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第12話 『蝶の羽ばたきと、街道の賑わい』
しおりを挟むあの丘の上で、復讐という名の重たいドレスを脱ぎ捨ててから、数ヶ月が過ぎた。
空は高く澄み渡り、入道雲の代わりに、秋の訪れを告げるうろこ雲が空のキャンバスを飾っている。風は日ごとに涼やかさを増し、木々の葉は緑から黄色、そして赤へと、静かにその装いを変え始めていた。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインの日常もまた、劇的な変化を遂げていた。かつては王都の政治情勢や、貴族たちのパワーバランスを分析することに費やされていたわたくしの脳細胞は、今や、もっぱら治水と土木工事に関する計算のためにフル稼働している。
「カイル!この水路の勾配、計算上は完璧なはずなのに、どうして水の流れが滞るのですか!?もしや、測量に手違いがあったのではなくて!?」
「お前が昨日、新しい鍬を試したいとか言って、水路のど真ん中に深々と突き刺したせいだろうが」
「あ……」
「『あ』じゃない。お前のせいで、下流の畑で作業していたハンス爺さんの長靴が泥で埋まったんだぞ。後でちゃんと謝りに行け」
「う、うるさいですわね!わ、分かっておりますわよ!これも、より良い領地作りのための、必要不可欠なトライアンドエラーなのですから!」
そう、わたくしは今、「畑の地図」の実現に夢中だった。あの丘の上で描いた、幸福の青写真。それを現実のものにするため、村人たちと共に泥にまみれ、汗を流す日々。それは、驚くほどに充実していた。目の前の問題点を一つ解決すれば、人々の生活がほんの少し良くなる。その手応えは、王宮で交わされるどんな賞賛の言葉よりも、わたくしの心を満たしてくれた。
復讐心は、すっかり鳴りを潜めていた。アルフォンス様のことも、リリアのことも、思い出さないわけではない。だが、それはもう、古い日記を読み返すような、どこか他人事のような感覚だった。今のわたくしの関心は、もっぱら「今年の冬を、領民たちがどれだけ暖かく、腹を満たして過ごせるか」という、極めて現実的で、地に足のついた問題に向けられていた。
わたくしの世界は、この領地の中で完結していた。ここで起きること、ここで生きる人々のこと。それが全てであり、それ以上のことは望んでいなかった。自分の行動が、この小さな世界の境界線を越えて、外にまで影響を及ぼすなど、想像すらしていなかったのだ。
そう、あの日、あの男たちが、この静かな村に土埃を巻き上げながらやってくるまでは。
***
それは、収穫を間近に控えた、ある晴れた日の午後だった。
わたくしが、設計図と睨めっこしながら村の広場で頭を抱えていると、遠くから尋常ではない馬の蹄の音が聞こえてきた。一つや二つではない。何台もの馬車が、こちらに向かってきている。山賊か、あるいは王都からの追手か。一瞬にして緊張が走り、カイルがわたくしの前にすっと立つ。村人たちも、不安げな表情で遠くを見つめていた。
やがて現れたのは、立派な幌がついた、見るからに頑丈そうな四台の馬車だった。そして、その馬から降りてきた男たちの身なりを見て、わたくしはさらに目を丸くした。上質なウールで仕立てられた旅装、腰には装飾の施された短剣、そして何より、その顔つき。彼らは、この辺境の地で暮らす人々とは明らかに違う、富と情報が渦巻く都市の匂いをまとっていた。
「失礼、ここがヴァレンシュタイン様の領地で間違いないかな?」
リーダー格らしい、口髭をたくわえた恰幅のいい男が、尊大だが敵意のない声で尋ねてきた。
「……さようでございますが。どちら様で?」
わたくしが警戒しながら応じると、男はにやりと笑い、こう言った。
「俺たちは、王都と西の商業都市で手広く商売をさせてもらっている者さ。おたくのところで、世にも美味いジャムが作られているって噂を聞きつけてね。直接、商談に来させてもらったというわけだ」
「……ジャム?」
わたくしは、ぽかん、と口を開けたまま、その言葉を反芻した。ジャム。確かに作った。春先に、村の女性たちと、てんてこ舞いになりながら大量に作った。そして、それを月に一度やってくる、うだつの上がらない行商人に、半ば押し付けるようにして買い取ってもらっていたはずだ。
「え……?あの、もしや、行商人のダニエルさんからお聞きに?」
「ダニエル?ああ、あの小男か。最初はあいつがこっそり持ち込んだジャムを、王都の食料品店が買い取ったのが始まりらしい。それがまあ、美味いのなんのって。あっという間に貴族の奥様方の間で評判になってな。最初はひと瓶銀貨三枚だったのが、今じゃ金貨一枚でも買いたいって奴がいるくらいだ。ダニエルめ、こっそり儲けやがって。だが、もうあいつの細々とした供給じゃ追いつかん。だから、俺たちが直接、根こそぎ買い付けに来たってわけさ!」
男は、ガハハと豪快に笑う。
わたくしとカイルは、顔を見合わせたまま、絶句していた。
金貨一枚。
金貨一枚だと?あの、わたくしたちが「まあ、腐らせるよりはマシですわね」くらいの気持ちで、ほとんど投げやりに売っていたジャムが?
「嘘……でしょう?」
「嘘なもんか!さあ、在庫はどこだ!あるだけ全部買い取らせてもらうぜ!」
商人たちが、札束の入った革袋をじゃらじゃらと鳴らしながら迫ってくる。わたくしは、目の前で起きていることが全く理解できず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
わたくしは、この領地の中で、領民の生活を向上させるという、閉じた円の中だけで物事を考えていた。しかし、その円の外側では、わたくしのあずかり知らぬところで、あのジャムがまるで生き物のように、独自の価値を持ち、人々の欲望を掻き立て、ついにはこんな屈強な商人たちを、辺境の果てまで呼び寄せてしまったのだ。
「……なんだか、すごいですわね」
わたくしがようやく絞り出したのは、そんな気の抜けた一言だった。
***
その日を境に、この静かだった村は、まるで何かの魔法にかかったように、その姿を変貌させていった。
王都の商人たちが持ち帰ったジャムは、さらなる評判を呼んだ。すると今度は、彼らのライバルである別の商会の者たちが、「我々も」と馬車を連ねてやってくる。さらには、噂を聞きつけた近隣の村々から、「うちの村で採れた蜂蜜と、そちらのジャムを交換してくれないか」「うちには上等な毛皮がある。何か売れるものはないか」と、人々が続々と集まり始めたのだ。
これまで、ただの空き地でしかなかった村の広場は、いつの間にか、自然発生的な「市場」となっていた。
東の村からは、塩漬けの肉を持った猟師が来た。
西の村からは、手作りの木工品を抱えた職人が来た。
南の農家は、荷車いっぱいの野菜を積んできた。
そこでは、通貨が飛び交い、物々交換が行われ、人々が互いの言葉や訛りを面白がりながら、値段交渉をしていた。誰かが焚き火で簡単なスープを売り始めると、あっという間に行列ができた。あちこちで威勢のいい声と、けたたましい笑い声が上がり、むわっとした人の熱気が、まるで生き物の呼吸のように、広場全体を覆っていた。
「……カイル。わたくし、何もしておりませんわよ」
わたくしは、その喧騒を少し離れた場所から眺めながら、呆然と呟いた。わたくしは、市場を作ろうなどと計画した覚えはない。交易を活性化させる条例を発布したわけでもない。ただ、目の前の光景は、紛れもなく、活気に満ちた「経済活動の誕生」そのものだった。
「当たり前だ」
隣で腕を組んでいたカイルが、静かに言った。
「お前が何かする必要などない。これは、お前が作ったシステムじゃない。勝手に生まれたシステムだ」
「勝手に……?」
「そうだ。ここにいる連中は皆、単純なルールで動いている。『もっと儲けたい』『もっと良い暮らしがしたい』『便利なものが欲しい』。ただそれだけだ。その一人一人のバラバラな欲望が、この場所に集まって相互作用を起こした結果、誰も設計していない『市場』という秩序が、勝手に生まれる。これを自己組織化という」
カイルの言葉は、まるで書物を読んでいるかのように滑らかだった。
「お前は、この複雑な流れを、力でコントロールしようとしてはならん。それは不可能だ。お前がやるべきは、この流れをよく観察し、それがより良く、よりスムーズに流れるように、ほんの少しだけ、手助けをしてやることだけだ」
なるほど。わたくしは、またしても勘違いをしていたのだ。「私」がすべてを計画し、管理し、実行しなければならない、と。しかし、現実は違った。世界は、わたくしという中心がなくても、そこに生きる人々の無数の小さな意志が集まることで、自ら秩序を作り出し、成長していく力を持っている。
この市場の活気は、すぐに次の現象を生み出した。
商人たちは、より多くの、より重い荷物を効率的に運ぶために、この領地へと続く、あの荒れ果てた街道に目をつけたのだ。彼らはなんと、自らの利益のために、自分たちで費用を出し合って、石ころを取り除き、轍をならし、道の脇の草を刈り始めたのである。
かつては、追放されるわたくしが乗る一台の馬車だけが、絶望を乗せて通ったあの寂しい道が、今や、何台もの荷馬車が行き交い、人々の希望と活気が満ち溢れる「街道」へと生まれ変わっていた。
「……蝶の、羽ばたき」
わたくしの口から、前世で読んだ複雑系の本の一節が、ふと漏れた。
辺境の地で作られた、一瓶のジャム。それは、取るに足らない、ささやかな出来事。まるで、蝶の羽ばたきのようなもの。しかし、その小さな動きが、巡り巡って、人々の欲望を刺激し、経済を動かし、ついには物理的な道まで変えてしまった。
この羽ばたきは、いずれ、嵐を呼ぶのだろうか。
「見てみろ、イザベラ」
カイルが指さした先には、王都から来たらしい、小綺麗な身なりをした少女がいた。彼女は、父親に買ってもらったのであろう、わたくしの作った杏子のジャムの瓶を、宝物のように大事そうに抱きしめ、満面の笑みを浮かべていた。
その笑顔は、わたくしが今まで見た、どんな宝石よりも、どんな喝采よりも、美しく輝いて見えた。
ああ、そうか。
わたくしは、自分の行動が生み出す「結果」ばかりを求めていた。富、名声、勝利。しかし、本当に価値があるのは、そんなものではなかったのだ。
自分の行動が、意図しない形で広がり、顔も知らない誰かの、ささやかな日常を彩っている。その「影響の連鎖」こそが、この世界を豊かにし、わたくしの心を、今、こんなにも震わせているのだ。
嵐を起こす必要などない。わたくしが広げたいのは、破壊の嵐ではなく、この少女のような笑顔の連鎖だ。この賑わいを、この活気を、この温かい流れを、もっともっと、遠くまで届けていきたい。
自分の無力さと、そして、自分のささやかな行動が持つ、無限の可能性。その両方を、わたくしは市場の喧騒の中で、全身で感じていた。
夕暮れの光が、人々の顔を、商品を、そして土埃さえも、黄金色に染め上げていく。
わたくしは、大きく息を吸い込んだ。様々な食べ物の匂い、人々の汗の匂い、土の匂い。そのすべてが、愛おしかった。
「さて、カiel!」
わたくしはくるりと振り返り、いつもの調子で、高らかに宣言した。
「感傷に浸っている暇はありませんわよ!まずは、この市場の衛生管理!それから、急ごしらえの交通整理も必要ですわ!見てください、あそこの荷馬車、立ち往生しております!ぼーっとしていないで、働きますわよ、カイル!」
わたくしの言葉に、カイルは一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに、その口元に諦めたような笑みを浮かべた。
「はいはい、仰せのままに。土木作業員の次は、交通整理員か。お前に仕えるのも楽じゃないな」
その軽口に、わたくしは声を立てて笑った。
空には、一番星が瞬き始めていた。わたくしの胸の中にも、新しい、確かな光が灯っていた。
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