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第八章 すれ違う心
第五十三話 再会
しおりを挟む坂下家の長男保は、健に似て小柄な体格の、30代半ばの歳のころの男だった。杏子とそう変わらないくらいの低めの身長だけでなく、茶色掛かった柔らかそうな直毛も共通しているが、健との決定的な違いは、顔の造作であった。大きな瞳が目を惹くあどけない顔立ちの優男である健とは異なり、保は、力強い眉に彫りの深い顔立ちが印象を強く残した。
その保曰く、日本の蜜柑の輸出先としては従来カナダがメジャーであったが、近年では、高級志向がブームになりつつあるアジア方面にシフトしてきている。なかでも、法規制や市場の伸びしろを鑑みて、シンガポールへの輸出を始めたいのだと、保は杏子に説明した。
保の話を聞き終えて、今度は杏子が口を開いた。健は、交互に視線をやりながら、二人の言葉に耳を傾けている。
「シンガポールでは、良くSinglish と言われるように、独自の英語が話されているんです。でも、それは口語レベルの話であって、高等教育での言語や書き言葉に関して言えば、イギリス英語であると考えられています。ですから、ホームページや販促品などの翻訳でしたら、イギリス英語を意識して訳させて頂こうと思います。」
杏子は、目の前に座する保が、頷きながら聞いていることを確認して、さらに続けた。
「では、実際に翻訳する物を見せていただけますか?文量を拝見して、その上で納期と報酬についてご相談させてください。」
待ってましたと言わんばかりに、健が杏子に資料を手渡した。それは、坂下果樹園のホームページをプリントアウトしたものと、パンフレット、そして商品カタログであった。
「今回訳して貰うのは、これらです。外注してるウェブサイトの業者にはワードで原稿を入れることになっていますので、岡田さんも、訳したものをワードで保存してください。量としては、かなりのものになってしまうんですが、できれば、6月にはもう英語のサイトをスタートさせたいんです。」
健の説明に間を置かず、保が言葉を続けた。
「みかんは暑い季節の作業が大変なんです。でも、その時期の手の掛け方で、秋以降の実りの出来に歴然の差が出ます。ですから、夏が来る前に、まだ両親と健とでなんとかやってもらえるうちに、英語のものを揃えて現地に売り込みに行きたいんです。」
「そういう事情でしたら、わかりました。他の仕事を調整すれば、五月中の納品でお引き受け致します。」
杏子の言葉に、一方で保は安堵した表情を見せ、他方で健は満面の笑みを浮かべ、二人は杏子に礼を言った。
実際、この案件の文量は、前職を通して、これまで杏子が取り組んだ仕事のなかでも最も多く、杏子自身も所要時間の予測がつかなかった。坂下家の事情で納期を決めたとしても、インスタント翻訳.comの仕事を控えてこちらの案件に全力を注げば、問題なく間に合わせることができると考え、杏子は承諾したのだった。
幸い、特急価格で、と、保の方から充分な金額の提案を受けたので、心置きなくこの仕事に打ち込める環境が整った。
打ち合わせが恙無く終わり、席を立って辞そうとした杏子に、健は、杏子さん、と呼び止めた。
「あ。杏子さんとお呼びしても良いですか?杏子さんも僕のこと名前呼びなんだし。」
「こら。馴れ馴れしいぞ。失礼だろ。」
軽い調子の健を、保がじろりと睨んで諌めた。
杏子も、名前で呼べといったのは健のほうではないかと、内心思わないでもなかったが、お客様である坂下家の面々には愛想良くしておこうと、二つ返事で承諾した。
杏子の許しがでて、健は、少女顔負けの可愛らしい笑みを浮かべ、座っていたソファーから立ち上がると、杏子の側へと歩み寄った。
「杏子さん、帰る前にうちの畑を見ていきませんか?ご案内しますよ。」
断る理由もなく、杏子は申し出を受けた。
坂下果樹園のみかん畑は、斜面を利用して、日光を最大限に取り入れる効率の良い造りになっていた。母屋のある位置から参道までの急な傾斜に、車一台分ほどの私道が伸び、それに沿って様々な品種のみかんが段々に植わっている。
その品種について、やれこちらは早稲だ、あちらは晩柑だと健が熱心に説明するが、実が成っているわけでも花が咲いているわけでもなく、ただ蕾と青葉だけの木を見ても、杏子には全く見分けがつかなかった。
にこやかに延々と喋り続ける健に、そろそろ辞去を切りだそうかと、杏子が思い始めた頃、それは突然にやってきた。胸の奥をぎゅっと締め付けられるような苦しさと、体の芯が震えるような切なさを同時に杏子にもたらす男、宮部夏樹その人であった。
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