君に捧ぐ花

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第八章 すれ違う心

第五十七話 オオカミと白い子豚

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第三者が見ても、健が杏子に告白し杏子がそれを断ったなど、思いつきもしないだろうという程に、二人は和やかに別れの挨拶をし、最後に明日の約束をもう一度確認してから別れた。
杏子は、先ほどの出来事を思い返しつつ、愛車を押して坂を下り始めた。
健は、仕事で知り合ったとはいえ、宮部を除けばこの町で初めて出来た友人とも言える人物だった。女として好意を寄せられることは嬉しいが、告げられた想いを拒絶したことで、せっかくの友人を失ってしまうのは惜しいというのが、杏子の正直な気持ちである。健の言葉に甘えて、二人で何度か出かけるうちに、健が杏子を友人として見てくれるようになれば良いと、杏子は都合の良い考えで居た。或いは、ひょっとしたら、万が一にでも、健の情熱に負けて、杏子が宮部への恋心を忘れ、健と新たな関係を始めることが出来たなら、それはそれで良いかもしれないと、杏子は思った。

急すぎる勾配のこの参道は、登るときも一苦労であるが、下りるときもまた大変だった。自転車に乗って下りると、スピードが出過ぎてカーブを曲がりきれない恐れがあり、杏子はいつも歩いて下りていた。登りは必至に押し上げる愛車を、今はブレーキを固く握りながらゆっくりと走らせている。太陽の庭を過ぎる辺りまで堪えれば、後は跨がって下りることができる。もう少しの辛抱だ、と杏子が慎重に歩を進めていたそのとき、見慣れた軽トラが坂を上がってくるのが杏子の視界に入った。

(宮部さん…。)

折悪く、健の告白により、宮部への断ちきれない想いを自覚した杏子は、一ヶ月以上も見ることの無かった恋しい男の顔を見て、胸が高鳴るのを押さえきれなかった。
蛇行する坂をゆっくり登る車が、最後のカーブにさしかかり、ようやく宮部の顔が正面から見えるアングルになったところで、杏子の心臓は芯まで凍り付いた。

運転する宮部の隣には、女が乗っていたのだ。
遠目でも、車のフロントガラス越しでも、杏子にはそれが若い女であることが分かった。髪はまっすぐ長く垂れ、シャープな顎のラインと華奢な肩幅を見れば、その女が、杏子とは決して違うスレンダーな美しさを持つ人物であることが分かる。少し俯いているせいで、その顔立ちを見ることは出来ないが、宮部を魅了するほどに整った顔立ちであることは間違いない。
杏子が驚きと絶望のあまり、その場に立ち尽くしている間に、女と宮部を乗せた軽トラは、派手な音を立てて砂利道の奥へと消えた。二人が杏子に気づくことは無かった。

しばらく呆然と立っていた杏子であるが、もう一つだけカーブを歩いて下りてから、すぐに自転車に跨がって、全速力で自宅へと帰った。
宮部への未練を自覚したとたんに、杏子の心はずたずたに引き裂かれ、杏子は、まるで二度も宮部に失恋をしたような気分だった。前回と同じように、杏子の思考は負のループに囚われている。すなわち、宮部と女のあれこれを想像して、これ以上は無いと言うほどに落ち込むのである。
さらに、今回は、女の姿を確認してしまい、杏子が元より抱えているコンプレックスまでもが杏子を苛んだ。
女は、杏子とは正反対の様相をしていた。華奢で女らしい、そんな形容が似合う人物だった。杏子は、失恋の痛手で幾分痩せたとはいえ、依然ふくよかな体型をしている。宮部に触れられていた頃など、今よりも5キロほど肉が乗っていて、さぞ真ん丸なラインをしていたことだろう。宮部は、そんな杏子の触り心地を楽しんでいるような節があったが、蓋を開けてみれば、宮部も世の男性と同じく、スレンダーなモデル体型の女が好みなのだ。
女の顔は見えなかったというのに、杏子の頭の中では、はっきりとその相貌を描くことが出来た。すっと通った細い鼻筋に、猫のような勝ち気で大きな吊り目、唇は飾りのように小さく、大口でおにぎりを頬張るなど到底できはしないのだ。
杏子は、決して自分を不細工だとは思っていない。猫目のような目力は無いが、目はくっきりとした二重で、ドングリのような円らな可愛さはある。鼻は、残念ながら、ごく普通の日本人的な高さであるが、唇はふっくらと厚く、口は、おにぎりを大きく頬張るのに十分なサイズがあった。
つまりは、普通の顔である。目を惹くような美人では無いが、よくよく見れば、結構可愛らしい顔をしているじゃないかと、漸く気づいてもらえる程度なのだ。

もし、自分があの女のようにスリムな体型であったら。もし、自分が今どきの美人な顔立ちであったら。もし…。そう考えて、否、と杏子は思い直した。
宮部がそもそも杏子に興味を持ったのは、杏子があの女とは違うタイプだったからではないか。日頃スレンダーな美人を相手にしていたところ、別の女が自分に好意を持って近づいてきたのだ。よく見てみると、白くて柔らかそうな、ぼんやりとした女である。どれ、ちょっと味見してみようか。
悪いオオカミが、白い子ヤギならぬ白い子豚を捕って喰おうとしている様を想像して、それがこの状況をぴたりと上手く説明しているではないかと、杏子は思ったのだった。
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