婚約破棄で追放された悪役令嬢ですが、前世知識で辺境生活を満喫中。無口な騎士様に溺愛されているので、今さら国に泣きつかれても知りません

カインズ

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第13話 『火傷の手当てと、言えない過去』

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市場が生まれ、街道が賑わいを見せ始めてから、わたくしの日常は、猫の手も借りたいほどの多忙を極めていた。いや、猫の手があったところで、肉球では帳簿もつけられなければ、荷馬車の交通整理もできやしない。やはり、カイルの手がもう二本ほど必要だ。

「イザベラ様!西の村から来た商人が、うちの干し肉の値段に文句をつけてやす!」
「なんですって!?うちの干し肉は、秘伝のハーブと岩塩で三日三晩熟成させた逸品ですのよ!その価値が分からぬ愚か者には、金輪際売る必要はありませんと、そうお伝えなさい!」
「イザベラ!広場の真ん中で荷馬車が泥にはまってるぞ!お前の作った水路のせいで、道がぬかるんでるんだ!」
「なんですって!?あれは完璧な設計のはず……!ああもう!わたくしが自ら行って、物理的に押し出して差し上げますわ!」

日中は市場を駆けずり回り、商人たちの揉め事を仲裁し、衛生管理について口うるさく指導し、夜は帳簿と睨めっこ。まさに、分刻みのスケジュール。公爵令嬢時代よりも、よっぽど忙しいのではないだろうか。
そんな中、わたくしは新たな事業計画に乗り出していた。ジャムや保存食は、どうしても季節が限定される。一年を通して安定した収益を上げるには、新たな主力商品が必要だった。そこで目をつけたのが、「焼き菓子」である。この領地で採れる小麦と、市場で手に入るようになった木の実や蜂蜜を使えば、日持ちのする栄養価の高い菓子が作れるはずだ。

「いいですか、カイル!火の温度と時間、材料の配合!この三つの要素を完璧に制御すれば、理論上は、誰が焼いても同じ味の、最高品質の焼き菓子が完成するはずですの!これぞ、科学的調理法ですわ!」

わたくしは、村の共同カマドの前で、顔をススだらけにしながら熱弁をふるっていた。手には、羊皮紙にびっしりと書き込まれた、完璧なレシピ。しかし、目の前のカマドから出てくるのは、黒焦げの炭の塊か、あるいは生焼けのネチャネチャした物体のどちらかだった。

「お前は、理論でパンを焼くのか」
カイルが、心底呆れかえった声で呟く。
「うるさいですわね!これは、まだデータが不足しているだけ!試行回数を重ねれば、必ずや成功の法則は見つかりますのよ!さあ、次です、次!」

焦る気持ちが、行動を雑にする。熱した鉄の天板をカマドから取り出そうとした、その瞬間だった。いつもなら布を使うはずの手が、何を思ったか、直接、その熱い鉄に触れてしまったのだ。

「―――きゃっ!」

ジュッ、という嫌な音と、皮膚が焼ける匂い。短い悲鳴を上げたわたくしの手のひらに、一瞬にして、焼けつくような激痛が走った。
しまった、と思ったが、時すでに遅し。プライドが邪魔をして、すぐに痛みを隠そうとしてしまう。

「だ、大したことありませんわ!少し熱かっただけですもの!」

しかし、強がってみせたところで、痛みは少しも和らがない。みるみるうちに手のひらは真っ赤に腫れ上がり、脈打つような痛みが、腕を駆け上がってくる。冷や汗が噴き出し、立っているのがやっとだった。
その様子を、カイルは見逃さなかった。彼は一言も発さず、しかし、今まで見たこともないような素早い動きでわたくしの腕を掴むと、半ば強引にカマドの前から引き離し、井戸へと連れて行った。

***

その夜、わたくしは自室のベッドに座り、ズキズキと痛む自分の手を見つめていた。昼間、カイルがすぐに冷たい井戸水で冷やしてくれたおかげで、水膨れは最小限に抑えられたが、それでも熱を持った痛みは、眠ることを許してくれそうになかった。
昼間の喧騒が嘘のように、館は静まり返っている。窓の外では、細い月が、冴え冴えとした光を投げかけていた。

コン、コン。
控えめなノックの音に顔を上げると、カイルが静かに入ってきた。その手には、すり鉢と、緑色のペースト状の何か。

「……村の者に聞いた。火傷に効く薬草だそうだ」

彼はそれだけ言うと、わたくしの隣に無言で腰を下ろした。部屋に、薬草のすうっとした、少しだけ苦い匂いが広がる。
そして、彼はわたくしの火傷した手を取り、その大きな、節くれだった指で、ひんやりとした緑色のペーストを、そっと塗り始めた。

