五十嵐青年と山羊

獅子倉 八鹿

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 五十嵐という青年は、人気のない道を歩いていた。
 23時という時間のせいもあり、俯きながら歩く小柄な青年を誰も見てはいなかった。
 五十嵐青年の足音だけが、静まり返った住宅街に響く。

 五十嵐青年は、死に場所を選んでいた。
 今日の昼過ぎ、暖かい日差しが一人暮らしの部屋を照らしていた。そんな光も、五十嵐青年の心まで照らすことは出来なかった。

 死にたい。消えたい。
 そんな感情のまま包丁を手に持ち、切っ先を腹に当てた。
 切っ先が腹に当たり、そのまま時間が流れた。
 そこから突き刺すことは出来ず、包丁を流し台に置くと何かから逃げるように部屋を後にした。

 ひたすら歩き、腹が減ったら牛丼屋に入り、再び歩いた。
 煙草を吸いたくなった時は、コンビニに寄り、煙草とライターを買い、喫煙所で紫煙をくゆらせた。

 ポケットにはスマホと、財布、ライターとレシート、中身の入っていない煙草の箱が入っている。
 一緒に買った煙草は吸い終わったが、ゴミ箱が見当たらなかった。

 五十嵐青年の脳裏には、ゼミ生達の刺してくる目線が、睨みつける顔が浮かんで離れない。
 自分の行いを棚に上げて被害者面する、あの女の怯える演技が離れない。
 ほんの数日で、五十嵐青年の居場所は消滅した。

 復讐ができるならしていたと思う。
 できないから逃げ出した。
 命を捨て、自分という存在も消えてしまいたかった。

 繁華街から離れ、住宅地を抜け、いつの間にか五十嵐青年は農地が点々とある地方を歩いていた。
 田んぼは水が張ってあるものもあり、集まった蛙が鳴いている。
 命を歌っているような蛙の声から逃げるように、五十嵐青年は足早に通り過ぎた。

 歩くのに充分だった街灯も、立っている間隔が広くなるが、歩けない程ではない。五十嵐の歩く速さは変わらない。
 住宅はまばらになり、田畑が増える。昼間訪れたらのどかな風景が見えるだろうことが、都会生まれの五十嵐青年にも容易に想像が付いた。

 五十嵐青年は、暗がりの中に、大きな犬小屋があることに気がつき、足を止めた。
 住宅や田畑、時折見かける工場とは違い、明らかに異質な建物が、田畑や空き地が広がる中、ポツンと建っていた。

 草が生えている空き地に白い大きな小屋が建っている。道との境にフェンスがあるが、管理のためか、端の方は人が通ることができるドアが作られていた。見たところ鍵はなさそうだ。
 今日はあそこで休もうか。青年とはいえ、普段歩かない距離を歩いた足は限界を迎えている。

 ドアから空き地に入り、小屋に近づく。中を覗くと、藁のようなものと一緒に、白い動物が眠っていた。
 2本のカーブを描いた角。尖った耳。山羊が1頭眠っていた。

 こんなに気持ちよく眠っているのか。
 俺はこんなに辛い思いをしているのに。
 こいつは。能天気に。何の苦労もなく。

 気持ちよさそうに眠る山羊を見て、五十嵐青年は、自分の理性が崩壊するのが分かった。ただ、崩壊する理性を止めることはできない。

 通常なら、今までの五十嵐青年ならこんな考えには至らなかっただろう。
 動物は嫌いではない。可愛いな、珍しいなと思い写真を取り、触れ合って離れただろう。
 だが今は、加虐心が湧き上がり、制御がきかない。
 こいつを虐めてやりたい。苦しめ。死ね。

 山羊の腹を目掛け、蹴りを入れようとした時、ポケットに入ったものに気づき、動きを止めた。

 ライターだ。
 ポケットに手を入れ、ライターを取り出す。一緒になって、入っていたレシートもポケットから落ちた。
 思いつきが、新たなアイデアを手に入れ大きくなる。
 五十嵐青年に善悪など考えられなかった。心はどんどん麻痺していく。

「死ぬ前にお前を食べてみたいもんだ。ジンギスカンだ。俺に食われて死ねや」

 あれ?  ジンギスカンって山羊だっけ?
 まぁいいや。そんなことさえも、一緒に焼き尽くしてしまおう。
 ジンギスカンして、火に包まれて、死んでしまおう。

 レシートを拾い、ライターで火をつけた。
 レシートにゆっくりと火が付き、それを下に落とす。ポケットをまさぐり、煙草の空き箱も一緒に落とした。

 じわりじわりと、可燃物を火が包んでいく。小さな火が、大きな炎に変わっていく。
 山羊は目を開き、こちらを見る。身体を動かそうとしているようだが、うまく動けないのだろうか。ビクビクと動きながら、何度か鳴いた。

 じっと見ていた五十嵐青年の心は、熱さとともに、心の感覚が戻る。

 俺は、一体なにを。
 なんで、何もしてない山羊を焼こうとしてるんだ。死ぬのは俺だけでいいだろ。
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