿」を、正確に見抜く目を持っている。それは、仏教で言うところの「正見」、正しいものの見方そのものだった。
「こうあるべきだ」という執着(集諦)から苦しみ(うまく振れないという悩み)が生まれる。セシリアには、その執着がない。だから、彼女の剣は、ある意味で完成された「無我」の境地にあるのかもしれない。もちろん、本人は一ミクロンも自覚していないだろうが。
「いいか、嬢ちゃん」十兵衛は、セシリアの肩を叩いた。「お前さんは、下手に型なんざ覚えるな。今まで通り、心のまま、体のままに振り続けろ。それが、お前さんだけの、誰にも真似できねえ最強への道だ」
「は、はいっ!」
セシLリアは、よく分からないまま、しかし褒められたことだけは確信し、満面の笑みで頷いた。その目には、尊敬と、そしてほんのりとした恋心のような光さえ宿っているように見えた。…まあ、相手はエロ親父だが。
一通りセシリアを褒めちぎって満足したのか、十兵衛の矛先は、ついに俺の方へと向いた。
「さて、と。次はあんただ、リヒトの旦那」
「いや、俺はいいって。見てるだけで十分勉強になったから」
俺は全力で辞退しようと、後ずさった。冗談じゃない。俺が木刀を振るなど、核弾頭のスイッチを赤子に預けるようなものだ。どんな惨事が起きるか、想像もしたくない。
「遠慮すんなって。あんた、昨日わしの一撃を見ても、顔色一つ変えなかっただろう。度胸だけは人一倍のようだ。どれほどのもんか、見せてみろ」
「いや、度胸じゃなくて、ただの鈍感なだけだって!」
「リヒト様、なさってくださいまし!」セシリアが、きらきらした瞳で俺を見る。「十兵衛様のお稽古、素晴らしいですわ!」
「そうだぜ、リヒト。セシリアにできて、あんたにできないわけないだろ」サラがニヤニヤしながらけしかけてくる。
完全に、外堀を埋められた。こうなっては、もう逃げられない。
俺は、観念して、重い足取りで木刀を手に取った。ひんやりとした木の感触が、手のひらに嫌な汗をかかせる。
(いいか、俺。落ち着け。これは、ただの棒切れだ。そして俺は、ただの一般人Aだ。力を抜くんだ。完全に、完璧に、力を抜け。息を吐くように、瞬きするように、そこに意志があるのかないのか分からないレベルで、空気を振るんだ。そう、目標は『蚊を殺す』。目の前を飛んでいる、か細い蚊を、そっと追い払うくらいの、そよ風のような一振り。それなら、きっと大丈夫…)
俺は心の中で、般若心経を唱える勢いで自己暗示をかけた。自分という存在を、この世界から限りなく希薄にする。俺はいない。俺は風だ。俺は概念だ。
「いくぜ、旦那」
十兵衛の目が、先ほどとは違う、鋭い光を宿して俺を捉える。
俺は、ゆっくりと息を吸い、そして、吐いた。
その息の流れに合わせるように、本当に、本当に、そっと木刀を振った。
―――音が、なかった。
風を切る音も、腕が唸る音も、何もかも。
世界から、一瞬だけ音が消えた。鳥のさえずりも、葉のざわめきも、仲間たちの呼吸の音さえも、すべてが真空に吸い込まれたかのように。
ただ、俺が振った木刀の切っ先から、ほんの数メートル先の空間が、陽炎のように、わずかに、ゆらりと歪んだのが見えた。
それだけだった。
俺は、心底ほっとした。
(よし!完璧だ!今のは完璧な『無』の一振り!誰にも何も気づかれなかったはず!)
俺が勝利を確信した、そのコンマ数秒後。
広場の隅にそびえ立っていた、あの巨大な樫の木が、
メキ、メキメキメキィッ!!!
という、巨人の背骨が折れるかのような、断末魔の叫びを上げた。
俺を含め、その場にいた全員が、何事かと樫の木に視線を向ける。
樹齢数百年はあろうかという、大人が三人で手を回しても届かないほどの太い幹。その、ちょうど地面から一メートルほどの高さに、まるで巨大な斧で一閃されたかのような、滑らかすぎる切断面が現れ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、ズレ始めていた。
時間は、まるで粘度の高い水飴の中を進むように、引き伸ばされた。
巨大な樫の木の上半分が、自重に耐えきれず、スローモーションで傾いでいく。その葉が、最後のざわめきを立てる。根元から引き剥がされる、無数の太い根の悲鳴が聞こえる。
そして、
ドッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッシン!!!!!!
凄まじい地響きと衝撃波が、広場を揺るがした。
地面が跳ね上がり、土煙が舞い上がる。近くにいた鳥たちが、パニックを起こして一斉に空へと飛び立っていく。
数秒間の、完全な沈黙。
誰もが、今目の前で起きたことが信じられず、ただ呆然と、巨木の亡骸と、そしてその視線の先に立つ俺を、交互に見比べていた。
俺の頭の中は、真っ白だった。いや、白を通り越して、エラーコードが無限に流れ続けるブルースクリーンのような状態だった。
(…え?…は?…なんで?俺、振っただけだぞ?蚊を殺す力で。いや、むしろ蚊にすら気づかれないくらいの優しさで。え、なんで木が倒れてんの?え、あの木、樹齢何年?村のシンボルツリー的なやつじゃないの?弁償とかいくら?っていうか、これ、どう見ても俺のせ…)
パニックで沸騰した思考回路が、一つの結論を弾き出した。
―――言い訳だ!言い訳をするんだ、リヒト!この世のありとあらゆる理不尽を捻じ曲げ、真実を嘘で塗り固め、この危機的状況を乗り切るための、完璧で、創造的で、誰にも論破できない、究極の言い訳を、今ここで生み出すんだ!
俺の顔からサッと血の気が引き、次の瞬間、俺は顔面蒼白のまま、人生最高の、オスカー主演男優賞間違いなしの迫真の演技で、叫んでいた。
「あ、あ、あ、危なかったーーーーーーーっ!!!」
俺は倒れた樫の木に駆け寄ると、その見事な切断面を指差した。
「み、皆さん、見てください!これ!この断面を!なんてことだ…!これは…シロアリです!おびただしい数のシロアリに、中身をスカスカに食い尽くされていたんですよ!」
俺は、ツルツルで滑らかな断面を必死で撫でながら、熱弁を続けた。
「僕が木刀を振った瞬間、ほんのわずかな風圧が起きましたよね?そう、あの、そよ風のような風圧です!本来なら、大木にとっては蚊が止まった程度の衝撃のはず!しかし、この木は、もう限界だったんです!中身が空っぽで、薄皮一枚でかろうじて立っている状態だった!僕の風圧が、最後の、本当に最後の引き金になっただけなんです!つまり!これは事故じゃない!むしろ、僕がこの場で木刀を振らなければ、誰もいない時に突然倒れて、大惨事になっていたかもしれない!そう!これは、不幸中の幸い!いや、もはやファインプレーと言っても過言ではない!僕が、この村を救ったんだ!」
我ながら、完璧な論理のすり替えだった。原因と結果を、あたかも無関係であるかのように飾り立て、偶然の一致を必然の救済劇へと昇華させる。これぞ、現代社会を生き抜くための高等テクニックである。
「ま、まあ!なんてことでしょう!」
最初に食いついたのは、やはりセシリアだった。彼女は、俺の言葉を微塵も疑うことなく、目を潤ませながら手を合わせた。
「リヒト様、すごい発見ですわ!あなた様がいらっしゃらなければ、本当に大変なことになっていました…!」
「リヒト様の周りでは、いつも神様のお導きがあるのですね…」
ルナも、うっとりとした表情で、俺と倒れた木を交互に見つめている。ピュアな心の持ち主は、実に御しやすい。
「いや、しかし…」
サラが、狐につままれたような顔で、俺と木の断面を訝しげに見ている。
「いくらなんでも、タイミングが良すぎるだろ…。それに、シロアリに食われたにしちゃ、断面が綺麗すぎやしないか…?」
「ふむ…」グラン爺も、腕を組んで唸っている。「サラの言うことも一理ある。これほどの巨木を倒す風圧とは、一体…」
まずい。常識人チームが疑念を抱き始めた。だが、俺にはまだ、純粋培養チームという強力な味方がいる!
