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9話
しおりを挟むカーテンの隙間から朝の日差しが差し込んでくる。
眩しいはずなのに、胸の奥はひどく静かだった。
今日から私は、ルミナ様の侍女として生きる。
公爵令嬢としての私ではない。
名前だけ残った、都合の良い存在として。
「…支度をしなくては」
今までは、自分のことだけをこなしていればよかった。
けれどこれからは違う。
誰かの傍に立ち、世話をする―――その重みを、私はまだ知らない。
私は用意されていた侍女服に袖を通した。
生地は丈夫で、動きやすい。
前に侍女から投げ捨てられた服とは大違いだ。
公爵令嬢としての装いは、今は必要ない。
私は部屋を出て、執事長のクロードのもとへと向かった。
彼だけは、この立場の変化を何も言わずに受け入れている。
それだけが、救いなのかもしれない。
廊下の先で、クロードはすでに待っていた。
背筋を伸ばし、いつも通りの無表情。
けれど、視線だけが一瞬私の服装を確かめる。
「…準備は整いましたか、ネメシア様」
今はクロードが上の立場ははずなのに、私の呼び方は変わらない。
「はい」
短く答えると、クロードは小さく呟いた。
「本日より、ルミナ様付きの侍女として働いていただきます。仕事内容は多岐にわたりますが…まずは、基本からです」
「……わかりました」
そう返す私を、クロードは数秒だけ見つめた。
「無理はなさらぬように」
その言葉に、思わず目を瞬かせる。
「…私に、気遣いは不要です」
そう言うと、クロードはわずかに視線を伏せた。
「立場ではなく、体調の話です」
淡々とした声。
けれど、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「ルミナ様は、まだ若い。侍女の体調管理も努めのひとつです」
「……はい」
「では、参りましょう」
それだけ言って、クロードは踵を返す。
私は一歩遅れて、その背中を追った。
―――この屋敷で、私を"人"として扱うのは、この人だけなのかもしれない。
そんな思いを馳せながら、私はこれからの事に気を張った。
「まず、初めにルミナ様の朝の支度です」
クロードは扉の前に立ち、作法通りに軽く音を鳴らした。
ほどなくして、扉の向こうから澄んだ声が返ってくる。
「ルミナ様、入室してもよろしいでしょうか」
「…どうぞ」
入室許可をもらい、クロードが先に扉を開けた。
私はその後に続いて、静かに入室する。
「お姉様!」
クロードの背後にいる私を見つけた瞬間、ルミナはぱっと表情を輝かせた。
「おはようございます!」
弾む声に、私は思わず足を止めた。
しかし、ルミナは構わず私に歩み寄る。
「……ルミナ様」
クロードはそれを制すように、軽く咳払いをし低く名を呼ぶ。
その声に気づいたのか、ルミナははっとして口を閉じた。
「あ…えっと……」
きょろきょろと私とクロードを見比べ、少しだけ頬を赤らめる。
「おはよう、お……ネメシア」
呼び方を探るように言い直したその声は、先程よりも少しだけお嬢様らしかった。
「おはようございます、ルミナ様」
私は一歩下がり、深く頭を下げる。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じながら。
「ここからは、侍女の手が必要となります。入室を」
低く、しかしよく通る声だった。
その合図と同時に、控えていた侍女が二人、静かに扉を開けて入ってくる。
いずれも年上で、動きに無駄がない。
「本日より―――」
一泊置いて、クロードは告げた。
「ネメシア様は、ルミナ様付きの侍女となる」
「承知しました」
二人の侍女は、揃ってそう答えただけで、それ以上の反応は見せなかった。
私へ向けられた視線は一瞬で、すぐにルミナへと戻る。
歓迎も、戸惑いもない。
それでいい。ここでは私は"仕事の一部"なのだから。
クロードは二人の侍女に任せ、その場を去った。
そして、侍女二人はルミナの髪を整え、衣服の乱れを確認する。
私は指示を受けるたびに小さく頷きながら、その手際の速さについていくのが精一杯だった。
気づけば、支度は終わっていた。
「侍女の仕事は、まず見て覚えてください」
そう言った一人の侍女は、感情のこもらない視線を一瞬だけ私に向けた。
「…わかりました」
侍女二人は無駄のない動きで片付けを終え、何事もなかったかのように部屋を退出していった。
「それでは、朝食へ向かいましょう」
年上の侍女の声に、ルミナは小さく呟いた。
私は一歩下がり、その後ろにつく。
廊下を歩くたび、すれ違う使用人たちの視線を感じた。
見慣れたはずの視線。けれど今日は、どこか様子が違う。
―――ルミナ様付きの侍女。
その肩書きが、空気を変えているのがわかった。
ルミナは時折、こちらを振り返りそうになっては、ぐっと我慢するように前を向く。
その仕草が少しだけおかしくて、少しだけ嬉しかった。
食堂の前で、侍女が足を止める。
「ネメシア様。こちらでは、お言葉は必要ありません。何かあれば、合図を」
「…承知しました」
そうして私は、言葉を胸の奥にしまい、侍女として中へと入った。
食堂に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
―――いつも自室でご飯を食べていたから、初めてきた。
天井は高く、長いテーブルにはすでに朝食が並べていられる。
磨かれた銀食器と、白いクロス。
どれも公爵家に相応しい、完璧な光景だった。
私たちは、決められた順に席へと向かう。
サビーナ様の目の前、二人で公爵を挟むように座る。
私は、その少し後ろ―――侍女の立ち位置に留まる。
椅子に座ることは許されていない。
ここでは私は、"そこにいる存在"でしかない。
「……ネメシアも一緒に食事をとってもだめですか?」
ルミナは私が座らないことに不満があるようだ。
隣にいる公爵に向かってそう言った。
「…侍女が席に着く理由はない」
一瞬、公爵は私に視線を向けた。…冷たい瞳だ。
「大丈夫です、ルミナ様。私は侍女ですから」
そう言って、私は小さく微笑んだ。
しかし、ルミナは少しだけ唇を噛み締めた。
「……」
食事が始まっても、私の役目は変わらない。
飲み物が減ってないか。料理の進み具合はどうか。
ただそれだけを、静かに見ている。
公爵は私を見ることなく、サビーナ様とルミナと談笑を楽しんでいた。
また、サビーナ様は終始柔らかく微笑んでいたが、その視線が私に向くことは一度もなかった。
そして、ルミナは時々私の方を見ていた。
そのたびに、私は小さく微笑み返した。
それだけなのに、私はその視線を、そっと胸の奥にしまった。
食事の終盤、公爵がナプキンを置いた。
「そうだ、ルミナ」
突然名前を呼ばれ、ルミナは顔を上げる。
「近いうちに家庭教師をつける。年齢的にも、そろそろ本格的に学ばせる頃だ」
それは提案ではなく、すでに決まっている口調だった。
「本当?マナーだけじゃなくて、お勉強も?」
「当然だ。読み書き、算術、礼法。…必要なものはすべてだ」
公爵はそう言いながら、こちらを見ない。
私の存在など、最初から数に入っていないかのように。
「……それって今すぐの話じゃないですよね?」
ルミナは顎に指を当て、少し考える素振りを見せた。
その視線は空を彷徨い、何かを測るようだった。
「ここに来たばかりだからな」
公爵は淡々と答える。
「ルミナがやりたいと言ったタイミングで、すぐに始められるようにしておく」
「わかりました」
そう答えたルミナは、満面の笑顔を浮かべていた。
けれど、その視線は一瞬だけ私の方へと向けられる。
―――大丈夫。
そう言われた気がして、私は小さく行きを飲んだ。
そして食事は、滞りなく終わった。
食器が下げられ、椅子が引かれる音だけが食堂に残る。
私は最後まで、言葉を挟むことなくその場に立っていた。
「それでは、失礼いたします」
侍女としての礼を取り、一歩下がる。
公爵は私を見ることなく、すでに立ち上がっていた。
ルミナとサビーナ様が食堂を出ていくのを見送り、私もまた、侍女たちに続いてその場を後にする。
食堂を出て、廊下を進んだところで足が止まる。
「ネメシア様」
呼び止めたのは、クロードだった。
振り返ると、いつもと変わらぬ無表情でこちらを見ている。
「当面、貴女に任せるのは基本業務のみです。ルミナ様の身の回りの補助。私物の把握と整理。伝達と記録」
淡々と、事務的に告げられる。
「それと、"気づくこと"が、最も重要な仕事になります」
一拍置いて、クロードの視線だけがこちらに向いた。
「手を出す必要はありません。ですが、見落としは許されない」
命令でも、脅しでもない。
それでも背筋が伸びる言葉だった。
「…承知しました」
「それで結構です」
その後は、クロードや他の侍女から仕事内容を教わった。
―――こうして、私の侍女としての日々が始まった。
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