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第15話 『あの日の保存食が、王都を救う』
しおりを挟む王都の惨状を伝える商人の言葉は、冷たい刃のように、わたくしたちの築き上げてきた穏やかな日常に突き刺さった。偽りの聖女、枯れた大地、そして飢えと怒りに狂う民衆。それはもはや、一つの国の危機というよりも、文明そのものが崩壊する前兆のような、不吉な響きを伴っていた。
館の執務室には、重たい沈黙が垂れ込めていた。テーブルに広げられた王国の地図を、わたくしとカイル、そして数人の商人たちが、深刻な顔で囲んでいる。暖炉の炎が、それぞれの顔に不安の影を揺らめかせていた。
「王都へと続く主要な街道は、すでに食料を求める難民や暴徒で寸断されている場所もあると聞きます。王宮の騎士団も、もはや民衆の統制だけで手一杯で、物流の確保までは手が回らない、と」
「つまり、王都は陸の孤島になりつつある、ということですわね。問題は、食料そのものの絶対量の不足。そして、それ以上に深刻なのは、パニックによる物流と信頼の完全なる麻痺……」
わたくしは冷静に状況を分析しながら、指で地図の上をなぞった。王都という、王国で最も豊かであるはずの中心点が、今や最も飢えた、危険な場所と化している。皮肉なものだ。
「イザベラ様。不躾な話とは承知の上ですが……」
商人頭が、意を決したように口を開いた。彼の目には、商売人の狡猾な光が宿っている。
「今、この状況で、あんたのところの保存食を王都に持ち込めば……それこそ、金塊を積んでも買いたいという貴族が殺到しやすぜ。この危機は、我々にとっては千載一遇の好機(チャンス)でもある」
その言葉に、他の商人たちも息を呑んでわたくしの顔色をうかがう。確かに、彼の言う通りだ。このタイミングで食料を独占的に供給できれば、莫大な富を築くことができるだろう。かつてのわたくしなら、迷わずその手を取っていたかもしれない。復讐の資金として、これ以上のものはないのだから。
しかし、わたくしは静かに首を横に振った。
「これは、商売の話ではありませんわ」
きっぱりとした声が、室内に響く。
「飢えている人々を見捨てて、私腹を肥やす。それは、人の道に外れた行いです。わたくしがこの土地で学んだのは、そのようなやり方ではありません」
わたくしは立ち上がり、まっすぐに商人たちの目を見つめ返した。
「これは、人として、為すべきことの話です」
***
わたくしは、村人たち全員を広場に集めた。そして、カイルに命じて、館の地下にある、巨大な食料貯蔵庫の扉を開かせた。
その光景に、村人たちは息を呑んだ。
地下の冷たく乾燥した空間に、天井まで届くほどの棚がずらりと並び、そこには、この一年、わたくしたちが力を合わせて作り上げてきた、膨大な量の保存食が眠っていたのだ。
樽にぎっしりと詰められた塩漬けの豚肉。乾燥させて旨味を凝縮させたキノコや野菜。麻袋に山と積まれた小麦や豆。そして、色とりどりの宝石のように棚で輝いている、何百というジャムの瓶。
これらは全て、この領地の全員が、厳しい冬を飢えることなく、笑顔で乗り切るために蓄えた、わたくしたちの汗と努力の結晶だった。
「皆さんに、お願いがあります」
わたくしは、静かに語り始めた。王都で何が起きているのか。人々がいかに飢え、苦しんでいるのか。
「この食料を、すべて、王都へ送りたいのです」
その言葉に、広場はざわめいた。当然の反応だった。自分たちの命綱を、見ず知らずの、それもかつてわたくしたちを蔑ろにした王都の人々のために手放せというのだ。
「しかし、イザベラ様!これを失くしちまったら、俺たちの冬はどうなるんで!」
一人の男が、不安そうな声を上げた。その声に、多くの村人が頷く。
わたくしは、その不安を真正面から受け止めた。
「ええ、その通りです。わたくしたちの冬は、再び厳しいものになるでしょう。また、ひもじい思いをする日があるかもしれない。ですが」
わたくしは、言葉を続ける。
「わたくしたちは、もう知っているはずです。たった一人でパンを抱えて震える夜よりも、半分のパンでも、隣人と分け合って火を囲む夜の方が、どれほど温かく、そして豊かであるかということを」
わたくしは、集まった一人一人の顔を見た。畑仕事で日焼けした顔、怪訝そうな顔、そして、わたくしの言葉を懸命に理解しようとしてくれている顔。
「わたくしたちは、分かち合うことを学びました。飢えの痛みを知っているからこそ、飢えている人を見捨てることはできない。わたくしは、そう信じたい。この行いは、誰かに強制されるものではありません。皆さん一人一人が、心で決めることです」
長い、長い沈黙が流れた。
最初に動いたのは、いつも畑仕事のことでわたくしと口喧嘩をしていた、ハンス爺さんだった。彼は、黙って貯蔵庫に入ると、一番重い小麦の袋を、よろけながらも肩に担ぎ上げた。
