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第八章 すれ違う心
第五十五話 Mikan
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坂下果樹園の案件は、フリーになった杏子にとって、貴重な経験となる大きな仕事になった。
まず、杏子は、みかんという言葉をどのように訳すか、非常に悩んだ。一般的な英語の知識として、杏子は、蜜柑のことをmandarinとかtangerineと呼ぶということを以前から知っていたが、ネイティブにどのように呼び分けられているのかは知らなかった。
調べてみると、日本を含む東アジア原産の小ぶりな種なしの柑橘果実は、一般的にmandarin orangeと呼ばれることが分かった。そして、その蜜柑がアジアから西洋へもたらされた際に、モロッコのタンジェという町を通じていたことから、一部の品種のmandarin orangeがtangerineと呼ばれるようになったのだそうだ。しかし、ややこしいのはここからで、多くの人々は、このような蜜柑伝来の由来など知るよしもなく、mandarinとtangerineを混同して呼んでいるというのである。現に、杏子がネットで蜜柑の呼び名について調査をしていると、mandarinとtangerineの違いは何ですか?というQ&Aサイトの記事を多く見かけたのだ。
さらには、アメリカ、カナダ、ロシアの辺りでは、日本の蜜柑に特有の呼び名があるようだった。というのも、日本人がアメリカに多く移住した1800年代後半に、クリスマス休暇に日本に帰省した人々が、日本から手土産に買ってきた蜜柑をクリスマスや新年のプレゼントとして配ったという歴史から、それらの地域では、クリスマスプレゼントとして日本の蜜柑を靴下に入れて吊す習慣があるらしく、それゆえ、日本の蜜柑をChristmas orangeとも言うらしかった。
もっとも、一番重要なのは、一般的な英語で蜜柑を何と呼ぶかという点では無く、シンガポールにおいて、何という言葉で表現すれば、人々が日本の蜜柑を頭に思い浮かべるのかという点であった。迷った末に、杏子は、Japanese mandarin orange Mikanという訳を採ることにしたのだった。
日本の蜜柑が習俗の一つともなるほど浸透している北米などと違い、シンガポールでは、Mikanという言葉だけでは蜜柑を思い浮かべる者はいないだろう。しかし、Japanese mandarin orangeという一般的な呼び方だけでは、Mikanという言葉を知ってもらうことができず、そうなると、商品名が記載されたカタログの訳で後々困ると踏んだのだ。坂下果樹園が取り扱う蜜柑の品種名は様々だが、少なからず、みかんという言葉が名前に含まれるからである。
みかんの対訳という初っ端のところで手間取った杏子であるが、呼び名を決めると、そこからは早かった。杏子は、単語登録の画面を開き、Mikanと入力するだけでJapanese mandarin orange Mikanと記入されるように設定した。今後しばらく、数え切れないほどの蜜柑を訳さなければならないからである。
保からもらった納期は、1ヶ月半ほどであった。杏子はまず、余裕をみた日数で仕事量を日割りし、それほどには一日の仕事量が多く無いことに気づいた。時間を掛けて、最良の訳を付けようと心に決めつつ、空いた時間にはインスタント翻訳.comの仕事も積極的に引き受け、そうして仕事漬けの五月を過ごした杏子であった。
世間的には、ゴールデンウィークという楽しげなイベントがあったようであるが、デートに出かけるような彼氏もおらず、帰省するような実家も無い杏子には、全く関係のない話であった。
四月中に一度、仕事の進捗を尋ねる電話が健からあり、その際に連休に出かけないかと誘われたが、納期に間に合わせられるように頑張らないといけないと、杏子は嘘をついて断った。
健は、実に人懐っこい質のようであった。会えばいつもにこにこと、少年のように無邪気な笑顔を浮かべて、少しも黙する暇が無いほど、杏子を会話に引きずり込むのである。健が杏子に好意を持っていそうなことは、杏子にも明白だった。それでも、杏子はまだ、宮部以外の男性と、どこかに出かけて何かをするような、そんな浮かれた気分にはなれなかった。かといって、宮部とどうこうなりたいのかと言われると、それはそれで腹立たしい気持ちが再燃するのである。宮部とのことが、昔の恋と言えるようになるまでは、杏子にはまだ少しの時間が必要であった。それでも、週に一度は根気よく杏子に電話をして、週末に出かけないかと誘い、仕事を理由に断られてもめげずに、半時ほど世間話を押しつけていく健の努力の甲斐あって、杏子と健は、すっかり砕けた口調で会話する仲にまでは発展したのだった。
まず、杏子は、みかんという言葉をどのように訳すか、非常に悩んだ。一般的な英語の知識として、杏子は、蜜柑のことをmandarinとかtangerineと呼ぶということを以前から知っていたが、ネイティブにどのように呼び分けられているのかは知らなかった。
調べてみると、日本を含む東アジア原産の小ぶりな種なしの柑橘果実は、一般的にmandarin orangeと呼ばれることが分かった。そして、その蜜柑がアジアから西洋へもたらされた際に、モロッコのタンジェという町を通じていたことから、一部の品種のmandarin orangeがtangerineと呼ばれるようになったのだそうだ。しかし、ややこしいのはここからで、多くの人々は、このような蜜柑伝来の由来など知るよしもなく、mandarinとtangerineを混同して呼んでいるというのである。現に、杏子がネットで蜜柑の呼び名について調査をしていると、mandarinとtangerineの違いは何ですか?というQ&Aサイトの記事を多く見かけたのだ。
さらには、アメリカ、カナダ、ロシアの辺りでは、日本の蜜柑に特有の呼び名があるようだった。というのも、日本人がアメリカに多く移住した1800年代後半に、クリスマス休暇に日本に帰省した人々が、日本から手土産に買ってきた蜜柑をクリスマスや新年のプレゼントとして配ったという歴史から、それらの地域では、クリスマスプレゼントとして日本の蜜柑を靴下に入れて吊す習慣があるらしく、それゆえ、日本の蜜柑をChristmas orangeとも言うらしかった。
もっとも、一番重要なのは、一般的な英語で蜜柑を何と呼ぶかという点では無く、シンガポールにおいて、何という言葉で表現すれば、人々が日本の蜜柑を頭に思い浮かべるのかという点であった。迷った末に、杏子は、Japanese mandarin orange Mikanという訳を採ることにしたのだった。
日本の蜜柑が習俗の一つともなるほど浸透している北米などと違い、シンガポールでは、Mikanという言葉だけでは蜜柑を思い浮かべる者はいないだろう。しかし、Japanese mandarin orangeという一般的な呼び方だけでは、Mikanという言葉を知ってもらうことができず、そうなると、商品名が記載されたカタログの訳で後々困ると踏んだのだ。坂下果樹園が取り扱う蜜柑の品種名は様々だが、少なからず、みかんという言葉が名前に含まれるからである。
みかんの対訳という初っ端のところで手間取った杏子であるが、呼び名を決めると、そこからは早かった。杏子は、単語登録の画面を開き、Mikanと入力するだけでJapanese mandarin orange Mikanと記入されるように設定した。今後しばらく、数え切れないほどの蜜柑を訳さなければならないからである。
保からもらった納期は、1ヶ月半ほどであった。杏子はまず、余裕をみた日数で仕事量を日割りし、それほどには一日の仕事量が多く無いことに気づいた。時間を掛けて、最良の訳を付けようと心に決めつつ、空いた時間にはインスタント翻訳.comの仕事も積極的に引き受け、そうして仕事漬けの五月を過ごした杏子であった。
世間的には、ゴールデンウィークという楽しげなイベントがあったようであるが、デートに出かけるような彼氏もおらず、帰省するような実家も無い杏子には、全く関係のない話であった。
四月中に一度、仕事の進捗を尋ねる電話が健からあり、その際に連休に出かけないかと誘われたが、納期に間に合わせられるように頑張らないといけないと、杏子は嘘をついて断った。
健は、実に人懐っこい質のようであった。会えばいつもにこにこと、少年のように無邪気な笑顔を浮かべて、少しも黙する暇が無いほど、杏子を会話に引きずり込むのである。健が杏子に好意を持っていそうなことは、杏子にも明白だった。それでも、杏子はまだ、宮部以外の男性と、どこかに出かけて何かをするような、そんな浮かれた気分にはなれなかった。かといって、宮部とどうこうなりたいのかと言われると、それはそれで腹立たしい気持ちが再燃するのである。宮部とのことが、昔の恋と言えるようになるまでは、杏子にはまだ少しの時間が必要であった。それでも、週に一度は根気よく杏子に電話をして、週末に出かけないかと誘い、仕事を理由に断られてもめげずに、半時ほど世間話を押しつけていく健の努力の甲斐あって、杏子と健は、すっかり砕けた口調で会話する仲にまでは発展したのだった。
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