57 / 110
第八章 すれ違う心
第五十七話 オオカミと白い子豚
しおりを挟む
第三者が見ても、健が杏子に告白し杏子がそれを断ったなど、思いつきもしないだろうという程に、二人は和やかに別れの挨拶をし、最後に明日の約束をもう一度確認してから別れた。
杏子は、先ほどの出来事を思い返しつつ、愛車を押して坂を下り始めた。
健は、仕事で知り合ったとはいえ、宮部を除けばこの町で初めて出来た友人とも言える人物だった。女として好意を寄せられることは嬉しいが、告げられた想いを拒絶したことで、せっかくの友人を失ってしまうのは惜しいというのが、杏子の正直な気持ちである。健の言葉に甘えて、二人で何度か出かけるうちに、健が杏子を友人として見てくれるようになれば良いと、杏子は都合の良い考えで居た。或いは、ひょっとしたら、万が一にでも、健の情熱に負けて、杏子が宮部への恋心を忘れ、健と新たな関係を始めることが出来たなら、それはそれで良いかもしれないと、杏子は思った。
急すぎる勾配のこの参道は、登るときも一苦労であるが、下りるときもまた大変だった。自転車に乗って下りると、スピードが出過ぎてカーブを曲がりきれない恐れがあり、杏子はいつも歩いて下りていた。登りは必至に押し上げる愛車を、今はブレーキを固く握りながらゆっくりと走らせている。太陽の庭を過ぎる辺りまで堪えれば、後は跨がって下りることができる。もう少しの辛抱だ、と杏子が慎重に歩を進めていたそのとき、見慣れた軽トラが坂を上がってくるのが杏子の視界に入った。
(宮部さん…。)
折悪く、健の告白により、宮部への断ちきれない想いを自覚した杏子は、一ヶ月以上も見ることの無かった恋しい男の顔を見て、胸が高鳴るのを押さえきれなかった。
蛇行する坂をゆっくり登る車が、最後のカーブにさしかかり、ようやく宮部の顔が正面から見えるアングルになったところで、杏子の心臓は芯まで凍り付いた。
運転する宮部の隣には、女が乗っていたのだ。
遠目でも、車のフロントガラス越しでも、杏子にはそれが若い女であることが分かった。髪はまっすぐ長く垂れ、シャープな顎のラインと華奢な肩幅を見れば、その女が、杏子とは決して違うスレンダーな美しさを持つ人物であることが分かる。少し俯いているせいで、その顔立ちを見ることは出来ないが、宮部を魅了するほどに整った顔立ちであることは間違いない。
杏子が驚きと絶望のあまり、その場に立ち尽くしている間に、女と宮部を乗せた軽トラは、派手な音を立てて砂利道の奥へと消えた。二人が杏子に気づくことは無かった。
しばらく呆然と立っていた杏子であるが、もう一つだけカーブを歩いて下りてから、すぐに自転車に跨がって、全速力で自宅へと帰った。
宮部への未練を自覚したとたんに、杏子の心はずたずたに引き裂かれ、杏子は、まるで二度も宮部に失恋をしたような気分だった。前回と同じように、杏子の思考は負のループに囚われている。すなわち、宮部と女のあれこれを想像して、これ以上は無いと言うほどに落ち込むのである。
さらに、今回は、女の姿を確認してしまい、杏子が元より抱えているコンプレックスまでもが杏子を苛んだ。
女は、杏子とは正反対の様相をしていた。華奢で女らしい、そんな形容が似合う人物だった。杏子は、失恋の痛手で幾分痩せたとはいえ、依然ふくよかな体型をしている。宮部に触れられていた頃など、今よりも5キロほど肉が乗っていて、さぞ真ん丸なラインをしていたことだろう。宮部は、そんな杏子の触り心地を楽しんでいるような節があったが、蓋を開けてみれば、宮部も世の男性と同じく、スレンダーなモデル体型の女が好みなのだ。
女の顔は見えなかったというのに、杏子の頭の中では、はっきりとその相貌を描くことが出来た。すっと通った細い鼻筋に、猫のような勝ち気で大きな吊り目、唇は飾りのように小さく、大口でおにぎりを頬張るなど到底できはしないのだ。
杏子は、決して自分を不細工だとは思っていない。猫目のような目力は無いが、目はくっきりとした二重で、ドングリのような円らな可愛さはある。鼻は、残念ながら、ごく普通の日本人的な高さであるが、唇はふっくらと厚く、口は、おにぎりを大きく頬張るのに十分なサイズがあった。
つまりは、普通の顔である。目を惹くような美人では無いが、よくよく見れば、結構可愛らしい顔をしているじゃないかと、漸く気づいてもらえる程度なのだ。
もし、自分があの女のようにスリムな体型であったら。もし、自分が今どきの美人な顔立ちであったら。もし…。そう考えて、否、と杏子は思い直した。
宮部がそもそも杏子に興味を持ったのは、杏子があの女とは違うタイプだったからではないか。日頃スレンダーな美人を相手にしていたところ、別の女が自分に好意を持って近づいてきたのだ。よく見てみると、白くて柔らかそうな、ぼんやりとした女である。どれ、ちょっと味見してみようか。
悪いオオカミが、白い子ヤギならぬ白い子豚を捕って喰おうとしている様を想像して、それがこの状況をぴたりと上手く説明しているではないかと、杏子は思ったのだった。
