君に捧ぐ花

ancco

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第七章 猜疑心

第四十六話 愛欲と食欲の狭間で

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どれくらいの間、二人はそうしていただろうか。
この温もりを失いたくないという気持ちと、もっと宮部に触れて欲しいというはしたないまでの欲が胸中でせめぎ合い、杏子は、意を決してゆっくりと体の向きを変えた。
それに応じるように、宮部も腕を少し緩めて、今や杏子を正面から抱きしめる格好となった。
見上げて宮部を見つめる杏子の瞳が、蝋燭の灯火のようにゆらゆらと揺らめいて、うっすらと開いたまま動こうとしない杏子の唇に代わって、雄弁に宮部に語りかけるようだった。

吸い寄せられるように、二人の鼻先がゆっくりと距離を縮め、あと少しでぶつかりそうなほど近づいたところで、どちらからともなくその軌道を僅かに反らし、二人の唇は静かに重なった。
確かめるように短く何度か口づけてから、宮部の熱く滾る想いを、杏子は唇を開けて悦んで受け入れた。宮部は、ちょうど彼の植物にそうするのと同じように、優しく杏子の咥内を慈しみ、同時に、一分の隙も無く確実に丁寧に情熱を注ぐ。気がつけば、杏子も宮部の背に腕を回し、今にも崩れ落ちそうな自らの膝を励ますように、必至に宮部にしがみついていた。杏子の背では、上は後頭部から下は尻までを、ゆっくりと行き来する宮部の大きな手を感じる。耳の後ろや首筋に宮部の指先の熱を感じれば、杏子の背筋を走る神経が産毛を逆立てるように悦び、ずっしりと重量のある杏子の大きな尻を宮部の手が包めば、体の核心が縮まり込んで甘く震えた。

行き場の無い熱が、二人の間を行き来して高まり合い、いよいよ持て余すほどに膨れあがった頃に、それは突如として終わりを告げた。無粋にも、低く籠もった音が、細く長く、杏子の腹から響いたのだ。
宮部との初めての愛の行為に没頭していた杏子は、空腹など全く感じていなかったのだが、杏子の腹に住む虫はそうではなかったようだ。

「さすが杏子さん。期待を裏切らない。」
そう言って、いつもの噛み殺した笑いに、宮部は肩を揺らしていた。
杏子はただ、俯くばかりであった。その頬が赤く熱く上気しているのは、情熱の行為の名残なのか、我慢の利かない自らの腹の虫を恥じてのことなのか、杏子本人にも分からなかった。

「お昼にしよう。腹の中のお邪魔虫にエサやらないと。」
宮部はそう言うと、湯飲みと新しいティーバッグの小袋を持って、居間の方へと歩き出した。後に残された杏子は、しばらく腑抜けになっていたが、すっかり冷めてしまった湯を沸かし直して、ポットを片手に居間へ向かった。

その日の昼食の味は、杏子には分からなかった。宮部が美味しそうに掻き込んでいたところをみると、良い味だったのだろう。もぐもぐと咀嚼する宮部の口元を見て、その同じ唇が杏子のそれに重なり、その奥の力強い舌を自らが受け入れたのかと思うと、自信作のおかずすらも喉をろくに通らなかった。
聞くところによると、女性よりも男性の方が、一度火が付くとその後の収まりが悪いというのに、至って涼しい顔で食欲を満たし続ける宮部を、杏子は少し憎らしい思いで見つめた。やがて、杏子も腹の虫の要求には勝てず、諦めて、味のしない食事をどうにか腹に収めたのだった。

午後の作業を終えると、杏子は、再び宮部の自宅へ戻った。
「お疲れ様。明日からなんだけど、家閉めてても大丈夫かな。トイレとか…。」
杏子を玄関で出迎えた宮部の言葉に、しばらくの間思案した杏子は、否と答えた。
「一人ならお昼食べに家に戻るから、お手洗いは大丈夫。お気遣いありがとう。」
この四日間ですっかり勝手の知れた宮部の自宅であるが、家主の留守中に上がり込むのは躊躇われ、杏子は鍵を預かることは出来ないと思った。
「分かった。明日は、杏子さんが来る頃にはもう居ないから。何かあればここに連絡お願い。」
そう言って、宮部は杏子にメールアドレスを記載したメモと、スペインでの連絡先を手渡した。それは、いつかインスタント翻訳.comで見たスペインの農場の名前だった。
「わかりました。気をつけて行ってきて。たくさん良い物が仕入れられると良いね。」
杏子はそう言って、宮部を見上げて笑んだ。ここ数日、毎日一緒に過ごしたせいで、数日の別れすらも寂しく、どこか悲しげな笑みになったかもしれない。
それを察したのか、宮部は杏子を抱きしめて、耳元にそっと口を寄せた。温かく柔らかい唇を耳殻に感じ、杏子は思わず目を固くつぶって、切なげに息を吐いた。
「すぐにまた会える。帰ったら一度話そう。」
宮部がどんな表情でその言葉を紡いだのか、杏子からは見えなかったが、耳元で低く響いたその声には、確かに熱情が籠められているのを杏子は感じた。
何を話すのだろうか、二人のこれからのことだろうかと、期待に胸を膨らませ、杏子は宮部に抱きしめられたまま、黙って頷いたのだった。
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