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第九章 真実の端緒
第六十五話 予期せぬ来客
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杏子は、底なし沼のように深い、思考の深淵を彷徨っていた。そこは暗くて冷たい、一縷の望みさえ無い絶望の谷底である。何かを探し求めて、希望を胸に住処を離れたはずなのに、一体自分が何を追い求めていたのか、もはや見当も付かない。甘く温かい、何か素敵なものだったのではないだろうか。一度は、それをこの胸に抱いたような気もするのに、今はもう、そんな温もりは、僅かな残渣でさえも見当たらない。なぜ自分がここに居るのか、どうやってこんな遠くまで来てしまったのか、杏子には何もかもが解らなかった。もう家に帰りたい。そう思っても、自分の家がどこにあるのか、どんなものだったのか、思い出すことができない。果たして、誰かが自分の帰りを待っているのだろうか。いや、自分はひとりぼっちだったではないか。正に、今もそうであるように、家と呼ばれる元居た住処においても、自分は最初から、孤独だったのだ。
悪い夢を見ていた杏子は、眠りから覚めてもなお、絶望感に包まれていた。布団から起き上がることも、出来そうに無かった。
杏子は、心の奥底のどこかで、宮部が疑惑の全てを否定してくれることを期待していた。杏子の詰問に対して、なんだそんなこと、と、あっけらかんと誤解を解いてくれるのではないかと、希望を持っていた。しかし、宮部は全てを認め、その上で何も言うことは無いと、杏子に背を向けたのだ。あの女がどこの誰であったのか、なぜ杏子にも手を出したのか、そんな疑問に答えてやる義理も無いと、早く家を出て行けと、宮部は杏子を決定的に拒絶した。
女の存在を知って、姿を確認して、何度となく目を泣きはらした杏子であったが、今回は、不思議と涙は出なかった。ただひたすらに、どうしようもないほどの絶望感が、杏子を苛んだ。宮部の言うとおり、この家を出るためには、仕事に励むべきなのだろうが、今の杏子には土台無理な話であった。
昼前になって漸く、杏子は布団から這い出ることが出来た。食事もそこそこに、コーヒーを片手に広縁に座り込んだ。この家に越して来て2ヶ月が経ち、季節は春から初夏へと移ろいつつある。さすがの瀬戸内海式気候と言えども、梅雨には雨が多くなるようで、今日もどんよりと立ちこめる薄暗い雲は、まるで杏子の胸中を表したようであった。
ピンポンと、古めかしいチャイムの音が響き、杏子は、いつもの思考のループから抜け出した。
誰だろうかと思案するも、杏子には嫌な予感しかしなかった。詫びに来た健であろうか。それとも、さらに杏子に追い打ちを掛けるべく舞い戻った宮部であろうか。或いは、早くも宮部から何かを聞きつけた、佑の怒鳴り込みかもしれない。
そのうちの誰であったとしても、杏子は会いたくは無かった。居留守を決め込もうと思ったが、この訪問者は執拗にチャイムを鳴らし続け、帰る気配は無かった。
長い間隔で四度目のチャイムが鳴ったとき、杏子が諦めて玄関へ出ると、屈折したガラス越しの像は、杏子が予想した誰のものとも異なり、扉の向こうに立っているのは線の細い女性のように思われた。
「どちら様ですか。」
杏子が固い声で問いかけると、やはり訪問者は女性で、それも年配者のような柔らかみのある音が帰ってきた。
「ごめんください。私、この家の持ち主の曽我静子と申します。近くまで参りましたので、ご挨拶に伺いました。」
杏子は、慌てて外履きを突っ掛け、玄関の扉を開けた。施錠された門の外には、すらりと背の高い、初老の女性がひっそりと佇んでいた。
(この人が、宮部さんの伯母様。お歳を召しているのに、凛として素敵な人。)
淡いブルーグレーのツーピースに、白いインナーを合わせた静子は、60にも手が届くのでは無いかという年齢であろうが、その背の高さと姿勢の良さで、随分と若々しい印象を与えた。
「先触れも無くお訪ねして申し訳ありません。少し、お邪魔してもよろしいでしょうか。」
先ほど名乗ったときと同様に、しっとりと、丁寧な口調で、静子はそう言った。
「どうぞ、お上がりください。すみません、スリッパも何も無いのですが…。」
杏子は、この品の良い老婦人を迎えるのに、何のふさわしいもてなしもできず少し恥ずかしく感じたが、せめて布団くらいは上げておいて良かったと、心の底から安堵したのだった。
悪い夢を見ていた杏子は、眠りから覚めてもなお、絶望感に包まれていた。布団から起き上がることも、出来そうに無かった。
杏子は、心の奥底のどこかで、宮部が疑惑の全てを否定してくれることを期待していた。杏子の詰問に対して、なんだそんなこと、と、あっけらかんと誤解を解いてくれるのではないかと、希望を持っていた。しかし、宮部は全てを認め、その上で何も言うことは無いと、杏子に背を向けたのだ。あの女がどこの誰であったのか、なぜ杏子にも手を出したのか、そんな疑問に答えてやる義理も無いと、早く家を出て行けと、宮部は杏子を決定的に拒絶した。
女の存在を知って、姿を確認して、何度となく目を泣きはらした杏子であったが、今回は、不思議と涙は出なかった。ただひたすらに、どうしようもないほどの絶望感が、杏子を苛んだ。宮部の言うとおり、この家を出るためには、仕事に励むべきなのだろうが、今の杏子には土台無理な話であった。
昼前になって漸く、杏子は布団から這い出ることが出来た。食事もそこそこに、コーヒーを片手に広縁に座り込んだ。この家に越して来て2ヶ月が経ち、季節は春から初夏へと移ろいつつある。さすがの瀬戸内海式気候と言えども、梅雨には雨が多くなるようで、今日もどんよりと立ちこめる薄暗い雲は、まるで杏子の胸中を表したようであった。
ピンポンと、古めかしいチャイムの音が響き、杏子は、いつもの思考のループから抜け出した。
誰だろうかと思案するも、杏子には嫌な予感しかしなかった。詫びに来た健であろうか。それとも、さらに杏子に追い打ちを掛けるべく舞い戻った宮部であろうか。或いは、早くも宮部から何かを聞きつけた、佑の怒鳴り込みかもしれない。
そのうちの誰であったとしても、杏子は会いたくは無かった。居留守を決め込もうと思ったが、この訪問者は執拗にチャイムを鳴らし続け、帰る気配は無かった。
長い間隔で四度目のチャイムが鳴ったとき、杏子が諦めて玄関へ出ると、屈折したガラス越しの像は、杏子が予想した誰のものとも異なり、扉の向こうに立っているのは線の細い女性のように思われた。
「どちら様ですか。」
杏子が固い声で問いかけると、やはり訪問者は女性で、それも年配者のような柔らかみのある音が帰ってきた。
「ごめんください。私、この家の持ち主の曽我静子と申します。近くまで参りましたので、ご挨拶に伺いました。」
杏子は、慌てて外履きを突っ掛け、玄関の扉を開けた。施錠された門の外には、すらりと背の高い、初老の女性がひっそりと佇んでいた。
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先ほど名乗ったときと同様に、しっとりと、丁寧な口調で、静子はそう言った。
「どうぞ、お上がりください。すみません、スリッパも何も無いのですが…。」
杏子は、この品の良い老婦人を迎えるのに、何のふさわしいもてなしもできず少し恥ずかしく感じたが、せめて布団くらいは上げておいて良かったと、心の底から安堵したのだった。
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