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第十一章 Break the Ice
第九十六話 ただの女
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「杏子さん、今日は来てくれて本当にありがとうね。お母さんの再婚相手とは言え、よく知らない私と食事など気が乗らなかっただろうに、本当にありがとう。」
岡山駅近くの和食の店に予約をしてくれていた高瀬は、個室の座敷の下座に座って、くしゃりと破顔してそう言った。高瀬の提案で、上座には今日の主役である杏子が座り、志保里は高瀬では無く杏子の隣に席を取った。
精神科医という高瀬の属性がそう思わせるのか、こうして志保里と並んで座ると、対峙する高瀬からのカウンセリングでも受けるかのような格好となり、杏子はいささか気にくわなかったが、志保里さんはまだ僕のお嫁さんじゃ無いからね、と言って杏子の隣を勧めた高瀬には、そんな裏の思惑など無いのかも知れなかった。
「いえ、こちらこそ、わざわざ私のために東京から出てきて頂いて。ありがとうございます。それから、母と再婚されるとのこと、母をよろしくお願いいたします。」
杏子はそう言って、高瀬に頭を下げた。
「いやいや、杏子さん。堅苦しいのはやめよう。私たちは家族になるんだから。ね。もっと気楽に。志保里さんから色々聞いただろうけど、今日はひとまずそんなことは全部置いておいて、みんなで杏子さんのお誕生日をお祝いしよう。ね?志保里さん。」
相変わらずにこにこと笑みを絶やさない高瀬に、突然話を振られた志保里も、釣られて微笑みを返した。
杏子には、それが初めて目にした母の笑みのような気がして、思わず目を見開いた。
「そうね、慎太郎さん。杏子、この間は突然訪ねて行って、勝手なことばかり言って帰ってしまってごめんなさい。今日は、そういうのはなしにして、杏子のお祝いをさせてくれる?」
志保里は高瀬の言葉をなぞって言い直しただけだったが、それでも杏子には、志保里がそんなことを言うなど、信じがたい思いだった。高瀬に向けられていた微笑みは、杏子に向き直ったときには消えたが、いつも杏子を見る時の表情の硬さはなかった。
「杏子さん、今日の席はね、志保里さんが言い出したことなんだよ。娘にプレゼントをあげたいけど、今まであげたことがないから、何をあげたらいいか解らないって、誕生日のギリギリまで途方に暮れていたもんだからね、じゃあ二人で訪ねていって食事をごちそうするのはどうかなって僕が提案したんだ。」
高瀬の言葉に、杏子は思わず隣の志保里を見た。志保里も、ちらとこちらを見たが、すぐに目をそらして俯いてしまった。もうその表情は、杏子から見えなかった。
「そしたらね、志保里さんが言うんだよ。そう言えば、杏子は昔からよく食べる子だったって。だから食事は良い案だって乗り気になってくれて、それで突然のお誘いになったわけさ。」
「杏子は、本当によく食べる子だったのよ、慎太郎さん。私の下手な料理を、いつも美味しそうにぱくぱく食べてた。夫なんて、ちっとも美味しくないと貶してばかりだったから、そんなまずい料理でも好んで食べるなんて、この子はよっぽど食いしん坊なんだと思っていたのよ。」
母の言葉に、そう言えば、と杏子も思い出した。母が料理を作っていたのは、中学生の頃までであるが、確かにそれ程美味しい味付けでは無かった。全体的に味が薄く、ぼんやりとしていたように記憶している。
「確かに、食べることは好きだわ。逆に、私はお母さんが食事をしているところを見たことがあんまりないわ。」
「私、あまり味が分からないのよ。味覚が鋭くないのかしらね。好きか嫌いかの好みはあるけれど、何の味とか、何の素材とか、そういうのが解らないの。だから料理もうまくならないのね。食事もあまりちゃんと摂っていなかったけど、そこは慎太郎さんに怒られて、きちんと摂るようになったのよ。」
「そうだねぇ、残念だけど、志保里さんの料理は本当に…。」
「あら!酷いじゃ無い。いつも、ありがとうって食べてくれるのに、お芝居か何かだったの?」
「そんなことないさ。愛する人が作ってくれた料理なら、たとえ味がピンぼけしてたとしても、有り難く平らげるのが男ってもんだよ。」
そう言って朗らかに笑う高瀬に、志保里は、やだやめてよ、などと言って照れ笑いをしている。
杏子は、目の前で繰り広げられる、ドラマのワンシーンのような中年の男女のふざけ合いが、自分の母がそれに加わっているので無ければ、微笑ましく見られたのかも知れない。だが、それが志保里と再婚相手の間での遣り取りであるならば、これは何かの茶番では無いのかと疑ってしまうのだった。
