「いい人」

trustedpepper2317

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いい人

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手のひらを見つめる。
真っ赤でべっとりとした血が、未だに乾いていないようだ。不快でたまらないこの感触と臭いに、ぐらりと脳を揺さぶられる。

冷たくなっていくだけの妻を椅子代わりにしながら、やけに冴えた頭でこれからのことを考えていた。


そうだ、ビールでも飲もう。もう当分、飲めやしないだろうから。
重い腰を上げて、冷蔵庫へと向かう。贅沢なまでに冷やされた缶ビールを手に取り、再び妻に腰掛ける。
グビ、グビと煽る。厄介事のあとのビールは、こういう非常事態でも旨い。疲れていたし、あっという間にそれを飲み干した。そして、缶をクシャッと潰す。深いため息をつきながら、妻の死を余韻にアルコールを巡らせた。


夫婦喧嘩のきっかけは決まって、些細なことだった。ありふれた日常だ。さっきまでしてた妻との喧嘩も、日常の一部。だから、なんてことはないはずだった。なんてことはないはず、だったんだ。
心の中のコップに水が溜まって、表面張力の限界の一滴が垂れた。その一滴を垂らしたのが、たまたま妻だっただけなんだ。全ては偶然のこと。仕方のないことだったんだ。

職場で、接待で、家庭で。思い返せば、いつもいつも我慢してばかりの日々だった。満員電車に揺られ、理不尽な残業をさせられ、手柄を上司に横取りされた。勿論不満さ。だけども全て受け入れてきた。それら全て、給料や地位のため。妻との将来のため。親に見せる顔作りのため。

自分のためなんかじゃない。周りが寄せる期待に応えるため。全部、人のためにしてきたことなんだから。


それがどうだ、蓋を開けてみれば俺の肩書きは「人殺し」。

笑い話だよな。滑稽さ。誰よりも「いい人」であろうとしたのに。親や先生の教えを忠実に守ってきたのに。俺はずっと、「いい人」であろうとしたのに。それが良かったはずなのに。


でも、俺の30数年の努力は全て、妻の腹に包丁を突き刺すためだったんだってな。笑えるなぁ


あぁ、そうだ。俺には「いい人」貯金がある。たんまりと溜まってる。人一人殺してもお釣りがくるほどの貯金が。
もうこんなに汚れちまった人生なんて、要らねえ。最期に我慢してきた分、もうちっと発散してもいいよな?
警察にしょっぴかれるまで、後何人、道連れにできるかなぁ。「いい人」だった分、少しは報われてもいいよな?


のそっと立ち上がった彼は動かなくなった妻を一瞥し、奇妙な笑みを浮かべながら外へと出て行った。
血のついた包丁と、無差別な殺意だけを持って。
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