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第八章 すれ違う心
第五十六話 応えられない想い
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五月も残すところあと二日となった土曜日、杏子は、完成した翻訳のファイルを入れたUSBを携えて、坂下果樹園を訪れていた。以前にも通された豪奢な応接間で、ローテーブルにノートパソコンを広げた健が、杏子の納品したファイルを確認した。都度、この部分がこの訳であると、手元の資料の用紙と画面とを交互に指さしながら、杏子は健に説明していく。小さめの画面を二人で覗き、一枚の用紙を二人で眺めると、必然、お互いの肩がぶつかるほど距離が近づき、杏子を落ち着かない気分にさせる。自分に好意を持っているであろう相手、それも、自分の方には応えるつもりがない相手に、パーソナルスペースにこうも深く踏み込まれると、女としての本能が潜在的な危機を感じ取るのかも知れないと、杏子は思った。
とはいえ、あどけない少年のような顔立ちの健であるから、いくら杏子に好意を持っていて肩を寄せ合う距離にいたとしても、何の害もなさそうであると感じていた杏子は、すっかり油断をしていたのかもしれない。気づけば、ファイルの確認を終えてパソコンを閉じた健が、先ほどの近距離を保ったまま、杏子をじっと見つめていたのだ。
「杏子さん。うちがお願いした仕事だから、邪魔しちゃいけないと思って遠慮してたけど、もう良いよね。僕、杏子さんのこと好きなんだ。年下で頼りないかもしれないけど、この町で自立しようとしてる杏子さんを助けていきたいと思ってる。僕を杏子さんの彼氏にしてくれないかな?」
いつもと同じ、軽い口調でそう言った健だが、くりくりとした大きな瞳が、今は恋情に揺らめいているのが見て取れ、杏子は健の本気を悟った。
杏子は、答えに窮した。童顔で小柄であるとはいえ、整った顔立ちの優男である健が、杏子を好きだと言うのである。実家は代々商売繁盛している名家で、三男である健は跡継ぎでは無いとはいえ、役場勤務という安定した職に就いている。性格も朗らかで真っ直ぐな人柄は大変に好ましいと言えるだろう。杏子には、迷う理由が無かった。にもかかわらず、YESと手放しで言えないのはなぜだろうと考えて、あぁ自分はまだ宮部が好きなのだと、杏子はようやく自分の心を正直に認めることができたのだった。
「あの…、ごめんね。気持ちはすごく嬉しいんだけど…、今は誰とも付き合うつもりはないの。」
杏子は、申し訳無い気持ちでいっぱいだった。当初は、健の押しつけがましいほどの好意を持て余していた杏子だが、断っても断っても気分を少しも害すること無く杏子を誘い続ける健に、すっかり絆されてしまっていたのだ。健の気持ちに応えることができればどれだけよかっただろうと、杏子は心の底から残念に思った。
「嫌だな、杏子さん。そんなすぐに断らないでよ。結局まだ一度もデートしてくれてないでしょう。ちょっと僕とデートしてみて、もっと僕のこと知ってよ。答えを出すのはそれからでいいから。」
本当にめげない男である、と杏子は感心した。告白を断られたのに少しも傷ついた様子も無く、変わらず明るくそう言ってのけたのだ。健の告白を受けて、いたたまれない気持ちでいた杏子だったが、馬鹿馬鹿しくなり、そういうことで良いのなら…と健の提案を承知した。
「よかった。じゃあ早速だけど、明日の朝、駅前広場まで来てくれる?僕は仕事なんだけど、杏子さんの顔が見たいから。」
ずいぶんと一方的な要求だなと、杏子は驚いたが、健の朗らかな笑みを前にしては文句を言おうとも思えない。
「駅前広場?何の仕事なの?」
「地元の農産物を直売する市場が立つんだ。隔週の日曜にね。当番制で日曜出勤なんだよ。いつも憂鬱なんだけど、杏子さんの顔が見れるなら頑張れるよ。」
「産直市場?それは面白そう。ぜひ行かせてもらうわ。でも、私が行っても行かなくても、お仕事は頑張りなさいよ。」
杏子が軽口を叩くと、健は肩を竦めて、はーいと子供のような返事をした。可愛い、と思わず感じた杏子は、健をどこか弟のように見ているのかも知れないなと、心の中で呟いたのだった。
とはいえ、あどけない少年のような顔立ちの健であるから、いくら杏子に好意を持っていて肩を寄せ合う距離にいたとしても、何の害もなさそうであると感じていた杏子は、すっかり油断をしていたのかもしれない。気づけば、ファイルの確認を終えてパソコンを閉じた健が、先ほどの近距離を保ったまま、杏子をじっと見つめていたのだ。
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いつもと同じ、軽い口調でそう言った健だが、くりくりとした大きな瞳が、今は恋情に揺らめいているのが見て取れ、杏子は健の本気を悟った。
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「あの…、ごめんね。気持ちはすごく嬉しいんだけど…、今は誰とも付き合うつもりはないの。」
杏子は、申し訳無い気持ちでいっぱいだった。当初は、健の押しつけがましいほどの好意を持て余していた杏子だが、断っても断っても気分を少しも害すること無く杏子を誘い続ける健に、すっかり絆されてしまっていたのだ。健の気持ちに応えることができればどれだけよかっただろうと、杏子は心の底から残念に思った。
「嫌だな、杏子さん。そんなすぐに断らないでよ。結局まだ一度もデートしてくれてないでしょう。ちょっと僕とデートしてみて、もっと僕のこと知ってよ。答えを出すのはそれからでいいから。」
本当にめげない男である、と杏子は感心した。告白を断られたのに少しも傷ついた様子も無く、変わらず明るくそう言ってのけたのだ。健の告白を受けて、いたたまれない気持ちでいた杏子だったが、馬鹿馬鹿しくなり、そういうことで良いのなら…と健の提案を承知した。
「よかった。じゃあ早速だけど、明日の朝、駅前広場まで来てくれる?僕は仕事なんだけど、杏子さんの顔が見たいから。」
ずいぶんと一方的な要求だなと、杏子は驚いたが、健の朗らかな笑みを前にしては文句を言おうとも思えない。
「駅前広場?何の仕事なの?」
「地元の農産物を直売する市場が立つんだ。隔週の日曜にね。当番制で日曜出勤なんだよ。いつも憂鬱なんだけど、杏子さんの顔が見れるなら頑張れるよ。」
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