五十嵐青年と山羊

獅子倉 八鹿

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 1度溶けた心は、もう冷えることがない。
 心の発した熱を燃料に、五十嵐青年は、身体を震わせながら立ち上がった。

 逃げなきゃ。警察呼ぼう。いや、消防車か?

 五十嵐青年はポケットからスマホを出そうとするが、腕は震え、目的を果たさない。
 火の勢いが徐々に強くなり、脳が焼かれているような感覚を覚える。
 選択肢を練り出す能力が熱に包まれ、消失していく。

 辺りを見渡す。
 藁、小屋、そして今にも炎に抱かれそうな山羊。

 ところどころ汚れた白山羊だ。毛に若々しさは感じられない。
 逃げることを諦めているのか、今は動きを止めて目を閉じている。

 どうせ、逃げるなら。

 五十嵐青年は火の勢いが弱い場所から山羊に手を伸ばす。屈み、山羊を持ち上げようとした。
 重い。腰を痛めそうだ。
 腰を落とし、ゆっくり起き上がった。
 震えていた腕はいつの間にか震えをやめていた。
 逃げるには遅い速さだが、歩き出した。

 これは命の重みだ。
 これは俺よりも重い命だ。
 数分前、他の命を軽率に扱ったか弱い命。
 か弱い命がそんなことを言っても笑われるだろう。呆れられるだろう。
 けれども、過ちを許して欲しかった。

 息が苦しい。
 五十嵐青年の意識も、熱に、煙に包まれていく。


 静寂をサイレンが切り裂き、野次馬が発する音が静寂を消滅させる。

「山羊が!  小屋の近くに人と山羊がいます!」

 若い男の声が、2つの命を見つけた。


 五十嵐青年はゆっくりと目を開いた。
 生きているという事柄だけ確認すると、再び目を閉じた。
 何度も同じ行為を繰り返し、6度目でしっかりと目を開き続けることができた。


「つまり、貴方は自殺しようと」

 そう言った警官の柔らかい目線に、五十嵐青年は目を泳がせ、天井を見た。

 高橋と名乗る警官は、五十嵐青年の横になっているベッドの近くに座って、手帳にメモをしていた。
 山羊小屋がある町の警察官らしい。五十嵐青年にあの夜の事情聴取をするため、この病室に来たのだ。五十嵐青年が抱く警官のイメージを良い意味で破っていった。
「はい」
 天井を見つめながら、五十嵐青年はしゃがれ声で答えた。
 高橋警官は微笑みを絶やさず会話を続ける。

「生きていて良かったです」
「そうですかね」
「少なくとも私はそう思います。管理者さんもそう思っておられるかと」
 身体を動かし、高橋警官に目線を移す。
「高齢の方で、今はお孫さんが主に世話をされているのですが、一言も五十嵐さんを責めるようなことは仰っていませんでした」
 高橋警官の微笑みは絶えない。
「管理者さんからのお願いが1つありまして」
「金はないんですが」
 五十嵐青年は眉間に皺を寄せて言い放つ。不快感を与えかねない仕草にも、高橋警官は動じない。
「退院し次第、山羊の世話をして欲しいと」
「世話?」
「そうです。助けた山羊は亡くなってしまったと聞きましたが、もう1頭若い山羊がいるそうなんです。その山羊の世話を」
「俺が……世話……?」
 言葉を詰まらせながら、五十嵐青年は助けを求めるように高橋警官を見た。
 この警官なら、無理強いをしない。断っても承諾してくれるはずだ。

「出来ないんですか?  五十嵐さんの罪滅ぼしになる、いい話だと思うんですがね」
 高橋警官は微笑みを絶やさない。だが、言葉の圧は明らかに変わった。
 温厚な雰囲気は跡形もなく消え去っていた。言葉が恐怖心を植え付けようと五十嵐青年の身体を、そして精神をも攻撃している。

「分かりました」
「管理者さんに伝えておきます。良い返事が聞けて良かった。断られたらどうしようかと」
 微笑みを絶やさないまま、反抗する気力を削ぎ、高橋警官は病室を去る。
 出るタイミングを逃した冷や汗が、遅れて流れていった。
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