杏子は、先ほどの出来事を思い返しつつ、愛車を押して坂を下り始めた。
健は、仕事で知り合ったとはいえ、宮部を除けばこの町で初めて出来た友人とも言える人物だった。女として好意を寄せられることは嬉しいが、告げられた想いを拒絶したことで、せっかくの友人を失ってしまうのは惜しいというのが、杏子の正直な気持ちである。健の言葉に甘えて、二人で何度か出かけるうちに、健が杏子を友人として見てくれるようになれば良いと、杏子は都合の良い考えで居た。或いは、ひょっとしたら、万が一にでも、健の情熱に負けて、杏子が宮部への恋心を忘れ、健と新たな関係を始めることが出来たなら、それはそれで良いかもしれないと、杏子は思った。
急すぎる勾配のこの参道は、登るときも一苦労であるが、下りるときもまた大変だった。自転車に乗って下りると、スピードが出過ぎてカーブを曲がりきれない恐れがあり、杏子はいつも歩いて下りていた。登りは必至に押し上げる愛車を、今はブレーキを固く握りながらゆっくりと走らせている。太陽の庭を過ぎる辺りまで堪えれば、後は跨がって下りることができる。もう少しの辛抱だ、と杏子が慎重に歩を進めていたそのとき、見慣れた軽トラが坂を上がってくるのが杏子の視界に入った。
(宮部さん…。)
折悪く、健の告白により、宮部への断ちきれない想いを自覚した杏子は、一ヶ月以上も見ることの無かった恋しい男の顔を見て、胸が高鳴るのを押さえきれなかった。
蛇行する坂をゆっくり登る車が、最後のカーブにさしかかり、ようやく宮部の顔が正面から見えるアングルになったところで、杏子の心臓は芯まで凍り付いた。
運転する宮部の隣には、女が乗っていたのだ。
遠目でも、車のフロントガラス越しでも、杏子にはそれが若い女であることが分かった。髪はまっすぐ長く垂れ、シャープな顎のラインと華奢な肩幅を見れば、その女が、杏子とは決して違うスレンダーな美しさを持つ人物であることが分かる。少し俯いているせいで、その顔立ちを見ることは出来ないが、宮部を魅了するほどに整った顔立ちであることは間違いない。
杏子が驚きと絶望のあまり、その場に立ち尽くしている間に、女と宮部を乗せた軽トラは、派手な音を立てて砂利道の奥へと消えた。二人が杏子に気づくことは無かった。
しばらく呆然と立っていた杏子であるが、もう一つだけカーブを歩いて下りてから、すぐに自転車に跨がって、全速力で自宅へと帰った。
宮部への未練を自覚したとたんに、杏子の心はずたずたに引き裂かれ、杏子は、まるで二度も宮部に失恋をしたような気分だった。前回と同じように、杏子の思考は負のループに囚われている。すなわち、宮部と女のあれこれを想像して、これ以上は無いと言うほどに落ち込むのである。
さらに、今回は、女の姿を確認してしまい、杏子が元より抱えているコンプレックスまでもが杏子を苛んだ。
女は、杏子とは正反対の様相をしていた。華奢で女らしい、そんな形容が似合う人物だった。杏子は、失恋の痛手で幾分痩せたとはいえ、依然ふくよかな体型をしている。宮部に触れられていた頃など、今よりも5キロほど肉が乗っていて、さぞ真ん丸なラインをしていたことだろう。宮部は、そんな杏子の触り心地を楽しんでいるような節があったが、蓋を開けてみれば、宮部も世の男性と同じく、スレンダーなモデル体型の女が好みなのだ。
女の顔は見えなかったというのに、杏子の頭の中では、はっきりとその相貌を描くことが出来た。すっと通った細い鼻筋に、猫のような勝ち気で大きな吊り目、唇は飾りのように小さく、大口でおにぎりを頬張るなど到底できはしないのだ。
杏子は、決して自分を不細工だとは思っていない。猫目のような目力は無いが、目はくっきりとした二重で、ドングリのような円らな可愛さはある。鼻は、残念ながら、ごく普通の日本人的な高さであるが、唇はふっくらと厚く、口は、おにぎりを大きく頬張るのに十分なサイズがあった。
つまりは、普通の顔である。目を惹くような美人では無いが、よくよく見れば、結構可愛らしい顔をしているじゃないかと、漸く気づいてもらえる程度なのだ。
もし、自分があの女のようにスリムな体型であったら。もし、自分が今どきの美人な顔立ちであったら。もし…。そう考えて、否、と杏子は思い直した。
宮部がそもそも杏子に興味を持ったのは、杏子があの女とは違うタイプだったからではないか。日頃スレンダーな美人を相手にしていたところ、別の女が自分に好意を持って近づいてきたのだ。よく見てみると、白くて柔らかそうな、ぼんやりとした女である。どれ、ちょっと味見してみようか。
悪いオオカミが、白い子ヤギならぬ白い子豚を捕って喰おうとしている様を想像して、それがこの状況をぴたりと上手く説明しているではないかと、杏子は思ったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる