君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
90 / 110
第十一章 Break the Ice

第九十話 感染していく闇

しおりを挟む
志保里が自分を好きで無いことぐらい、娘の杏子にはとうに解りきったことである。それでも、面と向かってこうもはっきりと告げられると、やはり心を抉られるような痛みを感じるのだと、杏子は我が事ながらに感慨深く感じた。母からの愛情など自分には縁の無いものなのだと、とうの昔に諦めたと思っていたが、それでも、冷たい態度の裏側に人の親として当然の愛情を持ってくれているはずなのだと、心の奥底ではそう期待していたのかも知れない。
今や、その僅かな望みさえも潰えて、杏子は改めて母を見た。華奢で小柄な女である。若くして嫁いだ夫に愛されず、美人な自分に似ても似つかない娘を持て余し、自分でも認めることができない欠陥を抱えて、長年苦しんできた女。憐れな女だと、杏子は素直にそう感じた。そして、自分もまた同様に、憐れな人生を送ることになるように思えて、母から続くこの負の連鎖に、どうしようもなく囚われている自分を憐れんだ。

「もうすぐね、その精神科の先生と再婚するの。忠雄さんみたいな華やかさは無いけど、私の苦しみを解ってくれて、欠点も認めた上で愛してくれる人なの。杏子のことも、その人に勧められて会いに来た。貴女にはこんな話、一つも楽しいこと無いでしょうけど、私が新しい人生を始めるために、どうしても必要なことだったの。自分のことばかりでごめんなさいね。でも、もし、私のことを赦してくれるのなら、もう一度、一緒に暮らしてもらえないかしら。彼も、ぜひって言ってるの。貴女の仕事のキャリアにもなると思うわ。」
あまりにも自分勝手な志保里の提案に、杏子は開いた口がふさがらない思いだったが、話の意味が分からず、志保里に問い返した。
「彼が十一月からアメリカに赴任するの。ボストンの研究機関にポストをもらえることになって、入籍して一緒に行くのよ。それで、貴女にも来て欲しい。今の翻訳の仕事も続けられるし、彼の利用してる翻訳会社にも紹介してもらえるわ。学術論文の翻訳や会議通訳を専門にやっているところですって。ずっとじゃなくてもいいの。私に、母親らしいことをするチャンスを、もう一度だけくれないかしら。貴女のキャリアアップにもなるし、日本に戻ってからも働きやすくなるわ。」
なるほど、と杏子は納得した。志保里の本当の目的は、ここにあったのだ。新しい男と新しい人生をやり直す。そんな新しい自分に華々しく生まれ変わるために、娘と良好な関係を築く母親という一面が無くてはならないと、そういうことなのだろう。精神科医だか何だか知らないが、余計な入れ知恵をしてくれたものだと、杏子は内心毒づいた。
カウンセリングに行こうと、過去を振り返ろうと、新しい男と人生をやり直そうと、好きにすれば良いと、杏子はそう思う。だけど、なぜ自分がとばっちりを受けなければならないのか。自分はもう、幼い頃からずっと傷ついてきたはずなのに、今になって、なぜこんなにも心を抉られかき乱されて、まるで餌で釣るように同居を求められて、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。杏子には、どう考えても、到底承服できる話では無かった。

「再婚おめでとう。でも、一緒には暮らせない。もう私のことは放って置いて。どうぞ新しい人生を思うように生きてください。」

杏子はそう言うと、志保里に帰るよう促した。今度は港まで送っていく気にはなれず、玄関先で見送ることに断りを入れて、さっさと志保里を家から閉め出したのだった。
志保里は別れ際、まだ時間があるから考えて欲しいと、そう言い残して去って行った。

長年、志保里を苦しめてきた心の病のようなものがあるのだとしたら、それは言葉となって吐き出され、杏子の耳から侵入し、今や杏子に感染して心を蝕み始めているように感じられた。自分に病を感染させておきながら、志保里は、快癒を祝って新しい人生を謳歌するのだろう。
杏子は、これまで、志保里を愛しく思ったことはなかったが、憎んでも居なかった。憎らしいと、今初めてはっきりと感じ、やはり志保里の訪問を許したのは誤りだったと、杏子は心の底から後悔した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...