「サラさん、見てくださいまし!この木屑の細かさ!これこそ、シロアリが食べた証拠ですわ!」
セシリアが、地面の土を指差して力説するが、それはただの土だ。
俺は、この流れに乗るしかないと、さらに言葉を重ねた。
「そうなんだよ、サラ!奇跡ってのは、こうして起こるものなんだ!全ての偶然が、一つの結果に収束する!それが、世界の神秘ってやつさ!」
俺が必死にドヤ顔で語っている間、ただ一人、十兵衛だけが、何も言わずにじっとその光景を見ていた。彼は、俺の言い訳などまるで耳に入っていないかのように、倒れた樫の木、俺が握る木刀、そして、何もない空間に視線を走らせている。彼の目は、微細な空気の揺らぎや、力の残滓といった、俺たちには見えない何かを捉えようとしているかのようだった。
やがて、彼はゆっくりと俺の方に向き直った。その目は、笑ってはいなかった。
彼の内心は、おそらく嵐のような思考が渦巻いていたに違いない。
(…偶然、か。シロアリに食われた木が、あの男が木刀を振った、まさにその瞬間に、寸分の狂いもなく、力のベクトルが向かう方向に倒れる…?そんな都合のいい『縁』が、この世に存在するのか…?)
(いや、違う。あれは…『縁』が重なった、などという生易しいものではない。まるで、川の流れのど真ん中に、巨大な杭を打ち込んだかのようだ。無数の原因と結果の流れを、たった一つの『点』へと強制的に収束させるような…そんな、理不尽なまでの力の行使。あの男が振ったのは、木刀ではない。因果律そのものか…?)
俺は、彼の沈黙に、生きた心地がしなかった。冷や汗が、背中を滝のように流れていく。
やがて、十兵衛は、ふっ、と短く息を吐くと、いつものニヤついた笑みを口元に戻した。
「ふん。とんだ豪運の持ち主だな、あんたは」
彼は、それだけ言うと、倒れた木に背を向けた。
「ま、おかげでいい薪が手に入ったってもんだ。今夜は焚き火を囲んで宴会だな!」
深くは、追及しない。その態度が、逆に俺の心臓を締め付けた。彼は、気づいている。いや、確信に近い何かを掴んでいる。だが、今はそれを問い詰める時ではないと、判断したのだろう。
俺は、その言葉に、全身から力が抜けていくのを感じた。なんとか、乗り切った。いや、乗り切ったというより、見逃してもらった、と言うべきか。
俺の平穏なスローライフは、今日もまた、俺自身の力のせいで、崖っぷちに立たされている。俺は、遠い目をして、真っ青な空を仰ぐしかなかった。その空では、俺の心の中など知らぬげに、鳥たちが楽しそうに飛び交っていた。
1
あなたにおすすめの小説
チートスキルより女神様に告白したら、僕のステータスは最弱Fランクだけど、女神様の無限の祝福で最強になりました
Gaku
ファンタジー
平凡なフリーター、佐藤悠樹。その人生は、ソシャゲのガチャに夢中になった末の、あまりにも情けない感電死で幕を閉じた。……はずだった! 死後の世界で彼を待っていたのは、絶世の美女、女神ソフィア。「どんなチート能力でも与えましょう」という甘い誘惑に、彼が願ったのは、たった一つ。「貴方と一緒に、旅がしたい!」。これは、最強の能力の代わりに、女神様本人をパートナーに選んだ男の、前代未聞の異世界冒険譚である!
主人公ユウキに、剣や魔法の才能はない。ステータスは、どこをどう見ても一般人以下。だが、彼には、誰にも負けない最強の力があった。それは、女神ソフィアが側にいるだけで、あらゆる奇跡が彼の味方をする『女神の祝福』という名の究極チート! 彼の原動力はただ一つ、ソフィアへの一途すぎる愛。そんな彼の真っ直ぐな想いに、最初は呆れ、戸惑っていたソフィアも、次第に心を動かされていく。完璧で、常に品行方正だった女神が、初めて見せるヤキモチ、戸惑い、そして恋する乙女の顔。二人の甘く、もどかしい関係性の変化から、目が離せない!
旅の仲間になるのは、いずれも大陸屈指の実力者、そして、揃いも揃って絶世の美女たち。しかし、彼女たちは全員、致命的な欠点を抱えていた! 方向音痴すぎて地図が読めない女剣士、肝心なところで必ず魔法が暴発する天才魔導士、女神への信仰が熱心すぎて根本的にズレているクルセイダー、優しすぎてアンデッドをパワーアップさせてしまう神官僧侶……。凄腕なのに、全員がどこかポンコツ! 彼女たちが集まれば、簡単なスライム退治も、国を揺るがす大騒動へと発展する。息つく暇もないドタバタ劇が、あなたを爆笑の渦に巻き込む!
基本は腹を抱えて笑えるコメディだが、物語は時に、世界の運命を賭けた、手に汗握るシリアスな戦いへと突入する。絶体絶命の状況の中、試されるのは仲間たちとの絆。そして、主人公が示すのは、愛する人を、仲間を守りたいという想いこそが、どんなチート能力にも勝る「最強の力」であるという、熱い魂の輝きだ。笑いと涙、その緩急が、物語をさらに深く、感動的に彩っていく。
王道の異世界転生、ハーレム、そして最高のドタバタコメディが、ここにある。最強の力は、一途な愛! 個性豊かすぎる仲間たちと共に、あなたも、最高に賑やかで、心温まる異世界を旅してみませんか? 笑って、泣けて、最後には必ず幸せな気持ちになれることを、お約束します。
スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
異世界転移からふざけた事情により転生へ。日本の常識は意外と非常識。
久遠 れんり
ファンタジー
普段の、何気ない日常。
事故は、予想外に起こる。
そして、異世界転移? 転生も。
気がつけば、見たことのない森。
「おーい」
と呼べば、「グギャ」とゴブリンが答える。
その時どう行動するのか。
また、その先は……。
初期は、サバイバル。
その後人里発見と、自身の立ち位置。生活基盤を確保。
有名になって、王都へ。
日本人の常識で突き進む。
そんな感じで、進みます。
ただ主人公は、ちょっと凝り性で、行きすぎる感じの日本人。そんな傾向が少しある。
異世界側では、少し非常識かもしれない。
面白がってつけた能力、超振動が意外と無敵だったりする。
異世界転生おじさんは最強とハーレムを極める
自ら
ファンタジー
定年を半年後に控えた凡庸なサラリーマン、佐藤健一(50歳)は、不慮の交通事故で人生を終える。目覚めた先で出会ったのは、自分の魂をトラックの前に落としたというミスをした女神リナリア。
その「お詫び」として、健一は剣と魔法の異世界へと30代後半の肉体で転生することになる。チート能力の選択を迫られ、彼はあらゆる経験から無限に成長できる**【無限成長(アンリミテッド・グロース)】**を選び取る。
異世界で早速遭遇したゴブリンを一撃で倒し、チート能力を実感した健一は、くたびれた人生を捨て、最強のセカンドライフを謳歌することを決意する。
定年間際のおじさんが、女神の気まぐれチートで異世界最強への道を歩み始める、転生ファンタジーの開幕。
異世界転生特典『絶対安全領域(マイホーム)』~家の中にいれば神すら無効化、一歩も出ずに世界最強になりました~
夏見ナイ
ファンタジー
ブラック企業で過労死した俺が転生時に願ったのは、たった一つ。「誰にも邪魔されず、絶対に安全な家で引きこもりたい!」
その切実な願いを聞き入れた神は、ユニークスキル『絶対安全領域(マイホーム)』を授けてくれた。この家の中にいれば、神の干渉すら無効化する究極の無敵空間だ!
