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第八章 すれ違う心
第五十四話 世間は狭い
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なぜここに、と驚きを隠せなかったのは杏子だけではないようだった。力強い足取りで急な傾斜をこちらのほうへ登ってきていた宮部だったが、遠目に杏子の姿を認めるなり、ピタリと足を止めて目を見張り、そしてまた歩き出した。背後の果樹園入り口には、見慣れた古びた軽トラが停めてあるのが見えた。
「あ、宮部さん。どうもこんにちは。兄にご用ですか?」
凍りついたように一方向を見つめて反応を見せなくなった杏子を気にして、同じ方向に目をやった健が、宮部の存在に気づいて声を掛けた。
宮部は、急勾配などものともせず、早くも杏子と健のすぐそばまで来た。
「こんにちは。保さんにまたフォークをお借りしたくて。」
「母屋にいますので、ちょっと行って呼んできます。」
杏子の心をいつも揺さぶった宮部の低音が、今もまだざわざわと落ち着かない気分にさせることを、杏子は思い知った。宮部は健ばかりを見ていて、杏子とは、遠目に見た先程を最後に、一度も目を合わせない。もう、宮部とは、赤の他人になってしまったのだと、谷底に突き落とされたような絶望を杏子は感じた。
「あ!健さん!私、これで失礼します。今日はどうもありがとうございました。」
母屋の方に駆け出そうとしていた健を呼び止めて、杏子は頭を下げた。
「そんな、杏子さん。もっとゆっくりしていってください。まだ両親にも紹介したいし。兄を呼んですぐ戻ってきますから、ね?」
健は慌てて杏子を引き留めたが、仕事に取りかかりたいからと言って杏子が折れないことを知ると、名残惜しそうに挨拶をして母屋へ引き上げていった。
残された二人の間に、重苦しい空気が漂い始めたのを感じ、杏子は、宮部と視線を合わさずに会釈だけして踵を返した。
「岡田さん。」
意外にも、優しげな調子で、低音が杏子の鼓膜を震わした。
それでも、雷に打たれたように、杏子はその場で立ち竦んだ。杏子と呼ぶなと怒鳴り付けたのは、他ならぬ自分自身であるというのに、甘く囁くように名前を呼ぶ宮部はもういないのだという事実に、杏子は打ちのめされた。
「飯、食べてるのか。ずいぶん痩せたようだけど。」
優しい口調で、本当に杏子を心配しているのだと、手に取るように宮部の心が杏子に伝わったが、その優しさは、誰のせいで食事が喉を通らないのかと、むしろ杏子を憤らせた。
「どうぞお気遣い無く。私が痩せようが太ろうが、宮部さんには関係ありません。」
冷たく素っ気ない杏子の態度に、宮部の眉間に皺が寄った。杏子の好みだった垂れがちな切れ長の目元は、眉根を寄せると、その端整な顔立ちも相まって酷く不機嫌な表情に見え、杏子は思わず怯んだ。
「坂下の弟と随分親しいようだな。健さん、だって?」
吐き捨てるような宮部の口調に、杏子は再び怒りがこみ上げるのを感じた。自分のことを棚に上げて、杏子が他の男と親しくなることを咎めるような宮部の言い草に、我慢がならなかった。
「貴方には関係無いって言ってるでしょう!もう私に構わないでください。健さんのとこの仕事を終えたら、家も出て行きますから。」
そう言って、今度こそ立ち去ろうとしたが、杏子が足を一歩踏み出す前に、宮部に先を越されてしまった。
「保さん、いつもすみません。午後から大物の出荷があるんですけど、また一時間ほどフォークをお借りしてもいいですか?」
声を荒げた杏子を無視するように、宮部は、母屋から出てきた保の方へ歩き出した。まるで相手にされていない独り相撲のような格好になった杏子は、憎らしい思いで宮部の背中を睨んだが、みれば健も母屋から顔を出して杏子を見ていたので、杏子は吊り上げた眦を元に戻した。
「良かった、杏子さん。まだ居てくれたんだ。何か言い合っていたようだけど、宮部さんと知り合いなんですか?」
杏子に駆け寄ってきた健が、きょとんとした顔で問いかけた。
「あの、…はい。家を貸していただいているんです。宮部さんの伯母様のお家なので、宮部さんには家主代理ということでお世話になっています。」
健は、杏子の言葉に瞠目し、合点がいったように拳を打ち鳴らした。
「あぁ!バス停の近くの。旧道沿いのところですよね?うちの二番目の兄が、池田さんのところに婿養子に行ったんです。そういえば、隣に越してきた若い女性が、宮部さんと挨拶に来たって言ってたけど、杏子さんのことだったんだ。」
杏子は杏子で、合点がいった。あの、好奇心むき出しで杏子を無遠慮に観察した女の、夫に当たる人物。宮部は自分の同級生だと言っていたが、それがこの坂下家の次男であるということだ。先ほど、健のことを坂下の弟、と宮部が呼んでいたが、おそらく、自分の同級生である次男を坂下と呼び、仕事で世話になる長男を保さんと呼び分けているのだろう。
(こういうところが田舎なのね。どこで誰と誰がつながっているかわかったもんじゃないわ。)
自分の隣人が宮部の友人であり、それがこの健の兄でもあると知って、田舎の世間の狭さに辟易した杏子は、再び、熱心に引き留めようとする健に、今度こそ暇を告げて、足早に果樹園を立ち去ったのだった。
「あ、宮部さん。どうもこんにちは。兄にご用ですか?」
凍りついたように一方向を見つめて反応を見せなくなった杏子を気にして、同じ方向に目をやった健が、宮部の存在に気づいて声を掛けた。
宮部は、急勾配などものともせず、早くも杏子と健のすぐそばまで来た。
「こんにちは。保さんにまたフォークをお借りしたくて。」
「母屋にいますので、ちょっと行って呼んできます。」
杏子の心をいつも揺さぶった宮部の低音が、今もまだざわざわと落ち着かない気分にさせることを、杏子は思い知った。宮部は健ばかりを見ていて、杏子とは、遠目に見た先程を最後に、一度も目を合わせない。もう、宮部とは、赤の他人になってしまったのだと、谷底に突き落とされたような絶望を杏子は感じた。
「あ!健さん!私、これで失礼します。今日はどうもありがとうございました。」
母屋の方に駆け出そうとしていた健を呼び止めて、杏子は頭を下げた。
「そんな、杏子さん。もっとゆっくりしていってください。まだ両親にも紹介したいし。兄を呼んですぐ戻ってきますから、ね?」
健は慌てて杏子を引き留めたが、仕事に取りかかりたいからと言って杏子が折れないことを知ると、名残惜しそうに挨拶をして母屋へ引き上げていった。
残された二人の間に、重苦しい空気が漂い始めたのを感じ、杏子は、宮部と視線を合わさずに会釈だけして踵を返した。
「岡田さん。」
意外にも、優しげな調子で、低音が杏子の鼓膜を震わした。
それでも、雷に打たれたように、杏子はその場で立ち竦んだ。杏子と呼ぶなと怒鳴り付けたのは、他ならぬ自分自身であるというのに、甘く囁くように名前を呼ぶ宮部はもういないのだという事実に、杏子は打ちのめされた。
「飯、食べてるのか。ずいぶん痩せたようだけど。」
優しい口調で、本当に杏子を心配しているのだと、手に取るように宮部の心が杏子に伝わったが、その優しさは、誰のせいで食事が喉を通らないのかと、むしろ杏子を憤らせた。
「どうぞお気遣い無く。私が痩せようが太ろうが、宮部さんには関係ありません。」
冷たく素っ気ない杏子の態度に、宮部の眉間に皺が寄った。杏子の好みだった垂れがちな切れ長の目元は、眉根を寄せると、その端整な顔立ちも相まって酷く不機嫌な表情に見え、杏子は思わず怯んだ。
「坂下の弟と随分親しいようだな。健さん、だって?」
吐き捨てるような宮部の口調に、杏子は再び怒りがこみ上げるのを感じた。自分のことを棚に上げて、杏子が他の男と親しくなることを咎めるような宮部の言い草に、我慢がならなかった。
「貴方には関係無いって言ってるでしょう!もう私に構わないでください。健さんのとこの仕事を終えたら、家も出て行きますから。」
そう言って、今度こそ立ち去ろうとしたが、杏子が足を一歩踏み出す前に、宮部に先を越されてしまった。
「保さん、いつもすみません。午後から大物の出荷があるんですけど、また一時間ほどフォークをお借りしてもいいですか?」
声を荒げた杏子を無視するように、宮部は、母屋から出てきた保の方へ歩き出した。まるで相手にされていない独り相撲のような格好になった杏子は、憎らしい思いで宮部の背中を睨んだが、みれば健も母屋から顔を出して杏子を見ていたので、杏子は吊り上げた眦を元に戻した。
「良かった、杏子さん。まだ居てくれたんだ。何か言い合っていたようだけど、宮部さんと知り合いなんですか?」
杏子に駆け寄ってきた健が、きょとんとした顔で問いかけた。
「あの、…はい。家を貸していただいているんです。宮部さんの伯母様のお家なので、宮部さんには家主代理ということでお世話になっています。」
健は、杏子の言葉に瞠目し、合点がいったように拳を打ち鳴らした。
「あぁ!バス停の近くの。旧道沿いのところですよね?うちの二番目の兄が、池田さんのところに婿養子に行ったんです。そういえば、隣に越してきた若い女性が、宮部さんと挨拶に来たって言ってたけど、杏子さんのことだったんだ。」
杏子は杏子で、合点がいった。あの、好奇心むき出しで杏子を無遠慮に観察した女の、夫に当たる人物。宮部は自分の同級生だと言っていたが、それがこの坂下家の次男であるということだ。先ほど、健のことを坂下の弟、と宮部が呼んでいたが、おそらく、自分の同級生である次男を坂下と呼び、仕事で世話になる長男を保さんと呼び分けているのだろう。
(こういうところが田舎なのね。どこで誰と誰がつながっているかわかったもんじゃないわ。)
自分の隣人が宮部の友人であり、それがこの健の兄でもあると知って、田舎の世間の狭さに辟易した杏子は、再び、熱心に引き留めようとする健に、今度こそ暇を告げて、足早に果樹園を立ち去ったのだった。
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