99 / 110
第十二章 Beyond the Truth
第百話 此処で会ったが百年目
しおりを挟む
秋と言えば、食欲、読書などと並んで芸術の名を挙げる者も多いように、涼しく過ごしやすい気候の中では、人は創造力に満ちあふれ、創作活動に耽る習性を持つのかも知れない。
杏子も例に漏れず、10月に入ってからというもの、翻訳そっちのけで、日々エッセイの執筆に励んでいた。ボストンで勤めることになる翻訳会社へ提出するものだった。
誕生祝いの食事を共にした夜、志保里と高瀬は予定通りに岡山で宿を取り、翌日、こちらは予定外だったが、島に渡って杏子に会いに来たのだった。
そこで再び三者が想いの丈をぶつけ合い、結果、杏子が真奈美に綴ったように、杏子はボストン行きを承知した。
志保里は、やはり杏子と面と向かうと上手くは話せないようで、座敷で思わずといった体で溢した言葉のように、杏子の心を揺さぶる事は決してなかったが、ここでも、高瀬が巧みに志保里の言葉を引き出して、そうして杏子は、母の願いを素直に受け入れる事ができたのだった。
高瀬自身も、杏子に会いに行くように志保里をけしかけたことを、杏子に改めて謝罪した。曰く、高瀬は主治医としてでは無く、志保里の夫になる者として、娘との関係を修復したいという志保里の秘めた願いを探り当て、どうしてもそれを叶えてあげたかったのだと説明した。志保里にとっても、杏子にとっても、大変に傷つくかも知れない荒療治になることは解っていたが、それでも僅かな希望にすがりたかったのだと言われ、杏子は溜飲を下げ、かつて感じた憤りを水に流すことにした。
杏子が送ったメールを最後に、真奈美との文通はぱったりと途絶えていた。もう、一月になる。
鬱が悪くなったのだろうか、それとも、太陽の庭の手伝いが忙しいのだろうかと、杏子はあれこれ思案したが、渡航準備の忙しさの中で、ただ受け身に便りを待つことに徹していた。
真奈美のことを思案しつつも、パソコンの画面と睨み合いエッセイの構成を練り直していると、杏子は、家の表で砂利を踏む音を聞いた。誰かが、坂を上がって訪ねてきたようだった。
ちょうど筆が止まっていた杏子は、チャイムに先んじて玄関に足を向けた。古い家屋はどこでもそうなのか、ここでも、玄関扉はザラザラとした型板ガラスに金属格子を嵌めたそれである。
杏子は、息を飲んだ。
玄関扉の歪んだガラスは、屈折した光を杏子の目に届け、そこに居るはずも無い人物の像を結んだ。
人並み外れて背が高く、広い肩幅と重厚そうな胴、そしてそれに続く長くて逞しい、しっかりと大地を踏みしめるような脚。
間違えようも無く、その人物は、宮部夏樹だった。
宮部の名を呼び、杏子は扉に駆け寄って勢いよく引き開けた。そこには、予想通りの人物が、零れ落ちそうな程に目を見張り、杏子を見つめて立っていた。
どうして、と呟いて、杏子はすぐに嫌な可能性に思い至り、血相を変えて宮部に縋りつき問い質した。
「まさか!真奈美ちゃんに何かあった!?」
杏子の剣幕に、宮部は一瞬瞠目し、そして可笑しさに吹き出したのだった。
笑いを堪えて肩を震わす宮部に、杏子は慌てていたことも忘れ、懐かしさと切なさに胸がちくりと痛むのを感じた。
「相変わらず、思い込みが激しいやつだな。真奈美は何ともないから。そうじゃなくて…、」
まだ忍び笑いを続ける宮部に、杏子はむくれた顔になったが、それでも思い当たることがあったので、話を続けることにした。
「わかった、あの鉢を取りに来てくれたんでしょ。わざわざ遠いところまでありがとう。持ってくるから、ちょっと待っててね。」
杏子は宮部にそう言い置いて、玄関履きを突っ掛けたまま、土間をつたって台所へ行き、そこに据えてあったトゲべを手に戻った。
「この鉢、あのときのものでしょう?真奈美ちゃんにあげるものだったんなら、そう言ってくれたら良かったのに。でも、宮部さんの心に感動した。」
杏子の言葉に、宮部が苦虫を噛み潰したような顔をしたので、杏子は慌てて言い添えた。
「内緒だったのよね!ごめんね、勝手に真奈美ちゃんに苗の名前とか話しちゃって。」
いや、別に、などと、宮部は言い淀む様子だったが、かねてから宮部には感謝の気持ちが募っていた杏子は、この時ばかりにと、立て板に水の如く想いを伝え始めたのだった。
杏子も例に漏れず、10月に入ってからというもの、翻訳そっちのけで、日々エッセイの執筆に励んでいた。ボストンで勤めることになる翻訳会社へ提出するものだった。
誕生祝いの食事を共にした夜、志保里と高瀬は予定通りに岡山で宿を取り、翌日、こちらは予定外だったが、島に渡って杏子に会いに来たのだった。
そこで再び三者が想いの丈をぶつけ合い、結果、杏子が真奈美に綴ったように、杏子はボストン行きを承知した。
志保里は、やはり杏子と面と向かうと上手くは話せないようで、座敷で思わずといった体で溢した言葉のように、杏子の心を揺さぶる事は決してなかったが、ここでも、高瀬が巧みに志保里の言葉を引き出して、そうして杏子は、母の願いを素直に受け入れる事ができたのだった。
高瀬自身も、杏子に会いに行くように志保里をけしかけたことを、杏子に改めて謝罪した。曰く、高瀬は主治医としてでは無く、志保里の夫になる者として、娘との関係を修復したいという志保里の秘めた願いを探り当て、どうしてもそれを叶えてあげたかったのだと説明した。志保里にとっても、杏子にとっても、大変に傷つくかも知れない荒療治になることは解っていたが、それでも僅かな希望にすがりたかったのだと言われ、杏子は溜飲を下げ、かつて感じた憤りを水に流すことにした。
杏子が送ったメールを最後に、真奈美との文通はぱったりと途絶えていた。もう、一月になる。
鬱が悪くなったのだろうか、それとも、太陽の庭の手伝いが忙しいのだろうかと、杏子はあれこれ思案したが、渡航準備の忙しさの中で、ただ受け身に便りを待つことに徹していた。
真奈美のことを思案しつつも、パソコンの画面と睨み合いエッセイの構成を練り直していると、杏子は、家の表で砂利を踏む音を聞いた。誰かが、坂を上がって訪ねてきたようだった。
ちょうど筆が止まっていた杏子は、チャイムに先んじて玄関に足を向けた。古い家屋はどこでもそうなのか、ここでも、玄関扉はザラザラとした型板ガラスに金属格子を嵌めたそれである。
杏子は、息を飲んだ。
玄関扉の歪んだガラスは、屈折した光を杏子の目に届け、そこに居るはずも無い人物の像を結んだ。
人並み外れて背が高く、広い肩幅と重厚そうな胴、そしてそれに続く長くて逞しい、しっかりと大地を踏みしめるような脚。
間違えようも無く、その人物は、宮部夏樹だった。
宮部の名を呼び、杏子は扉に駆け寄って勢いよく引き開けた。そこには、予想通りの人物が、零れ落ちそうな程に目を見張り、杏子を見つめて立っていた。
どうして、と呟いて、杏子はすぐに嫌な可能性に思い至り、血相を変えて宮部に縋りつき問い質した。
「まさか!真奈美ちゃんに何かあった!?」
杏子の剣幕に、宮部は一瞬瞠目し、そして可笑しさに吹き出したのだった。
笑いを堪えて肩を震わす宮部に、杏子は慌てていたことも忘れ、懐かしさと切なさに胸がちくりと痛むのを感じた。
「相変わらず、思い込みが激しいやつだな。真奈美は何ともないから。そうじゃなくて…、」
まだ忍び笑いを続ける宮部に、杏子はむくれた顔になったが、それでも思い当たることがあったので、話を続けることにした。
「わかった、あの鉢を取りに来てくれたんでしょ。わざわざ遠いところまでありがとう。持ってくるから、ちょっと待っててね。」
杏子は宮部にそう言い置いて、玄関履きを突っ掛けたまま、土間をつたって台所へ行き、そこに据えてあったトゲべを手に戻った。
「この鉢、あのときのものでしょう?真奈美ちゃんにあげるものだったんなら、そう言ってくれたら良かったのに。でも、宮部さんの心に感動した。」
杏子の言葉に、宮部が苦虫を噛み潰したような顔をしたので、杏子は慌てて言い添えた。
「内緒だったのよね!ごめんね、勝手に真奈美ちゃんに苗の名前とか話しちゃって。」
いや、別に、などと、宮部は言い淀む様子だったが、かねてから宮部には感謝の気持ちが募っていた杏子は、この時ばかりにと、立て板に水の如く想いを伝え始めたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる