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奥座敷に用のある小坊主に頼んで彼女を呼び出してもらうまで、結局、五日ほどかかった。
その間にも雅勝は何度か陣屋で御役目についたのだが、千代丸君が夏風邪を引いたとかで外に出てこなかったので、るいの姿を見かけることはなかった。忠雅から聞く限り今のところ、領主の弟の縁談が進展している様子はないそうだが、こればかりは武智家の内部事情なので次席家老であってもわからないことはあるだろう。その間、るいが法勝寺にやって来ないことをどう判断すべきなのかは、雅勝にもわからなかった。
その日、葉桜が生い茂る丘の上で祭囃子の音を聞きながら、雅勝は彼女がやって来るのを待っていた。この場所でるいを待つのは、これが二度目のことだ。そういえばあの日も満月だった。今宵もまた実に見事な満月が濃紺の真ん中に浮かんでいて、夏祭りに向かう人々の足元を明るく照らし出している。
呼び出すのに祭りの日を選んだのは、この日ばかりは陣屋の侍女も仕事を早めに切り上げて、親しい友人同士や家族で祭りに繰り出すことを知っていたからだ。まだ影衆になる前の影子も祭りの日にはわずかばかりの小遣いを与えられ、街に出ることを許される。雅勝も影子時代に年齢の近い子ども達と一緒に、出店を覗いたり、山車を見に行ったりしたことがある。明野領にやってきて数少ない楽しい思い出の一つではあるのだが、最初の年には八人いた影子が翌年には六人になり、そのさらに翌年には五人に減って、影衆になるまで生き延びたのは雅勝と忠雅を含めて四人だけだった。そして今はもう影の世界で残っているのは雅勝しかいない。この土地で暮してきた日々を一皮めくれば、そこには常に血と死の匂いが渦巻いている。今この世界を抜けて日の当たる場所に出て行こうとしている雅勝を見て、彼らは何を思うだろうか。
木の幹に背を預け、昔のことを思い返していると、丘に続く道を駆けてくる待ち人の姿が見えた。
最後に会った時の別れ方が悪かったので、最悪、来ない可能性も想定していたのだが、どうやらるいはここまで走ってきたらしい。頬を上気させ、肩で息をしている。そんなに急がなくとも、こちらはいつまででも待つつもりでいたのだが、その一生懸命な走りように温かな気持ちがこみ上げてきた。
「……出かけに千代丸君様に掴まってしまって。遅くなって、ごめんなさい」
「いや、それはまったく構わない」
るいが膝に手を当てて息を整えているので、手を取って二人で葉桜の枝の下に座った。水でも持っていればよかったのだが、雅勝もさすがに法勝寺からここまでの距離では竹筒も水袋も持ってきていない。懐に多少の金はあるが、この時刻に、しかも祭りの日にこの辺りで水が買えるところがあっただろうか。
「――悪かった」
「ごめんなさい」
二人で同時に謝って、それから二人で同時に顔を上げる。雅勝の側は、るいに会うことができたならまず謝ろうとは思っていたのだが、何故彼女が謝る必要があるのか、本気で訳がわからない。
「本当は、わたしからきちんと話すべきでした。わたしは……いえ、わたしの母は昔――」
「いや、無理に言わなくていい」
言いにくそうな話を途中で遮ったので、るいは顔を上げて訝しそうに雅勝を見た。
「誰にだって、触れられたくないことの一つや二つあるだろう。……俺にもあるしな。生まれがどうであれ――お前は、お前だ」
人と人との付き合い方に正解などないのだろうが、多分、それでいいのではないだろうか。
これが今なお本領の下級武士の家で、曲りにも家を継ぐ立場であれば考えは違ったかもしれない。だが良くも悪くも今の雅勝には家もなければ身分もない。よく考えればこれまでずっと、次席家老殿を同輩扱いして寺の庭仕事を押し付けたりしてきたのだから、今さら生まれや家柄にこだわる方がどうかしていた。
だから今、こだわるべきなのは別のことだ。共に生きて行く前に降って沸いたような例の問題だけは、二人で解決しておかなければならない。
「それより、行久様の話はどうなった?」
「女臭くなったって……」
「……はあ?」
「お前なら女臭くないからいいかと思ったのに、女臭くなったから近寄るな、入るなって言われて、それで終わりでした」
言いながら眉を寄せ鼻に皺を寄せているのは、その時の武智行久の表情を再現しているつもりらしい。控えめに言って、肥溜めにでもはまったような表情である。
変人として名高い行久から部屋に来るように言われた際、さすがに御見の方もるいを一人では行かせなかった。だがるいも一緒に行った年嵩の侍女も結局、部屋の桟を跨ぐことさえなく、すげなく追い払われて戻るしかなかったのだと言った。
確かに彼女は明野領にやって来た頃と比べて、見違えるように綺麗になった。だがもともと女子なのだから年月と共に女らしくなるのは当然だし、普通、それは誉め言葉にしかならない。武智行久の人となりはまったく知られてないが、どうやら噂通りの変人であり――そういう趣味の人間だったのか。
「あの……雅勝殿も確か最初に会った時、似たようなこと言ってましたよね?」
「俺が?」
――言われてみれば過去に、男にしか見えないとか言ったことがあったような気がする。
「雅勝殿もそう思っていたんでしょうか?わたしは女臭くなったって……」
「は?」
武智行久が評判通りの変人であり、そして女に興味のない人間であることはわかった。だがどうして今、同じ疑いがこちらにまで飛んで来るのか。まったくもって意味がわからない。
他人の趣味をとやかく言う気はないが、そもそも「女臭い」という言葉の意味が雅勝には理解できない。色香ならばわからないでもないが、それが色香という意味であるのなら、女にしか感じたことはない。大体、そうでなければ今ここでこういった状況には陥っていないだろう。
「いや、そもそも俺には女以外のものを抱く趣味はないぞ」
「……よかった」
少々直截的過ぎたかと思ったが、るいはほっと息を吐き出して、どうやら心底、安心している。しかし今回、安心するべきところはそこなのだろうか。何だか真面目に悩んでいたのが馬鹿らしく思えてきて一瞬、掌で目の前を覆って瞑目し、再び彼女を見てぎょっとした。茂った葉の合間から月明かりが射し込む枝の下で、るいはほとんど手放しで泣いていた。
「るい?」
「本当は怖かったんです。行久様に夜伽を命じられたらどうしようって」
話を聞いた時、雅勝も一瞬、それを危惧した。話を聞いただけの人間が危惧したことを、その場にいた人間が考えなかったわけがない。――ましてや、当の本人が。
現在の領主である武智雅久は側室を持たないが、過去の領主の周囲には常に幾人か側室がいた。明野領の場合、側室は大抵、家臣の娘か奥勤めの侍女の中から選ばれる。もちろん、現正室である御見の方が嫌がる女を無理に側室に上げることはないとは思うが、基本、領主やそれに準ずる人間に夜伽を命じられれば、侍女の側に断るという選択肢はない。
「嫌です。わたし、あんなこと……雅勝殿でないと嫌」
これまで余程張りつめていたのか。あれほど人に見せたがらなかった涙をぽろぽろ流して、るいは幼子のように泣きじゃくっている。抱きしめて慰めてもよいものなのか少し悩んで、伸ばした手が肩に触れた時、自分からすがりついてきた。どうやら今回は対応を間違えなかったらしい。ひとしきり泣きじゃくったるいの呼吸が落ち着くのを待って、雅勝はここに来るまでの間に密かに考えていたことを彼女に告げた。
「……先に、お方様に話をしよう」
本領にいる雅道からの報告によると、現時点で領主武智雅久の帰還予定は未定であり、養子縁組の話し合いがまとまるにはもうしばらくかかりそうな気配がする。今回は結果的に武智行久の変人ぶりに救われた形だが、領主が戻って来て雅勝が正式に清水の家臣になるまでの間に、また同じようなことが起こらないとも限らない。
「お方様に?……いいんですか?」
「ああ。またこんなことが起こったら、俺の気が持たないしな」
御見の方にとって、これまで雅勝は完全に忠雅のおまけとしてくっついているだけの存在で、恐らく男どころか人間として把握されていないだろう。そんな存在が彼女の所有物を――よりにもよって異母妹を欲しいと願い出るのだから、我ながら無謀だと思う。
勝算などまるでない、完全に破れかぶれの賭けではある。だが人として扱われたいと思うのならば、こちらも人として振舞うべきではないのか。雅勝の場合、明野領に来てからどころか生家にいる頃から、嫌なものを嫌だと――欲しいものを欲しいと言ったことなどないので、どうしたらよいのかまったくわかりもしないのだけれど。腹だけは括った。
ひとしきり泣いて落ち着いた後も、離れる気になれずにそのまま男の腕に身を寄せたままでいた。
慣れない頃は抱き締められるたびに心臓が高鳴ったり、呼吸が上がったりして大変だったけれど、今のるいにとって、この腕の中はとても心地がよい場所だ。このままずっと独り占めしたい。他の誰かに空け渡したくない。そんな欲深な感情は、るいがこれまでに経験したことのないものだった。
どのくらいそうしていただろう。先ほど走ってきた丘の下の道から、不意ににぎやかな声がした。夏祭りから帰ってきた家族連れのようだ。父親らしい男が幼子を肩車していて、母親に手を引かれた子どもは祭りのお面をつけて、仲良く楽しそうに歩いている。
一瞬、離れた方がいいのかな……と考えて、道より少し高いところにあって、大きな木の根元の窪みにあるこの場所が、道行く人からは死角になっていることに気が付いた。――この人はそんな場所を見つけるのがうまい。
明野領に帰って来た後、雅勝を含む影衆が千代丸君の警護を行っていることに、もちろん、るいはすぐに気が付いた。というより、雅勝がいない時の影衆達は一見、目立たないように隠れていても気配がまるわかりで、普段女子どもしかいない奥座敷の中でその存在は完全に浮いていた。
だけど雅勝は違う。彼はいつも、るいのようにその気配を知っていて、探し求めている人間でなければ見つからない場所にいる。もしかしたらと思って視線を巡らせて、その場所に彼の姿を見つけた瞬間、どれほど心安らいだか。その感情は恐らく、当の雅勝にさえわかりはしないだろう。
故郷では父の許しを得て祝言を挙げており、るいは既に樋口雅勝の妻だ。明野領では越えなければならないことが多いことは理解しているけれど、それでもるいの心は決まっている。わたしはこの人と生きる。――共に先を生きると決めた大切な人。
その大切な人に、るいはずっと大事なことを告げられずにいた。
自分が父と母の実子でないことを初めて聞いたのは、十三歳の春のことだった。
恐らく、父はずっと娘が成長し物事を理解できる年齢になるのを待っていたのだろう。いつになく真剣な表情をした父親に座敷に呼ばれ、包み隠さず事の次第を聞いた時、確かにるいはもう小さな子どもではなかった。
小さな子どもではないからこそ辛かった。父もさすがに気を使って母が筆頭家老の子を身ごもったことを「寵愛を受けた」と表現したのだが、十三の小娘にだって詭弁であることはわかる。記憶の中の優しくて、端切れでお手玉や人形の着物を作ってくれた母の身に起きたことはとても哀しくて残酷なことであり――その結果として自分が今ここにいるのだということは。
その後、るいは父に対して冷たくなった。父はすべて包み隠さず話した上で、これからもずっとお前は俺の娘だと言ってくれたのに、そしてその愛情を疑うつもりは微塵もないのに、今思えば父親に甘えて当たり散らしていたのだと思う。
自分は何一つ悪いことをしていないのにも係らず、娘に素気無くされた父の側はたまったものではなかったことだろう。娘の扱いに困り果てた猪瀬の熊が、少し世間を見てみないかと武家奉公を勧めて来た時、るいもまた父との係り方に悩んでいたので、そうしてみようと思った。明野領にやって来て、御見の方の厳しくも優しい情に触れ、筆頭家老の川口忠道の姿を見てもまるで心が動かないことに気が付き、荒れていた心も少しずつ落ち着いていった。
そして今、自分自身が当時の母と変わらぬ年齢になって、誰かに触れたいと思う気持ちを知って、母の心情に思いを馳せることができるようになった。――彼女はさぞかし辛かっただろう。辛いよりはるかに恐ろしかったのではないか。
本音を言うなら、承知で好いた男と肌を合わせたるいでさえ今も少し怖い。抗い切れない力で身体をねじ伏せられる恐怖を耐えられる理由など、ただ相手がこの男だからという他にはない。
この先、るいが身ごもる子どもは愛しい人の子だ。ただでさえ子ども好きの雅勝はきっととても喜んで可愛がってくれるだろう。先ほど丘の下を歩いていった家族のような未来を想像するだけでも楽しい。そしてそのとても楽しい想像は、父と母がるいに与えてくれたのとそっくり同じものなのだ。
かつて父と母との間にどのような物語があったのか。るいには知る由もないし、今はもう、知らなくてもよいと思っている。るいはただ、彼らが与えてくれた幸せだけを知っていればいい。そしてその幸せを大切な人と共に繋いで行こう。
これまで遠くに聞こえていた祭囃子の音が大きくなって、どこか近いところで歓声が上がった。この土地にやって来た頃、明野領の夏祭りは豪勢で、様々な出店が軒を連ね、銀糸や金糸で飾り付けられた山車が街中をねり歩くと聞いて、ほんの少し楽しみにしていた。だけど今はそんな楽しみよりももう少し、この腕の中でぬくぬくと甘えていたい。
どうやら夏祭りは佳境を迎えたらしく、遠くの方角で花火が上がった。この場所からはかなり遠いのに、次々に夜空に散った色とりどりの火花が驚くほど鮮やかだ。炎の色なのだから赤や橙ならばわかるけど、黄色や青、紫なんて色もある。埋めていた男の胸から顔を上げて、空に向かって肩を並べて座り直した時、ごく自然に手と手が重なった。
「綺麗……。あれ、海の方ですよね?」
「ああ、前に行った辺りからだともっとよく見えるぞ。――来年、見に行くか」
「来年ですか?」
「その頃には夫婦だ。大手を振って一緒にどこにでも行けるだろう」
――この人が先の話に戸惑うことには気が付いていた。
数か月先のことなら具体的に考えられても、一年、二年先のことになると現実のこととして考えられないらしい。それは恐らく、彼のこれまでの人生がそれほどまでに今を生きるのに精いっぱいだったということなのだろう。
だから今、男の口から初めて出た未来への言葉に幸せを噛みしめて、見上げた夜空はとても綺麗だった。
その間にも雅勝は何度か陣屋で御役目についたのだが、千代丸君が夏風邪を引いたとかで外に出てこなかったので、るいの姿を見かけることはなかった。忠雅から聞く限り今のところ、領主の弟の縁談が進展している様子はないそうだが、こればかりは武智家の内部事情なので次席家老であってもわからないことはあるだろう。その間、るいが法勝寺にやって来ないことをどう判断すべきなのかは、雅勝にもわからなかった。
その日、葉桜が生い茂る丘の上で祭囃子の音を聞きながら、雅勝は彼女がやって来るのを待っていた。この場所でるいを待つのは、これが二度目のことだ。そういえばあの日も満月だった。今宵もまた実に見事な満月が濃紺の真ん中に浮かんでいて、夏祭りに向かう人々の足元を明るく照らし出している。
呼び出すのに祭りの日を選んだのは、この日ばかりは陣屋の侍女も仕事を早めに切り上げて、親しい友人同士や家族で祭りに繰り出すことを知っていたからだ。まだ影衆になる前の影子も祭りの日にはわずかばかりの小遣いを与えられ、街に出ることを許される。雅勝も影子時代に年齢の近い子ども達と一緒に、出店を覗いたり、山車を見に行ったりしたことがある。明野領にやってきて数少ない楽しい思い出の一つではあるのだが、最初の年には八人いた影子が翌年には六人になり、そのさらに翌年には五人に減って、影衆になるまで生き延びたのは雅勝と忠雅を含めて四人だけだった。そして今はもう影の世界で残っているのは雅勝しかいない。この土地で暮してきた日々を一皮めくれば、そこには常に血と死の匂いが渦巻いている。今この世界を抜けて日の当たる場所に出て行こうとしている雅勝を見て、彼らは何を思うだろうか。
木の幹に背を預け、昔のことを思い返していると、丘に続く道を駆けてくる待ち人の姿が見えた。
最後に会った時の別れ方が悪かったので、最悪、来ない可能性も想定していたのだが、どうやらるいはここまで走ってきたらしい。頬を上気させ、肩で息をしている。そんなに急がなくとも、こちらはいつまででも待つつもりでいたのだが、その一生懸命な走りように温かな気持ちがこみ上げてきた。
「……出かけに千代丸君様に掴まってしまって。遅くなって、ごめんなさい」
「いや、それはまったく構わない」
るいが膝に手を当てて息を整えているので、手を取って二人で葉桜の枝の下に座った。水でも持っていればよかったのだが、雅勝もさすがに法勝寺からここまでの距離では竹筒も水袋も持ってきていない。懐に多少の金はあるが、この時刻に、しかも祭りの日にこの辺りで水が買えるところがあっただろうか。
「――悪かった」
「ごめんなさい」
二人で同時に謝って、それから二人で同時に顔を上げる。雅勝の側は、るいに会うことができたならまず謝ろうとは思っていたのだが、何故彼女が謝る必要があるのか、本気で訳がわからない。
「本当は、わたしからきちんと話すべきでした。わたしは……いえ、わたしの母は昔――」
「いや、無理に言わなくていい」
言いにくそうな話を途中で遮ったので、るいは顔を上げて訝しそうに雅勝を見た。
「誰にだって、触れられたくないことの一つや二つあるだろう。……俺にもあるしな。生まれがどうであれ――お前は、お前だ」
人と人との付き合い方に正解などないのだろうが、多分、それでいいのではないだろうか。
これが今なお本領の下級武士の家で、曲りにも家を継ぐ立場であれば考えは違ったかもしれない。だが良くも悪くも今の雅勝には家もなければ身分もない。よく考えればこれまでずっと、次席家老殿を同輩扱いして寺の庭仕事を押し付けたりしてきたのだから、今さら生まれや家柄にこだわる方がどうかしていた。
だから今、こだわるべきなのは別のことだ。共に生きて行く前に降って沸いたような例の問題だけは、二人で解決しておかなければならない。
「それより、行久様の話はどうなった?」
「女臭くなったって……」
「……はあ?」
「お前なら女臭くないからいいかと思ったのに、女臭くなったから近寄るな、入るなって言われて、それで終わりでした」
言いながら眉を寄せ鼻に皺を寄せているのは、その時の武智行久の表情を再現しているつもりらしい。控えめに言って、肥溜めにでもはまったような表情である。
変人として名高い行久から部屋に来るように言われた際、さすがに御見の方もるいを一人では行かせなかった。だがるいも一緒に行った年嵩の侍女も結局、部屋の桟を跨ぐことさえなく、すげなく追い払われて戻るしかなかったのだと言った。
確かに彼女は明野領にやって来た頃と比べて、見違えるように綺麗になった。だがもともと女子なのだから年月と共に女らしくなるのは当然だし、普通、それは誉め言葉にしかならない。武智行久の人となりはまったく知られてないが、どうやら噂通りの変人であり――そういう趣味の人間だったのか。
「あの……雅勝殿も確か最初に会った時、似たようなこと言ってましたよね?」
「俺が?」
――言われてみれば過去に、男にしか見えないとか言ったことがあったような気がする。
「雅勝殿もそう思っていたんでしょうか?わたしは女臭くなったって……」
「は?」
武智行久が評判通りの変人であり、そして女に興味のない人間であることはわかった。だがどうして今、同じ疑いがこちらにまで飛んで来るのか。まったくもって意味がわからない。
他人の趣味をとやかく言う気はないが、そもそも「女臭い」という言葉の意味が雅勝には理解できない。色香ならばわからないでもないが、それが色香という意味であるのなら、女にしか感じたことはない。大体、そうでなければ今ここでこういった状況には陥っていないだろう。
「いや、そもそも俺には女以外のものを抱く趣味はないぞ」
「……よかった」
少々直截的過ぎたかと思ったが、るいはほっと息を吐き出して、どうやら心底、安心している。しかし今回、安心するべきところはそこなのだろうか。何だか真面目に悩んでいたのが馬鹿らしく思えてきて一瞬、掌で目の前を覆って瞑目し、再び彼女を見てぎょっとした。茂った葉の合間から月明かりが射し込む枝の下で、るいはほとんど手放しで泣いていた。
「るい?」
「本当は怖かったんです。行久様に夜伽を命じられたらどうしようって」
話を聞いた時、雅勝も一瞬、それを危惧した。話を聞いただけの人間が危惧したことを、その場にいた人間が考えなかったわけがない。――ましてや、当の本人が。
現在の領主である武智雅久は側室を持たないが、過去の領主の周囲には常に幾人か側室がいた。明野領の場合、側室は大抵、家臣の娘か奥勤めの侍女の中から選ばれる。もちろん、現正室である御見の方が嫌がる女を無理に側室に上げることはないとは思うが、基本、領主やそれに準ずる人間に夜伽を命じられれば、侍女の側に断るという選択肢はない。
「嫌です。わたし、あんなこと……雅勝殿でないと嫌」
これまで余程張りつめていたのか。あれほど人に見せたがらなかった涙をぽろぽろ流して、るいは幼子のように泣きじゃくっている。抱きしめて慰めてもよいものなのか少し悩んで、伸ばした手が肩に触れた時、自分からすがりついてきた。どうやら今回は対応を間違えなかったらしい。ひとしきり泣きじゃくったるいの呼吸が落ち着くのを待って、雅勝はここに来るまでの間に密かに考えていたことを彼女に告げた。
「……先に、お方様に話をしよう」
本領にいる雅道からの報告によると、現時点で領主武智雅久の帰還予定は未定であり、養子縁組の話し合いがまとまるにはもうしばらくかかりそうな気配がする。今回は結果的に武智行久の変人ぶりに救われた形だが、領主が戻って来て雅勝が正式に清水の家臣になるまでの間に、また同じようなことが起こらないとも限らない。
「お方様に?……いいんですか?」
「ああ。またこんなことが起こったら、俺の気が持たないしな」
御見の方にとって、これまで雅勝は完全に忠雅のおまけとしてくっついているだけの存在で、恐らく男どころか人間として把握されていないだろう。そんな存在が彼女の所有物を――よりにもよって異母妹を欲しいと願い出るのだから、我ながら無謀だと思う。
勝算などまるでない、完全に破れかぶれの賭けではある。だが人として扱われたいと思うのならば、こちらも人として振舞うべきではないのか。雅勝の場合、明野領に来てからどころか生家にいる頃から、嫌なものを嫌だと――欲しいものを欲しいと言ったことなどないので、どうしたらよいのかまったくわかりもしないのだけれど。腹だけは括った。
ひとしきり泣いて落ち着いた後も、離れる気になれずにそのまま男の腕に身を寄せたままでいた。
慣れない頃は抱き締められるたびに心臓が高鳴ったり、呼吸が上がったりして大変だったけれど、今のるいにとって、この腕の中はとても心地がよい場所だ。このままずっと独り占めしたい。他の誰かに空け渡したくない。そんな欲深な感情は、るいがこれまでに経験したことのないものだった。
どのくらいそうしていただろう。先ほど走ってきた丘の下の道から、不意ににぎやかな声がした。夏祭りから帰ってきた家族連れのようだ。父親らしい男が幼子を肩車していて、母親に手を引かれた子どもは祭りのお面をつけて、仲良く楽しそうに歩いている。
一瞬、離れた方がいいのかな……と考えて、道より少し高いところにあって、大きな木の根元の窪みにあるこの場所が、道行く人からは死角になっていることに気が付いた。――この人はそんな場所を見つけるのがうまい。
明野領に帰って来た後、雅勝を含む影衆が千代丸君の警護を行っていることに、もちろん、るいはすぐに気が付いた。というより、雅勝がいない時の影衆達は一見、目立たないように隠れていても気配がまるわかりで、普段女子どもしかいない奥座敷の中でその存在は完全に浮いていた。
だけど雅勝は違う。彼はいつも、るいのようにその気配を知っていて、探し求めている人間でなければ見つからない場所にいる。もしかしたらと思って視線を巡らせて、その場所に彼の姿を見つけた瞬間、どれほど心安らいだか。その感情は恐らく、当の雅勝にさえわかりはしないだろう。
故郷では父の許しを得て祝言を挙げており、るいは既に樋口雅勝の妻だ。明野領では越えなければならないことが多いことは理解しているけれど、それでもるいの心は決まっている。わたしはこの人と生きる。――共に先を生きると決めた大切な人。
その大切な人に、るいはずっと大事なことを告げられずにいた。
自分が父と母の実子でないことを初めて聞いたのは、十三歳の春のことだった。
恐らく、父はずっと娘が成長し物事を理解できる年齢になるのを待っていたのだろう。いつになく真剣な表情をした父親に座敷に呼ばれ、包み隠さず事の次第を聞いた時、確かにるいはもう小さな子どもではなかった。
小さな子どもではないからこそ辛かった。父もさすがに気を使って母が筆頭家老の子を身ごもったことを「寵愛を受けた」と表現したのだが、十三の小娘にだって詭弁であることはわかる。記憶の中の優しくて、端切れでお手玉や人形の着物を作ってくれた母の身に起きたことはとても哀しくて残酷なことであり――その結果として自分が今ここにいるのだということは。
その後、るいは父に対して冷たくなった。父はすべて包み隠さず話した上で、これからもずっとお前は俺の娘だと言ってくれたのに、そしてその愛情を疑うつもりは微塵もないのに、今思えば父親に甘えて当たり散らしていたのだと思う。
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本音を言うなら、承知で好いた男と肌を合わせたるいでさえ今も少し怖い。抗い切れない力で身体をねじ伏せられる恐怖を耐えられる理由など、ただ相手がこの男だからという他にはない。
この先、るいが身ごもる子どもは愛しい人の子だ。ただでさえ子ども好きの雅勝はきっととても喜んで可愛がってくれるだろう。先ほど丘の下を歩いていった家族のような未来を想像するだけでも楽しい。そしてそのとても楽しい想像は、父と母がるいに与えてくれたのとそっくり同じものなのだ。
かつて父と母との間にどのような物語があったのか。るいには知る由もないし、今はもう、知らなくてもよいと思っている。るいはただ、彼らが与えてくれた幸せだけを知っていればいい。そしてその幸せを大切な人と共に繋いで行こう。
これまで遠くに聞こえていた祭囃子の音が大きくなって、どこか近いところで歓声が上がった。この土地にやって来た頃、明野領の夏祭りは豪勢で、様々な出店が軒を連ね、銀糸や金糸で飾り付けられた山車が街中をねり歩くと聞いて、ほんの少し楽しみにしていた。だけど今はそんな楽しみよりももう少し、この腕の中でぬくぬくと甘えていたい。
どうやら夏祭りは佳境を迎えたらしく、遠くの方角で花火が上がった。この場所からはかなり遠いのに、次々に夜空に散った色とりどりの火花が驚くほど鮮やかだ。炎の色なのだから赤や橙ならばわかるけど、黄色や青、紫なんて色もある。埋めていた男の胸から顔を上げて、空に向かって肩を並べて座り直した時、ごく自然に手と手が重なった。
「綺麗……。あれ、海の方ですよね?」
「ああ、前に行った辺りからだともっとよく見えるぞ。――来年、見に行くか」
「来年ですか?」
「その頃には夫婦だ。大手を振って一緒にどこにでも行けるだろう」
――この人が先の話に戸惑うことには気が付いていた。
数か月先のことなら具体的に考えられても、一年、二年先のことになると現実のこととして考えられないらしい。それは恐らく、彼のこれまでの人生がそれほどまでに今を生きるのに精いっぱいだったということなのだろう。
だから今、男の口から初めて出た未来への言葉に幸せを噛みしめて、見上げた夜空はとても綺麗だった。
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