高瀬と軽口を叩き合っている母は、娘の前での愛の言葉に照れ笑いをする、普通の女に見えた。今ここに居る志保里は、愛する人と家庭を持って幸せを得ることなど易々とできそうな、ただの美しい女だった。
岡山駅近くの和食の店に予約をしてくれていた高瀬は、個室の座敷の下座に座って、くしゃりと破顔してそう言った。高瀬の提案で、上座には今日の主役である杏子が座り、志保里は高瀬では無く杏子の隣に席を取った。
精神科医という高瀬の属性がそう思わせるのか、こうして志保里と並んで座ると、対峙する高瀬からのカウンセリングでも受けるかのような格好となり、杏子はいささか気にくわなかったが、志保里さんはまだ僕のお嫁さんじゃ無いからね、と言って杏子の隣を勧めた高瀬には、そんな裏の思惑など無いのかも知れなかった。
「いえ、こちらこそ、わざわざ私のために東京から出てきて頂いて。ありがとうございます。それから、母と再婚されるとのこと、母をよろしくお願いいたします。」
杏子はそう言って、高瀬に頭を下げた。
「いやいや、杏子さん。堅苦しいのはやめよう。私たちは家族になるんだから。ね。もっと気楽に。志保里さんから色々聞いただろうけど、今日はひとまずそんなことは全部置いておいて、みんなで杏子さんのお誕生日をお祝いしよう。ね?志保里さん。」
相変わらずにこにこと笑みを絶やさない高瀬に、突然話を振られた志保里も、釣られて微笑みを返した。
杏子には、それが初めて目にした母の笑みのような気がして、思わず目を見開いた。
「そうね、慎太郎さん。杏子、この間は突然訪ねて行って、勝手なことばかり言って帰ってしまってごめんなさい。今日は、そういうのはなしにして、杏子のお祝いをさせてくれる?」
志保里は高瀬の言葉をなぞって言い直しただけだったが、それでも杏子には、志保里がそんなことを言うなど、信じがたい思いだった。高瀬に向けられていた微笑みは、杏子に向き直ったときには消えたが、いつも杏子を見る時の表情の硬さはなかった。
「杏子さん、今日の席はね、志保里さんが言い出したことなんだよ。娘にプレゼントをあげたいけど、今まであげたことがないから、何をあげたらいいか解らないって、誕生日のギリギリまで途方に暮れていたもんだからね、じゃあ二人で訪ねていって食事をごちそうするのはどうかなって僕が提案したんだ。」
高瀬の言葉に、杏子は思わず隣の志保里を見た。志保里も、ちらとこちらを見たが、すぐに目をそらして俯いてしまった。もうその表情は、杏子から見えなかった。
「そしたらね、志保里さんが言うんだよ。そう言えば、杏子は昔からよく食べる子だったって。だから食事は良い案だって乗り気になってくれて、それで突然のお誘いになったわけさ。」
「杏子は、本当によく食べる子だったのよ、慎太郎さん。私の下手な料理を、いつも美味しそうにぱくぱく食べてた。夫なんて、ちっとも美味しくないと貶してばかりだったから、そんなまずい料理でも好んで食べるなんて、この子はよっぽど食いしん坊なんだと思っていたのよ。」
母の言葉に、そう言えば、と杏子も思い出した。母が料理を作っていたのは、中学生の頃までであるが、確かにそれ程美味しい味付けでは無かった。全体的に味が薄く、ぼんやりとしていたように記憶している。
「確かに、食べることは好きだわ。逆に、私はお母さんが食事をしているところを見たことがあんまりないわ。」
「私、あまり味が分からないのよ。味覚が鋭くないのかしらね。好きか嫌いかの好みはあるけれど、何の味とか、何の素材とか、そういうのが解らないの。だから料理もうまくならないのね。食事もあまりちゃんと摂っていなかったけど、そこは慎太郎さんに怒られて、きちんと摂るようになったのよ。」
「そうだねぇ、残念だけど、志保里さんの料理は本当に…。」
「あら!酷いじゃ無い。いつも、ありがとうって食べてくれるのに、お芝居か何かだったの?」
「そんなことないさ。愛する人が作ってくれた料理なら、たとえ味がピンぼけしてたとしても、有り難く平らげるのが男ってもんだよ。」
そう言って朗らかに笑う高瀬に、志保里は、やだやめてよ、などと言って照れ笑いをしている。
杏子は、目の前で繰り広げられる、ドラマのワンシーンのような中年の男女のふざけ合いが、自分の母がそれに加わっているので無ければ、微笑ましく見られたのかも知れない。だが、それが志保里と再婚相手の間での遣り取りであるならば、これは何かの茶番では無いのかと疑ってしまうのだった。
高瀬と軽口を叩き合っている母は、娘の前での愛の言葉に照れ笑いをする、普通の女に見えた。今ここに居る志保里は、愛する人と家庭を持って幸せを得ることなど易々とできそうな、ただの美しい女だった。
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