その手つきは、驚くほどに優しく、丁寧だった。まるで、壊れやすいガラス細工にでも触れるかのように。彼の指が触れるたび、焼けつくような痛みの上に、心地よい冷たさがじんわりと広がっていく。
わたくしは、ただ黙って、その様子を見つめていた。
生まれて初めてだったかもしれない。一人の男性から、これほど純粋な「いたわり」を向けられるのは。

アルフォンス様との日々を思い出す。彼との時間は、常に華やかで、熱狂的だった。夜会でのダンス、人々からの賞賛、未来の王妃という輝かしい称号。彼に愛されることは、わたくしの価値そのものだった。だから、常に完璧でなければならなかった。彼の隣に立つにふさわしい、一点の曇りもない宝石でなければならなかった。彼の気を惹きたい、彼を手に入れたい、彼の心を独占したい。それは、自分の価値を確認するための、麻薬のような、焦燥感を伴う「渇望」だった。

でも、今、この時間はどうだろう。
カイルの大きな手が、わたくしの手のひらを包み込んでいる。そこにあるのは、興奮ではない。欲望でもない。ただ、静かで、穏やかで、どこまでも温かい、安らぎ。
手に入れたい、とは思わない。
ただ、この静かな時間が、この優しい沈黙が、できることなら永遠に続けばいい、と。そう、心の底から願っている自分がいた。
これが、なんなのだろう。この、今まで知らなかった、じんわりと胸に広がる感情は。

ふと、彼の手に視線を落とすと、薬を塗ってくれているその手の甲に、白く盛り上がった、大きな古い傷跡があるのに気づいた。それは、剣でつけられたような、深い傷だった。

「……その傷」

わたくしが思わず呟くと、カイルの指が一瞬、ぴくりと止まった。彼の表情が、月明かりの下で、凍りついたように硬くなる。

「……守れなかった勲章だ」

ぽつり、と。絞り出すような、ひどくかすれた声だった。
彼はそれ以上、何も語らなかった。けれど、その一言と、普段の彼からは想像もつかないほどに深い悲しみを湛えた横顔が、すべてを物語っていた。
彼は、騎士だった頃、守るべき誰かを、おそらくは仲間を、その腕の中で失ったのだ。この傷は、その時の記憶。決して癒えることのない、彼の心の痛みそのものなのだ。
いつも冷静で、皮肉屋で、何者にも動じない鋼のような男。わたくしが今まで見ていたのは、彼のほんの一面に過ぎなかった。その強さの鎧の下に、こんなにも生々しく、痛々しい傷を隠し持っていたなんて。

その瞬間。
わたくしの心に、まるで啓示のように、一つの強い感情が雷のように突き抜けた。
それは、恋ではなかった。
アルフォンス様に抱いていたような、胸を焦がす熱い想いではない。
ただ、ひたすらに。
この人の痛みを、少しでも和らげることができたなら。
この人の心の傷に、そっと、この手を当ててあげることができたなら。

見返りなど、何もいらない。彼にどう思われようと、構わない。ただ、目の前にいる、傷ついた一人の人間の苦しみを、分かち合いたい。そう、強く、強く願っていた。

わたくしは、何も言わなかった。
ただ、火傷をしていない方の自分の手を、彼の傷跡のある大きな手の上に、そっと重ねた。

びくり、とカイルの肩が揺れた。彼は驚いたように顔を上げ、わたくしを見た。月明かりが、彼の深い色の瞳を照らし出す。その瞳の中に、戸惑いと、驚きと、そしてほんの少しの、救われたような光が揺らめいたのを、わたくしは見た。

言葉は、必要なかった。
どんな雄弁な愛の言葉よりも、どんな情熱的な抱擁よりも、この静かな沈黙と、触れ合った手のひらの温かさだけで、十分だった。

「ありがとう、カイル」

わたくしは、心からの微笑みを浮かべて言った。火傷の痛みは、もうどこか遠くへ消えていた。
その笑顔は、かつての「完璧な公爵令嬢」の仮面を完全に脱ぎ捨てた、ただのイザベラの、素顔の笑顔だった。
部屋には、薬草の匂いと、静かな月の光だけが、いつまでも、いつまでも満ちていた。
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