君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
56 / 110
第八章 すれ違う心

第五十六話 応えられない想い

しおりを挟む
五月も残すところあと二日となった土曜日、杏子は、完成した翻訳のファイルを入れたUSBを携えて、坂下果樹園を訪れていた。以前にも通された豪奢な応接間で、ローテーブルにノートパソコンを広げた健が、杏子の納品したファイルを確認した。都度、この部分がこの訳であると、手元の資料の用紙と画面とを交互に指さしながら、杏子は健に説明していく。小さめの画面を二人で覗き、一枚の用紙を二人で眺めると、必然、お互いの肩がぶつかるほど距離が近づき、杏子を落ち着かない気分にさせる。自分に好意を持っているであろう相手、それも、自分の方には応えるつもりがない相手に、パーソナルスペースにこうも深く踏み込まれると、女としての本能が潜在的な危機を感じ取るのかも知れないと、杏子は思った。
とはいえ、あどけない少年のような顔立ちの健であるから、いくら杏子に好意を持っていて肩を寄せ合う距離にいたとしても、何の害もなさそうであると感じていた杏子は、すっかり油断をしていたのかもしれない。気づけば、ファイルの確認を終えてパソコンを閉じた健が、先ほどの近距離を保ったまま、杏子をじっと見つめていたのだ。
「杏子さん。うちがお願いした仕事だから、邪魔しちゃいけないと思って遠慮してたけど、もう良いよね。僕、杏子さんのこと好きなんだ。年下で頼りないかもしれないけど、この町で自立しようとしてる杏子さんを助けていきたいと思ってる。僕を杏子さんの彼氏にしてくれないかな?」
いつもと同じ、軽い口調でそう言った健だが、くりくりとした大きな瞳が、今は恋情に揺らめいているのが見て取れ、杏子は健の本気を悟った。

杏子は、答えに窮した。童顔で小柄であるとはいえ、整った顔立ちの優男である健が、杏子を好きだと言うのである。実家は代々商売繁盛している名家で、三男である健は跡継ぎでは無いとはいえ、役場勤務という安定した職に就いている。性格も朗らかで真っ直ぐな人柄は大変に好ましいと言えるだろう。杏子には、迷う理由が無かった。にもかかわらず、YESと手放しで言えないのはなぜだろうと考えて、あぁ自分はまだ宮部が好きなのだと、杏子はようやく自分の心を正直に認めることができたのだった。

「あの…、ごめんね。気持ちはすごく嬉しいんだけど…、今は誰とも付き合うつもりはないの。」
杏子は、申し訳無い気持ちでいっぱいだった。当初は、健の押しつけがましいほどの好意を持て余していた杏子だが、断っても断っても気分を少しも害すること無く杏子を誘い続ける健に、すっかり絆されてしまっていたのだ。健の気持ちに応えることができればどれだけよかっただろうと、杏子は心の底から残念に思った。
「嫌だな、杏子さん。そんなすぐに断らないでよ。結局まだ一度もデートしてくれてないでしょう。ちょっと僕とデートしてみて、もっと僕のこと知ってよ。答えを出すのはそれからでいいから。」
本当にめげない男である、と杏子は感心した。告白を断られたのに少しも傷ついた様子も無く、変わらず明るくそう言ってのけたのだ。健の告白を受けて、いたたまれない気持ちでいた杏子だったが、馬鹿馬鹿しくなり、そういうことで良いのなら…と健の提案を承知した。
「よかった。じゃあ早速だけど、明日の朝、駅前広場まで来てくれる?僕は仕事なんだけど、杏子さんの顔が見たいから。」
ずいぶんと一方的な要求だなと、杏子は驚いたが、健の朗らかな笑みを前にしては文句を言おうとも思えない。
「駅前広場?何の仕事なの?」
「地元の農産物を直売する市場が立つんだ。隔週の日曜にね。当番制で日曜出勤なんだよ。いつも憂鬱なんだけど、杏子さんの顔が見れるなら頑張れるよ。」
「産直市場?それは面白そう。ぜひ行かせてもらうわ。でも、私が行っても行かなくても、お仕事は頑張りなさいよ。」
杏子が軽口を叩くと、健は肩を竦めて、はーいと子供のような返事をした。可愛い、と思わず感じた杏子は、健をどこか弟のように見ているのかも知れないなと、心の中で呟いたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...