それを合図にしたかのように、村人たちが、一人、また一人と、無言で貯蔵庫へと向かい始めた。女たちは瓶詰めを籠に入れ、子供たちでさえ、乾燥野菜の袋を一生懸命運んでいる。
彼らは、自分たちの冬の備えが失われる恐怖よりも、人として正しい道を選ぶことを、その行動で示してくれたのだ。
わたくしの目から、熱いものが、また、こぼれ落ちそうになった。
その光景を、呆然と見ていたのは、王都の商人たちだった。
「……あんた、正気かよ」
商人頭が、信じられないという顔で呟く。
「これを全部、タダでくれてやるってのか。あんたも、ここの連中も、揃いも揃って、どうかしてるぜ……」
だが、彼のその声には、嘲りではなく、一種の畏敬の念が混じっていた。
「……だがな」
彼は、ごしごしと自分の頭をかきむしると、決心したように顔を上げた。
「儲け話じゃなく、人助けだっていうなら、話は別だ。俺たちにも、王都に帰りを待ってる家族がいるんでな。輸送は、この俺たちに任せな!絶対に、一粒残らず、王都まで送り届けてやる!」
その力強い宣言に、他の商人たちも「おう!」と鬨の声を上げる。
こうして、誰かの命令でも、計画でもなく、ただ「人として為すべきこと」という一つの目的に向かって、領民、商人、そしてカイルに率いられた村の若者たちによる、前代未聞の「食料輸送隊」が、自然発生的に結成されたのだった。
***
キャラバン隊の出発は、壮観だった。
何十台という荷馬車に、わたくしたちの希望が次々と積み込まれていく。その光景は、まるで一つの巨大な生き物が、これから始まる長い旅のために、エネルギーを蓄えているかのようだった。
わたくしは、先頭の馬車に乗り込み、手綱を握った。
「行くわよ、カイル!」
「ああ」
隣に座るカイルの短い返事を合図に、わたくしたちは、見送る村人たちに手を振り、ゆっくりと王都へと向かって出発した。
旅は、過酷を極めた。しかし、奇跡のような出来事が、次々と起こった。
わたくしたちのキャラバンの噂を聞きつけた街道沿いの村々が、最初は遠巻きに様子をうかがっていたが、わたくしたちが本当に、無償で食料を王都へ運んでいると知ると、彼らもまた、自分たちのなけなしの備蓄を差し出し始めたのだ。
「うちの村の豆も、持っていってくれ!」
「この干し魚だけじゃ、腹の足しにもならねえかもしれねえが、ないよりはマシだろう!」
わたくしが始めた善意の行動が、人々の心に眠っていた善意を呼び覚まし、その流れは、旅を続けるごとに、雪だるま式に大きく、力強くなっていく。それはまさしく、善意の正のフィードバックだった。
***
長い、長い旅の果て。
ついに、わたくしたちのキャラバン隊は、王都の城門へとたどり着いた。
そこに広がっていたのは、商人たちの話以上に、悲惨な光景だった。城壁の上には、亡霊のように痩せこけた人々が、力なくこちらを見下ろしている。門を守る兵士たちの顔にも、生気はなく、絶望だけが色濃く浮かんでいた。
彼らは、わたくしたちを新たな暴徒の集団だと思ったのだろう。固く閉ざされた城門の向こうから、緊迫した空気が伝わってくる。
わたくしは、荷馬車の荷台の上に立ち、城壁の上の人々に向かって、声を張り上げた。
「お聞きなさい!わたくしは、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン!かつて、この都を追われた者です!」
その名に、人々がざわめくのが分かった。
「わたくしは、聖女ではありません!奇跡など、起こせはしない!この荷馬車に積まれているのは、天から降ってきた恵みではありません!」
わたくしは、高く、一つのジャムの瓶を掲げて見せた。夕日を浴びて、それはルビーのように赤く輝いた。
「これは、あの厳しい冬を越すために、わたくしたちが、来る日も来る日も、地道な労働を重ねて作り上げたものです!これは、わたくしたちが、飢えの痛みを知っているからこそ、隣人と分かち合うことを学んだ、心の結晶です!」
偽りの奇跡に裏切られ、希望を失っていた人々の目に、少しずつ、光が灯り始めるのが見えた。
「門を開けなさい!これは、奇跡ではない!これは、わたくしたち人間の、労働と、そして善意です!」
わたくしの叫びが、乾いた王都の空に響き渡る。
やがて、重たい音を立てて、固く閉ざされていた城門が、ゆっくりと、ゆっくりと、開かれていった。
その向こうから見えたのは、飢えと絶望に歪んだ顔、顔、顔。そして、その目に浮かぶ、信じられないものを見るような、驚きと、涙と、そして、ほんのわずかな、しかし確かな、希望の光だった。
かつてわたくしを追放したこの王都に、最大の救いをもたらしたのは、皮肉にも、わたくし自身だった。
しかし、そのことに、もはや何の感傷もなかった。ただ、目の前の、救うべき人々がいる。為すべきことがある。
それだけだった。
わたくしの地道な努力が、今、国全体を救うという、想像もしなかった最大の形で、実を結ぼうとしていた。
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