「これで理想の怠惰な生活が送れる!」と喜んだのも束の間、追われる王女様が俺の庭に逃げ込んできて……? 面倒だが仕方なく、庭いじりのついでに追手を撃退したら、なぜかここが「聖域」だと勘違いされ、獣人の娘やエルフの学者まで押しかけてきた!
俺は家から出ずに快適なスローライフを送りたいだけなのに! 知らぬ間に世界を救う、無自覚最強の引きこもりファンタジー、開幕!
《レベル∞》の万物創造スキルで追放された俺、辺境を開拓してたら気づけば神々の箱庭になっていた
夏見ナイ
ファンタジー
勇者パーティーの雑用係だったカイは、魔王討伐後「無能」の烙印を押され追放される。全てを失い、死を覚悟して流れ着いた「忘れられた辺境」。そこで彼のハズレスキルは真の姿《万物創造》へと覚醒した。
無から有を生み、世界の理すら書き換える神の如き力。カイはまず、生きるために快適な家を、豊かな畑を、そして清らかな川を創造する。荒れ果てた土地は、みるみるうちに楽園へと姿を変えていった。
やがて、彼の元には行き場を失った獣人の少女やエルフの賢者、ドワーフの鍛冶師など、心優しき仲間たちが集い始める。これは、追放された一人の青年が、大切な仲間たちと共に理想郷を築き、やがてその地が「神々の箱庭」と呼ばれるまでの物語。
俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる
十本スイ
ファンタジー
俗にいう神様転生とやらを経験することになった主人公――札月沖長。ただしよくあるような最強でチートな能力をもらい、異世界ではしゃぐつもりなど到底なかった沖長は、丈夫な身体と便利なアイテムボックスだけを望んだ。しかしこの二つ、神がどういう解釈をしていたのか、特にアイテムボックスについてはバグっているのではと思うほどの能力を有していた。これはこれで便利に使えばいいかと思っていたが、どうも自分だけが転生者ではなく、一緒に同世界へ転生した者たちがいるようで……。しかもそいつらは自分が主人公で、沖長をイレギュラーだの踏み台だなどと言ってくる。これは異世界ではなく現代ファンタジーの世界に転生することになった男が、その世界の真実を知りながらもマイペースに生きる物語である。
【収納∞】スキルがゴミだと追放された俺、実は次元収納に加えて“経験値貯蓄”も可能でした~追放先で出会ったもふもふスライムと伝説の竜を育成〜
あーる
ファンタジー
「役立たずの荷物持ちはもういらない」
貢献してきた勇者パーティーから、スキル【収納∞】を「大した量も入らないゴミスキル」だと誤解されたまま追放されたレント。
しかし、彼のスキルは文字通り『無限』の容量を持つ次元収納に加え、得た経験値を貯蓄し、仲間へ『分配』できる超チート能力だった!
失意の中、追放先の森で出会ったのは、もふもふで可愛いスライムの「プル」と、古代の祭壇で孵化した伝説の竜の幼体「リンド」。レントは隠していたスキルを解放し、唯一無二の仲間たちを最強へと育成することを決意する!
辺境の村を拠点に、薬草採取から魔物討伐まで、スキルを駆使して依頼をこなし、着実に経験値と信頼を稼いでいくレントたち。プルは多彩なスキルを覚え、リンドは驚異的な速度で成長を遂げる。
これは、ゴミスキルだと蔑まれた少年が、最強の仲間たちと共にどん底から成り上がり、やがて自分を捨てたパーティーや国に「もう遅い」と告げることになる、追放から始まる育成&ざまぁファンタジー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる