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目を開けると、そこにちらちらと光が舞っていた。
天井の羽目板の隙間から陽光が射し込んで、まるで豪華な打掛の中の銀糸のように、光の糸が渦を巻いている。その周囲を舞っている、黙って見ていると吐き気を催すような光の破片の乱舞は、雅勝の目の中にしかないものだ。
自分の身体のことなので、もちろん気が付いている。おかしいのは目だ。虫の毒が抜けてしばらくたって、他は何ともないのに目にだけ異常が続くということは、もう回復は望めないのかもしれない。
忠雅と御見の方が、今の雅勝の体調を気遣って御役目から遠ざけたということはわかっている。だがいかに彼らとて、影衆の最年長を永遠に任務から外すわけにもいくまい。――どうせいつかは誰かに殺されるのだろうから、あとはもう早いか遅いかの違いだけだ。
まだ半分眠ったままの頭で無意識に刀を探し、それが覚えのない場所に並んで置いてあることに気づいて、急に現実が押し寄せてきた。
勢いよく起き上がった体の上から夜具が滑り落ちる。右手に見覚えのない端切れが巻いてあるのは、あの娘のものか。昨夜、雅勝自身は眠らずに外にいるつもりだったので、夜具は一つしか借りていない。なんだってその一つしない夜具で自分が寝ていたのか。
恐らくどこかで何かを間違えた。間違えたならば間違えた場所まで戻ってやり直せばよいはずだが、どこへ戻って何をやり直せばよいのか皆目見当がつかない。
小屋の入口から見える太陽の位置は低い。夜が明けてまだそれほど時間は経っていないようだ。今ではもうすっかり馴染んでしまった気配が、先ほどから外で立ち動いているのは気づいていたのだが、こんな朝早くから彼女は何をやっているのだろう。
「あ、おはようございます。雅勝殿」
雅勝が土間から小屋の外に出た時、たすき掛けをしたるいが振り返って彼を見た。いったいどこからそんなものを借りてきたのか。彼女の足元の七輪の上に土鍋があって、そこから旨そうな匂いが漂っている。よく考えると昨日の日中に大福を食って以来何も食べていないので、正直すぎるほど正直に腹が鳴った。
「もうすぐできますよ。向こうに川がありますから、顔を洗って来て下さい」
るいが笑いながらそう言ってきたので、素直に従って戻ってきた時、土鍋の中には葱と卵の粥が、ちょうどいい塩梅に炊き上がっていた。
七輪も鍋も米も卵も葱も、二人分の椀も箸も、どこから手に入れたのかと思えば、朝の早い農家にかけあって、御見の方が実家への土産に持たせてくれた布や墨と交換したり借りてきたりしたという。世間知はない。だが生活力には満ち溢れている。改めてしみじみと思う。――おもしろい娘だ。
「……美味いな、これ」
粥など塩の味だけかと思えば、これまで一度も口にしたことのない深い味わいだった。空腹を抜きにしても胃の腑に染みわたるように美味い。正直にそう告げると、農家の百姓が老いて卵を産まなくなった鶏を処分していたので骨を分けてもらって、その煮汁で粥を炊いたのだという。雅勝はこの年まで生きてきて、鶏の骨で出汁が取れるなどという話は聞いたこともなかった。
「わたしの里は山奥なので、明野領みたいに昆布や煮干しはなかなか手に入らなくて。でも鶏の骨って滋養があるんですよ。――口に合ってよかった」
しかし何故、俺がただ美味いと言っただけで、お前はそんなに嬉しそう顔をして笑うんだ。喉のあたりまで出かかった言葉は粥と一緒にして飲み下した。言わない方がいい。見ないままでいた方がよい現実があることは、つい最近、思い知ったばかりだ。
ありがたく平らげた後に二人で手分けして鍋と器を洗い、小屋を貸してくれた農家に礼を言ってこの地を離れた時も、まだ陽は完全に昇りきってはいなかった。
粥だけではなく、るいは道中用に握り飯までこさえていた。握り飯などこれまで塩か梅干しくらいしか食ったことがなかったが、彼女は握り飯に水谷の味噌を塗って焼いたらしい。芋に合う味噌が米に合わないわけもなく、これもまた非常に美味かった。
この娘の夫となる男は幸せ者だろう。彼女と日々共に暮らし、こんな美味い飯を毎日食うことができるのだから。まったくそんな筋合いもないのに、見たことも会ったこともない誰かにちらりと嫉妬めいたものを感じる気がした。予期せぬ感情の動きに、雅勝自身が戸惑った。
一刻程歩いて街道を抜けると、あとは山へと続く細い道だけになった。雅勝が本領に行く時は大抵城下が目的地なので、この辺りに来たことはない。しばらく行って、黒塗りの大きな鳥居に行きあたった。この先がるいの故郷の山里なのだそうだが、これはまた随分と立派な鳥居だ。
「この先に神社があるのか」
だとしたらよほど由緒正しき神社なのだろうか。純粋に興味をひかれた雅勝の言葉に、るいは何故か軽く肩を竦ませた。
「いえ、ないんですよ。神社。というか、本当は神様もいないんです」
「は?」
「でも鳥居があると、神様がいるみたいに見えますよね。だからこの先に里があることを知らない他所の人が入って来づらいように、一定の効果はあるみたいです」
寺に住んでいるといっても出家したわけではないし、格段信心深くはないつもりだが、一応、人並みくらいには神仏を貴ぶ気持ちはある。神のおわす場所を示す鳥居を虫よけ代わりに使うとは――なんと罰当たりな。
浮かんだ感慨はさておいて、雅勝は完全に部外者なのでこの先には足を踏み入れられない。途中の寄り道が過ぎて予定が大分遅れているので、るいは急いで実家に戻って母親の法要を済ませて、明日には再び山を下りてくるつもりだという。待ち合わせ場所として非常にわかりやすい巨大な鳥居を目印に、ならば明日またここで会おうと踵を返しかけた時、背後から呼び止められた。
「あの、雅勝殿」
「どうした?」
振り返った時、るいの背後で茂みが割れた。
天井の羽目板の隙間から陽光が射し込んで、まるで豪華な打掛の中の銀糸のように、光の糸が渦を巻いている。その周囲を舞っている、黙って見ていると吐き気を催すような光の破片の乱舞は、雅勝の目の中にしかないものだ。
自分の身体のことなので、もちろん気が付いている。おかしいのは目だ。虫の毒が抜けてしばらくたって、他は何ともないのに目にだけ異常が続くということは、もう回復は望めないのかもしれない。
忠雅と御見の方が、今の雅勝の体調を気遣って御役目から遠ざけたということはわかっている。だがいかに彼らとて、影衆の最年長を永遠に任務から外すわけにもいくまい。――どうせいつかは誰かに殺されるのだろうから、あとはもう早いか遅いかの違いだけだ。
まだ半分眠ったままの頭で無意識に刀を探し、それが覚えのない場所に並んで置いてあることに気づいて、急に現実が押し寄せてきた。
勢いよく起き上がった体の上から夜具が滑り落ちる。右手に見覚えのない端切れが巻いてあるのは、あの娘のものか。昨夜、雅勝自身は眠らずに外にいるつもりだったので、夜具は一つしか借りていない。なんだってその一つしない夜具で自分が寝ていたのか。
恐らくどこかで何かを間違えた。間違えたならば間違えた場所まで戻ってやり直せばよいはずだが、どこへ戻って何をやり直せばよいのか皆目見当がつかない。
小屋の入口から見える太陽の位置は低い。夜が明けてまだそれほど時間は経っていないようだ。今ではもうすっかり馴染んでしまった気配が、先ほどから外で立ち動いているのは気づいていたのだが、こんな朝早くから彼女は何をやっているのだろう。
「あ、おはようございます。雅勝殿」
雅勝が土間から小屋の外に出た時、たすき掛けをしたるいが振り返って彼を見た。いったいどこからそんなものを借りてきたのか。彼女の足元の七輪の上に土鍋があって、そこから旨そうな匂いが漂っている。よく考えると昨日の日中に大福を食って以来何も食べていないので、正直すぎるほど正直に腹が鳴った。
「もうすぐできますよ。向こうに川がありますから、顔を洗って来て下さい」
るいが笑いながらそう言ってきたので、素直に従って戻ってきた時、土鍋の中には葱と卵の粥が、ちょうどいい塩梅に炊き上がっていた。
七輪も鍋も米も卵も葱も、二人分の椀も箸も、どこから手に入れたのかと思えば、朝の早い農家にかけあって、御見の方が実家への土産に持たせてくれた布や墨と交換したり借りてきたりしたという。世間知はない。だが生活力には満ち溢れている。改めてしみじみと思う。――おもしろい娘だ。
「……美味いな、これ」
粥など塩の味だけかと思えば、これまで一度も口にしたことのない深い味わいだった。空腹を抜きにしても胃の腑に染みわたるように美味い。正直にそう告げると、農家の百姓が老いて卵を産まなくなった鶏を処分していたので骨を分けてもらって、その煮汁で粥を炊いたのだという。雅勝はこの年まで生きてきて、鶏の骨で出汁が取れるなどという話は聞いたこともなかった。
「わたしの里は山奥なので、明野領みたいに昆布や煮干しはなかなか手に入らなくて。でも鶏の骨って滋養があるんですよ。――口に合ってよかった」
しかし何故、俺がただ美味いと言っただけで、お前はそんなに嬉しそう顔をして笑うんだ。喉のあたりまで出かかった言葉は粥と一緒にして飲み下した。言わない方がいい。見ないままでいた方がよい現実があることは、つい最近、思い知ったばかりだ。
ありがたく平らげた後に二人で手分けして鍋と器を洗い、小屋を貸してくれた農家に礼を言ってこの地を離れた時も、まだ陽は完全に昇りきってはいなかった。
粥だけではなく、るいは道中用に握り飯までこさえていた。握り飯などこれまで塩か梅干しくらいしか食ったことがなかったが、彼女は握り飯に水谷の味噌を塗って焼いたらしい。芋に合う味噌が米に合わないわけもなく、これもまた非常に美味かった。
この娘の夫となる男は幸せ者だろう。彼女と日々共に暮らし、こんな美味い飯を毎日食うことができるのだから。まったくそんな筋合いもないのに、見たことも会ったこともない誰かにちらりと嫉妬めいたものを感じる気がした。予期せぬ感情の動きに、雅勝自身が戸惑った。
一刻程歩いて街道を抜けると、あとは山へと続く細い道だけになった。雅勝が本領に行く時は大抵城下が目的地なので、この辺りに来たことはない。しばらく行って、黒塗りの大きな鳥居に行きあたった。この先がるいの故郷の山里なのだそうだが、これはまた随分と立派な鳥居だ。
「この先に神社があるのか」
だとしたらよほど由緒正しき神社なのだろうか。純粋に興味をひかれた雅勝の言葉に、るいは何故か軽く肩を竦ませた。
「いえ、ないんですよ。神社。というか、本当は神様もいないんです」
「は?」
「でも鳥居があると、神様がいるみたいに見えますよね。だからこの先に里があることを知らない他所の人が入って来づらいように、一定の効果はあるみたいです」
寺に住んでいるといっても出家したわけではないし、格段信心深くはないつもりだが、一応、人並みくらいには神仏を貴ぶ気持ちはある。神のおわす場所を示す鳥居を虫よけ代わりに使うとは――なんと罰当たりな。
浮かんだ感慨はさておいて、雅勝は完全に部外者なのでこの先には足を踏み入れられない。途中の寄り道が過ぎて予定が大分遅れているので、るいは急いで実家に戻って母親の法要を済ませて、明日には再び山を下りてくるつもりだという。待ち合わせ場所として非常にわかりやすい巨大な鳥居を目印に、ならば明日またここで会おうと踵を返しかけた時、背後から呼び止められた。
「あの、雅勝殿」
「どうした?」
振り返った時、るいの背後で茂みが割れた。
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