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第十一章 Break the Ice
第九十五話 初めての誕生日
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暦は残暑厳しい九月に入り、杏子の誕生日まであと数日となった。今年も、杏子は例年通り、一人きりの誕生日を過ごす予定だ。もっとも、今年に限って言えば、半日陰となる台所の土間に据えられたトゲべくんが、杏子の寂しさを慰めてくれるはずである。真奈美に掛けて、トゲ美ちゃんにしようかとも思ったが、やはり杏子にとってトゲトゲは宮部の代名詞であったので、この苗の名前をトゲべとすることにしたのだ。いくら幼いからといって、いつまでも名無しでは可哀想だと思い、杏子はそう名前を付けたのだが、真奈美の反応は微妙だった。やはり、真奈美からもらったのだからトゲ美にするべきだったかとも思ったが、もはや後の祭りであった。
いよいよ明日に誕生日を控え、それでもいつもと変わらず翻訳の仕事を淡々とこなしていると、杏子のスマホが着信を告げた。ディスプレイには、志保里の名前があった。
「もしもし。杏子?明日誕生日でしょう。何か予定があるの?」
志保里の固い声が、スマホ越しに更に固さを増して聞こえてくる。
「ううん。特に何も無い。普通に家で仕事するだけ。」
「…なら、良ければ一緒に食事したいと思ってるんだけど。どうかしら。」
恐る恐るといった様子で、志保里はそう問うた。
杏子は俄には信じがたかった。杏子は未だかつて、両親から一度も誕生日を祝われたことなど無かった。もちろん、お誕生日おめでとうと、口では言ってもらえたのだが、お祝いの料理を作ってもらえる訳でもなく、バースデーケーキを買ってもらえる訳でも無く、おもちゃや絵本などのプレゼントももらった記憶が無い。物心ついてからは、誕生日には父の名で封筒に入ったお金をもらうのが、岡田家の毎年の習わしだった。それも、離婚前の中学までの話であり、母と二人きりの高校生活では、そんな味気ない贈り物すらも一度ももらったことがなかった。
「食事?私と?」
「他に誰と行くって言うの。貴女の誕生日でしょう。今度は高瀬さんと二人でそちらに行くから。彼も貴女の誕生日を一緒にお祝いしたいと言っているの。」
なるほど、件の人物のアイデアかと、杏子は落胆とともに、妙に納得したのだった。母の再婚相手など、杏子には正直興味も無いし、のこのこと出かけていって、この上さらに傷つくようなことを言われるのはご免だった。
「どうかな。仕事も忙しいし、気を遣わないで。」
「そう言わないで。アメリカに行ってしまえば、もういつ会えるかわからないの。お願い。」
お願い。杏子は、志保里の言う、お願い、が堪らなく嫌いだった。あっちにいってちょうだい、お願い。一人にしてちょうだい、お願い。私を困らせないで、お願い。
杏子を突き放す言葉には、いつも、お願い、が添えられていたのだ。その神経質で自分本位なお願いの言い方が、杏子は本当に嫌いだった。
それがどうしたことか、たった今、杏子の耳に届いたお願いは、聞き慣れた嫌な響きをもったものとは違ったような気がしたのだ。どこか切なく懇願するような、そんな想いが見え隠れするお願いだった。
「…わかった。行くわ。お誘いありがとう。」
気付けば、杏子はそう返答していた。
食事会は、杏子の誕生日である日の夜、東京から来る志保里たちの便と杏子の便を共に考慮して、新幹線の停車駅である岡山駅周辺の店に決まった。
杏子の自宅からは、船と電車で1時間半ほど、志保里たちは三時間掛けて待ち合わせの場所までやってきた。
初めて見る志保里の婚約者は、高瀬慎太郎と杏子に名乗った。初老と言っていいだろう年頃のようで、頭髪は半分ほど白んで、額の広さも目立ち始めていたが、それを除けば、中肉中背の、何の変哲も無い、どこにでも居そうな、そんな男性だった。美人で華やかな印象の志保里とは、釣り合っているのは身長くらいで、年齢も外見も母の好みのようには思えなかった。
杏子の父は、背の高いスマートな出で立ちの男だった。学者らしくインテリ然としており、それほど美男子ではないのかもしれないが、雰囲気で男前感を醸し出すような、そんなタイプの男性だったと杏子は記憶している。
父とは似ても似つかない高瀬が、母が満を持して選んだ再婚相手であることに、杏子は驚きを隠せなかった。
いよいよ明日に誕生日を控え、それでもいつもと変わらず翻訳の仕事を淡々とこなしていると、杏子のスマホが着信を告げた。ディスプレイには、志保里の名前があった。
「もしもし。杏子?明日誕生日でしょう。何か予定があるの?」
志保里の固い声が、スマホ越しに更に固さを増して聞こえてくる。
「ううん。特に何も無い。普通に家で仕事するだけ。」
「…なら、良ければ一緒に食事したいと思ってるんだけど。どうかしら。」
恐る恐るといった様子で、志保里はそう問うた。
杏子は俄には信じがたかった。杏子は未だかつて、両親から一度も誕生日を祝われたことなど無かった。もちろん、お誕生日おめでとうと、口では言ってもらえたのだが、お祝いの料理を作ってもらえる訳でもなく、バースデーケーキを買ってもらえる訳でも無く、おもちゃや絵本などのプレゼントももらった記憶が無い。物心ついてからは、誕生日には父の名で封筒に入ったお金をもらうのが、岡田家の毎年の習わしだった。それも、離婚前の中学までの話であり、母と二人きりの高校生活では、そんな味気ない贈り物すらも一度ももらったことがなかった。
「食事?私と?」
「他に誰と行くって言うの。貴女の誕生日でしょう。今度は高瀬さんと二人でそちらに行くから。彼も貴女の誕生日を一緒にお祝いしたいと言っているの。」
なるほど、件の人物のアイデアかと、杏子は落胆とともに、妙に納得したのだった。母の再婚相手など、杏子には正直興味も無いし、のこのこと出かけていって、この上さらに傷つくようなことを言われるのはご免だった。
「どうかな。仕事も忙しいし、気を遣わないで。」
「そう言わないで。アメリカに行ってしまえば、もういつ会えるかわからないの。お願い。」
お願い。杏子は、志保里の言う、お願い、が堪らなく嫌いだった。あっちにいってちょうだい、お願い。一人にしてちょうだい、お願い。私を困らせないで、お願い。
杏子を突き放す言葉には、いつも、お願い、が添えられていたのだ。その神経質で自分本位なお願いの言い方が、杏子は本当に嫌いだった。
それがどうしたことか、たった今、杏子の耳に届いたお願いは、聞き慣れた嫌な響きをもったものとは違ったような気がしたのだ。どこか切なく懇願するような、そんな想いが見え隠れするお願いだった。
「…わかった。行くわ。お誘いありがとう。」
気付けば、杏子はそう返答していた。
食事会は、杏子の誕生日である日の夜、東京から来る志保里たちの便と杏子の便を共に考慮して、新幹線の停車駅である岡山駅周辺の店に決まった。
杏子の自宅からは、船と電車で1時間半ほど、志保里たちは三時間掛けて待ち合わせの場所までやってきた。
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父とは似ても似つかない高瀬が、母が満を持して選んだ再婚相手であることに、杏子は驚きを隠せなかった。
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