39 / 102
9
9-1
しおりを挟む
五大家老の集まりが川口家の邸で開かれたのは、領主が無事に明野領に帰還してから七日後のことだった。
五大家老と言ったところで、君水藩自体が小藩であり、明野領はその飛び地領なのだからさらに小さい。家老など一人いれば充分だし、領主武智雅久は若く決断力もあるので、家老職に諮らずに自らの意志で行動することも多かった。
――馬鹿らしい。ずっとそう思ってきた。
筆頭家老川口忠道および他二名の家老職はいずれも齢六十を超え、次席家老の忠雅が十九歳、佐竹家の家長であり、菊乃の兄である佐竹実雅が二十六歳と年齢に大きな開きがある。この国では若輩者には発言権がないらしいので、自然、五大家老の集まりは忠雅にとって我慢大会の様相を呈するのが常だった。
「――このたびの養子縁組の沙汰、正気とは思えぬ」
「そうだとも、殿は奸臣に騙されておるのじゃ」
「そもそも戦国の世であれば初代は智久候ではない。道久候であらせられたのだからな」
今日、領主の帰還後はじめて行われた五大家老の会合も、また前と同じようなやりとりから始まった。本領の側からみても明野領の側からみても千代丸君が家督を継ぐのはよい話のはずだが、彼らが納得する日は決して来ないだろう。
一応、五大家老の一人としては、今、議論すべきところはそこではないと発言したい。領主雅久は、藩の跡目相続に係る重大事項を五大家老に諮らずに独断で行動した。諮ったところで同意を得られないのは確実だが、まったく諮りもしなかったというところに領主の明確な意図が伺える。家老達がいくら騒いだところで、現実は変えられない。――既に五大家老の集まりは、明野領の政に対する影響力を失っているのだ。
影衆の御役目は基本五大家老の集まりで決定し、清水家から影衆に告げられる。たまに領主直々に御役目が下りてくることもあるが、そちらは海賊や山賊の討伐など明野領の治安を守る目的がほとんどで、家老職から下りてくる御役目のほとんどがくだらない――忠雅の目から見てくだらないと思える――本領との争いだった。
この会合で何か決める時は多数決ではなく、全員一致を建前としている。だから忠雅はこの三年間、影衆に対する意味のない御役目は徹底的に受けなかった。これまでそんなことをする清水家の家長は忠雅だけだったらしく、最初の頃はものすごく責められたり呆れられたりもしたのだが、結果的に影衆の生存率は著しく上がり、最年長の雅勝が来年には二十歳になる。傍から見ればくだらない意地かもしれない。だが、ただ当たり前に積み重ねて行く年月が、影達にとっての希望だ。
「――清水殿、よろしいか」
いつものように、くだらない話をくだらないと思いながら聞き流していると、筆頭家老の川口忠道から名指しで呼びつけられた。
川口忠道は御見の方の実父である。だがこの父親からどうやってあの心身ともに美しい女性が生まれたのだろうと首を傾げたくなるほど、この二人は似ていなかった。見てくれの問題ではない。――人間としての質そのものが。
忠道の道の字は初代明野領主・武智道久からの偏諱である。幕府が初代君水藩主・武智智久を嫡流と定めるまで、武智家の嫡流は道久だった。本来ならば家督を継ぐべき道久が飛び地領に追いやられたことで、川口家もまた道久派の川口が分家に、智久派の川口が本家と分断している。
その辺りの事情は清水家もまったく同じなのだが、清水家が忠雅の代になって本家との関係を改善しているのに対し、川口家は今なお本家と本領に対する敵愾心がすさまじい。同時に己の血筋と家柄に対する自負も激しく、妾腹で影衆上がりの忠雅が清水の家督を継ぐ際も、最も強硬に反対したのがこの川口忠道だったと聞いている。
台所で働く端女だった母に手をつけて子どもを生ませておきながら、側室にするでもなく使用人件妾として囲っておき、そのうちあっさり飽きて見向きもしなくなった己の父親に対し、忠雅はまったく情愛も尊敬の念も持っていない。ただことこの件に関してだけは、親父殿はよくぞまあ頑張って我を通したなと感心している。もっとも父にしてみれば上に六人もいた息子が立て続けに亡くなって、何が何でも己が血を引く者に家を継がせたかっただけなのであろうが。
「影衆の最年長、あれは本領の樋口の出だそうだな」
「……そのようですな」
現在、影衆の最年長である雅勝は、本領の下級武士の家の出だ。血筋の上でも幕府の公式見解でも君水藩の本家は本領側だが、はっきり言って財政的には本領より明野領の方が余裕がある。特に奴の家は父親が早くに亡くなったので、経済的に立ち行かなくなって明野領に売られてきたと聞いている。
しかし今、何故あいつの話がここに出るのだろうか。確かに今、雅勝が妻にしようとしている娘はこの男の実子だが、まさか自分の娘婿として対面したい訳でもあるまい。
「――千代丸君が江戸に向かう前に、その男に泰久候を殺させよ」
思わず、はあ?と間の抜けた声が出かかった。忠雅も十六の歳まで影衆だったのでよく知っている。影衆は皆、本領の城の構造を知りつくしており、今なお城に潜入中の仲間もいる。だがこれまでただの一度たりとも、藩主その人に刃を向けたことはなかった。
その理由など一つだけだ。明野領はともかく本領には常に公儀の目が光っている。お家騒動で分家側が藩主を傷つけたなら、待っているのはお家取り潰しの悲劇だけである。藩主の座を道久候の血筋に戻すどころか、君水藩そのものが断絶してしまっては、本末転倒も甚だしい。
「お断り申す。そんなことをして何になる。――お家取り潰しとなれば、どれほどの家臣が路頭に迷うか。川口殿とて知らぬわけでもあるまい」
忠雅の返答は予想の範囲内であったのだろう。若輩者の次席家老を川口忠道は鼻で括るようにして嗤った。
「だからその男を使えと言っているのだ。樋口家は元々小納戸役の家だったが、先々代当主が三十五年前、商家から賄賂を受け取った咎で切腹した。……結局、無実の罪だったそうだがな。その孫が祖父の仇を討つのであれば、公儀に知れたとてただの私怨で済む。無論、成功した暁には謀反人として裁きを受けてもらう――それで問題なかろう」
こいつは一体何を言っているのか。一瞬、怒りで息が止まりそうになった。
藩主の周囲には当然ながら、正規の家臣も本領の隠密である葉隠衆も付き従っている。いかに城の構造を熟知している影衆とはいえ、暗殺が容易いわけがない。仕損じればその場で斬られる。成功しても謀反人として殺される。つまりこの男は影衆の最年長に――雅勝に死ねと命じているのだ。
「いつまで不当に奪われたものを、奪われたまま指をくわえて見ているつもりか。初代道久候のご無念を何と心得ておる。明野領三代の悲願……まさかそれまで断るとは言うまいな、――清水殿?」
一応、忠雅も清水家の生まれなので、川口忠道の言わんとするところはわからなくはない。この連中はただ自分たちが分家として扱われることが不快なのだ。本来、快や不快はただの感情であって被害と加害ではないはずなのに、自分が不快であることは不当でありすなわち被害だと考えている。だから不快の原因である本領側に何をしても許されると無邪気に信じている。
上手く行かないことをすべて本領の所為にして思考停止していれば、さぞかし人生が楽だろう。
などとこの場で糾弾したところで、何の解決にもならない。だからあえて返事はせずに、なんとかこの事態を収める方向に頭を巡らせた。
その三十五年前の出来事とは本当だろうか。小納戸役とは藩主やその家族が日常生活で使う物品や着物を管理する役柄だから、確かに商人と癒着しやすい立場ではある。小納戸役が賄賂の受領を疑われ、身の潔白を示す為に切腹したなどというのは、ありそうな話ではある。
ただ忠雅は雅勝本人から、そんな話を聞いた覚えがまったくなかった。父親は普請方に勤める下級武士だったと聞いたことはあるから、本人が知らない可能性もあり得るか。一瞬、九年前、素性を知った上であいつを買ったのかと考えて、それは考え過ぎかと思い直した。あの頃、水谷の近辺は水害の被害から立ち直っておらず、あの辺りから買われてきた子どもは他にも大勢いた。たまたま大量に買い付けた中にそのような素性の武家の子が混ざっていた――というのが実情ではなかろうか。
雅勝は九年も影衆にいるのだから、はなから素性を知っていたのなら、もっと早くにそんな話が出てきそうなものだ。それが今になってそんなことを言い出すあたり、千代丸君の養子縁組が我慢ならず、腹立ち紛れに何とか一矢報いたいと色々模索しているうちに、今回の話を思いついたと言ったところなのだろう。
目先のことしか考えられない、勝手の病だ。そんな病の為に、これまでどれだけの影衆が意味もなく命を失ったことか。
――何故、老人の妄執に付き合わされて、若者が命を捨てなければならないのだろう。
忠雅は雅勝のことならば、良いところも悪いところも大体知っている。本領であれ明野領であれ、こいつがまっとうに立身出世を望んだならば、きっと一角の地位にまで昇り詰めるだろう。――ずっと、そう思ってきた。
腕が立つのは太平の世であまり役立たないかもしれないが、頭がとてもよく切れる。切れるくせに面倒がって自分から動きたがらないのは欠点だろうが、本人がその気にさえなれば行動力もある。養子縁組の交渉中に千代丸君暗殺騒動があったことを逆手にとって、交渉が有利に働くよう持って行くなどということは、忠雅には正直、考えも及ばなかった。
そして何より、人をよく見てよく使う。影の弟分達は最年長で一番の遣い手である雅勝を恐れてはいない。結構言いたいことも言うし、反抗的な態度を取ることもある。しかしそれでいて絶対的に信頼している。どれほど緊迫した場面であっても、あいつの言うことであれば従おうとする。あまり考えたくはないし、そのような事態を起こす気もないが、万が一忠雅と雅勝が反目した場合、今いる影衆は全員雅勝側につくのではないか。
樋口雅勝という男には、そう思わせるだけの何かがある。忠雅にはない。他の四人の家老にも、そして恐らく明野領主・武智雅久さえも持っていない。――人望とでも呼ぶべきものが。
忠雅は己の分をわきまえている。たまたま友が自分にないものを持っているからといって、妬む気は毛頭ない。ただそんな人間は、安易に死なせず生かして使うべきだ。だから何度も清水の家臣にならないかと誘って、ようやく向こうもその気になったばかりだったというのに。
「しかし、そのような重大事項を我々だけで決めるわけには行くまい。――殿のお許しがいる」
いくらなんでも、事は藩主の暗殺である。五大家老だけで安易に決められる案件ではない。それに彼らの主君である武智雅久は、他の家老達ほど藩主の座に執着はない。そうでなければ、自らの息子をあっさり本家の養子に差し出したりはしないだろう。
「――殿のお許しは既に得ている」
筆頭家老にあまりにはっきり言い切られて、言葉を失くしてしまった。
気づけば筆頭家老・川口忠道および、上原為道、飯野兼道の三名の他、義兄になるはずの佐竹実雅までもが、忠雅とは反対側の場所にいた。いつも川口忠道べったりで腰巾着の異名もある飯野兼道が、ここぞとばかりに忠雅をねめつけてくる。
「清水殿は何か勘違いをしているのではないか?影衆は清水家の所有物ではないのだぞ。誰の金で彼奴等を買ったと思っているのだ。影衆が明野領と武智家の御為に働かぬというのなら――今すぐ全員処分してしまえ」
そうだ。その通りだ。影衆を買い求める金は武智家の金であり、五大家老と家臣達の金であり、そこで暮らす領民達の金だ。だから彼ら――領主から末端の民にいたるまで、明野領で暮らす人々にとって、影衆は人ではない。物でさえもない。道具だ。人は金で買った物に執心することはあっても、道具に対して思い入れを持つことはない。道具は便利に使えて当然、使えなければ捨てればよい。それだけのものだから。
生まれ育った家で、忠雅は卑しい生まれにより蔑まれる存在だった。その後影衆になってからは次席家老の家の生まれであることを理由に異質として扱われ、そして今、五大家老の一人でありながら道具に執心する忠雅は、この明野領において完全なる異物だ。これからも永遠に相容れることはないだろう。
そしてこの上さらに領主・武智雅久までもが、家老達の考えに同意しているのだとしたら。
それは決してありえない話ではない。暗殺そのものが失敗しても、試みたという事実だけで口煩い老人達は溜飲を下げる。首尾よく成功すれば江戸にいる嫡男嗣久が後を継ぐ。しかし嗣久は病弱の身であり、恐らくそう永くは生きられまい。嗣久亡き後は千代丸君が藩主となって――千代丸君の実父である雅久が、事実上の藩主として藩政を取り仕切ることができる。
その辺りの意図は調べてみればわかるし、何なら領主に直接聞いてみてもいい。清水の家督を継いで三年、それくらいのことは忠雅にもできる。
そこまで考えて、一つの事実に気づいて愕然とした。
かつて無実の罪で切腹に追い込まれた藩士の孫が、祖父の仇を討つ為に藩主を暗殺する。
きっかけは単なる思いつきであれ、筋は通ってしまっている。五大家老の奏上が全員一致を建前としている以上、五大家老の決定であれば何が何でも反対してやる。脅されようが責められようが決して屈しはしない。――だがもしも領主が本当にそれを認めてしまったならば。
今回、雅勝を生かす為に忠雅にしてやれることは何もない。
五大家老と言ったところで、君水藩自体が小藩であり、明野領はその飛び地領なのだからさらに小さい。家老など一人いれば充分だし、領主武智雅久は若く決断力もあるので、家老職に諮らずに自らの意志で行動することも多かった。
――馬鹿らしい。ずっとそう思ってきた。
筆頭家老川口忠道および他二名の家老職はいずれも齢六十を超え、次席家老の忠雅が十九歳、佐竹家の家長であり、菊乃の兄である佐竹実雅が二十六歳と年齢に大きな開きがある。この国では若輩者には発言権がないらしいので、自然、五大家老の集まりは忠雅にとって我慢大会の様相を呈するのが常だった。
「――このたびの養子縁組の沙汰、正気とは思えぬ」
「そうだとも、殿は奸臣に騙されておるのじゃ」
「そもそも戦国の世であれば初代は智久候ではない。道久候であらせられたのだからな」
今日、領主の帰還後はじめて行われた五大家老の会合も、また前と同じようなやりとりから始まった。本領の側からみても明野領の側からみても千代丸君が家督を継ぐのはよい話のはずだが、彼らが納得する日は決して来ないだろう。
一応、五大家老の一人としては、今、議論すべきところはそこではないと発言したい。領主雅久は、藩の跡目相続に係る重大事項を五大家老に諮らずに独断で行動した。諮ったところで同意を得られないのは確実だが、まったく諮りもしなかったというところに領主の明確な意図が伺える。家老達がいくら騒いだところで、現実は変えられない。――既に五大家老の集まりは、明野領の政に対する影響力を失っているのだ。
影衆の御役目は基本五大家老の集まりで決定し、清水家から影衆に告げられる。たまに領主直々に御役目が下りてくることもあるが、そちらは海賊や山賊の討伐など明野領の治安を守る目的がほとんどで、家老職から下りてくる御役目のほとんどがくだらない――忠雅の目から見てくだらないと思える――本領との争いだった。
この会合で何か決める時は多数決ではなく、全員一致を建前としている。だから忠雅はこの三年間、影衆に対する意味のない御役目は徹底的に受けなかった。これまでそんなことをする清水家の家長は忠雅だけだったらしく、最初の頃はものすごく責められたり呆れられたりもしたのだが、結果的に影衆の生存率は著しく上がり、最年長の雅勝が来年には二十歳になる。傍から見ればくだらない意地かもしれない。だが、ただ当たり前に積み重ねて行く年月が、影達にとっての希望だ。
「――清水殿、よろしいか」
いつものように、くだらない話をくだらないと思いながら聞き流していると、筆頭家老の川口忠道から名指しで呼びつけられた。
川口忠道は御見の方の実父である。だがこの父親からどうやってあの心身ともに美しい女性が生まれたのだろうと首を傾げたくなるほど、この二人は似ていなかった。見てくれの問題ではない。――人間としての質そのものが。
忠道の道の字は初代明野領主・武智道久からの偏諱である。幕府が初代君水藩主・武智智久を嫡流と定めるまで、武智家の嫡流は道久だった。本来ならば家督を継ぐべき道久が飛び地領に追いやられたことで、川口家もまた道久派の川口が分家に、智久派の川口が本家と分断している。
その辺りの事情は清水家もまったく同じなのだが、清水家が忠雅の代になって本家との関係を改善しているのに対し、川口家は今なお本家と本領に対する敵愾心がすさまじい。同時に己の血筋と家柄に対する自負も激しく、妾腹で影衆上がりの忠雅が清水の家督を継ぐ際も、最も強硬に反対したのがこの川口忠道だったと聞いている。
台所で働く端女だった母に手をつけて子どもを生ませておきながら、側室にするでもなく使用人件妾として囲っておき、そのうちあっさり飽きて見向きもしなくなった己の父親に対し、忠雅はまったく情愛も尊敬の念も持っていない。ただことこの件に関してだけは、親父殿はよくぞまあ頑張って我を通したなと感心している。もっとも父にしてみれば上に六人もいた息子が立て続けに亡くなって、何が何でも己が血を引く者に家を継がせたかっただけなのであろうが。
「影衆の最年長、あれは本領の樋口の出だそうだな」
「……そのようですな」
現在、影衆の最年長である雅勝は、本領の下級武士の家の出だ。血筋の上でも幕府の公式見解でも君水藩の本家は本領側だが、はっきり言って財政的には本領より明野領の方が余裕がある。特に奴の家は父親が早くに亡くなったので、経済的に立ち行かなくなって明野領に売られてきたと聞いている。
しかし今、何故あいつの話がここに出るのだろうか。確かに今、雅勝が妻にしようとしている娘はこの男の実子だが、まさか自分の娘婿として対面したい訳でもあるまい。
「――千代丸君が江戸に向かう前に、その男に泰久候を殺させよ」
思わず、はあ?と間の抜けた声が出かかった。忠雅も十六の歳まで影衆だったのでよく知っている。影衆は皆、本領の城の構造を知りつくしており、今なお城に潜入中の仲間もいる。だがこれまでただの一度たりとも、藩主その人に刃を向けたことはなかった。
その理由など一つだけだ。明野領はともかく本領には常に公儀の目が光っている。お家騒動で分家側が藩主を傷つけたなら、待っているのはお家取り潰しの悲劇だけである。藩主の座を道久候の血筋に戻すどころか、君水藩そのものが断絶してしまっては、本末転倒も甚だしい。
「お断り申す。そんなことをして何になる。――お家取り潰しとなれば、どれほどの家臣が路頭に迷うか。川口殿とて知らぬわけでもあるまい」
忠雅の返答は予想の範囲内であったのだろう。若輩者の次席家老を川口忠道は鼻で括るようにして嗤った。
「だからその男を使えと言っているのだ。樋口家は元々小納戸役の家だったが、先々代当主が三十五年前、商家から賄賂を受け取った咎で切腹した。……結局、無実の罪だったそうだがな。その孫が祖父の仇を討つのであれば、公儀に知れたとてただの私怨で済む。無論、成功した暁には謀反人として裁きを受けてもらう――それで問題なかろう」
こいつは一体何を言っているのか。一瞬、怒りで息が止まりそうになった。
藩主の周囲には当然ながら、正規の家臣も本領の隠密である葉隠衆も付き従っている。いかに城の構造を熟知している影衆とはいえ、暗殺が容易いわけがない。仕損じればその場で斬られる。成功しても謀反人として殺される。つまりこの男は影衆の最年長に――雅勝に死ねと命じているのだ。
「いつまで不当に奪われたものを、奪われたまま指をくわえて見ているつもりか。初代道久候のご無念を何と心得ておる。明野領三代の悲願……まさかそれまで断るとは言うまいな、――清水殿?」
一応、忠雅も清水家の生まれなので、川口忠道の言わんとするところはわからなくはない。この連中はただ自分たちが分家として扱われることが不快なのだ。本来、快や不快はただの感情であって被害と加害ではないはずなのに、自分が不快であることは不当でありすなわち被害だと考えている。だから不快の原因である本領側に何をしても許されると無邪気に信じている。
上手く行かないことをすべて本領の所為にして思考停止していれば、さぞかし人生が楽だろう。
などとこの場で糾弾したところで、何の解決にもならない。だからあえて返事はせずに、なんとかこの事態を収める方向に頭を巡らせた。
その三十五年前の出来事とは本当だろうか。小納戸役とは藩主やその家族が日常生活で使う物品や着物を管理する役柄だから、確かに商人と癒着しやすい立場ではある。小納戸役が賄賂の受領を疑われ、身の潔白を示す為に切腹したなどというのは、ありそうな話ではある。
ただ忠雅は雅勝本人から、そんな話を聞いた覚えがまったくなかった。父親は普請方に勤める下級武士だったと聞いたことはあるから、本人が知らない可能性もあり得るか。一瞬、九年前、素性を知った上であいつを買ったのかと考えて、それは考え過ぎかと思い直した。あの頃、水谷の近辺は水害の被害から立ち直っておらず、あの辺りから買われてきた子どもは他にも大勢いた。たまたま大量に買い付けた中にそのような素性の武家の子が混ざっていた――というのが実情ではなかろうか。
雅勝は九年も影衆にいるのだから、はなから素性を知っていたのなら、もっと早くにそんな話が出てきそうなものだ。それが今になってそんなことを言い出すあたり、千代丸君の養子縁組が我慢ならず、腹立ち紛れに何とか一矢報いたいと色々模索しているうちに、今回の話を思いついたと言ったところなのだろう。
目先のことしか考えられない、勝手の病だ。そんな病の為に、これまでどれだけの影衆が意味もなく命を失ったことか。
――何故、老人の妄執に付き合わされて、若者が命を捨てなければならないのだろう。
忠雅は雅勝のことならば、良いところも悪いところも大体知っている。本領であれ明野領であれ、こいつがまっとうに立身出世を望んだならば、きっと一角の地位にまで昇り詰めるだろう。――ずっと、そう思ってきた。
腕が立つのは太平の世であまり役立たないかもしれないが、頭がとてもよく切れる。切れるくせに面倒がって自分から動きたがらないのは欠点だろうが、本人がその気にさえなれば行動力もある。養子縁組の交渉中に千代丸君暗殺騒動があったことを逆手にとって、交渉が有利に働くよう持って行くなどということは、忠雅には正直、考えも及ばなかった。
そして何より、人をよく見てよく使う。影の弟分達は最年長で一番の遣い手である雅勝を恐れてはいない。結構言いたいことも言うし、反抗的な態度を取ることもある。しかしそれでいて絶対的に信頼している。どれほど緊迫した場面であっても、あいつの言うことであれば従おうとする。あまり考えたくはないし、そのような事態を起こす気もないが、万が一忠雅と雅勝が反目した場合、今いる影衆は全員雅勝側につくのではないか。
樋口雅勝という男には、そう思わせるだけの何かがある。忠雅にはない。他の四人の家老にも、そして恐らく明野領主・武智雅久さえも持っていない。――人望とでも呼ぶべきものが。
忠雅は己の分をわきまえている。たまたま友が自分にないものを持っているからといって、妬む気は毛頭ない。ただそんな人間は、安易に死なせず生かして使うべきだ。だから何度も清水の家臣にならないかと誘って、ようやく向こうもその気になったばかりだったというのに。
「しかし、そのような重大事項を我々だけで決めるわけには行くまい。――殿のお許しがいる」
いくらなんでも、事は藩主の暗殺である。五大家老だけで安易に決められる案件ではない。それに彼らの主君である武智雅久は、他の家老達ほど藩主の座に執着はない。そうでなければ、自らの息子をあっさり本家の養子に差し出したりはしないだろう。
「――殿のお許しは既に得ている」
筆頭家老にあまりにはっきり言い切られて、言葉を失くしてしまった。
気づけば筆頭家老・川口忠道および、上原為道、飯野兼道の三名の他、義兄になるはずの佐竹実雅までもが、忠雅とは反対側の場所にいた。いつも川口忠道べったりで腰巾着の異名もある飯野兼道が、ここぞとばかりに忠雅をねめつけてくる。
「清水殿は何か勘違いをしているのではないか?影衆は清水家の所有物ではないのだぞ。誰の金で彼奴等を買ったと思っているのだ。影衆が明野領と武智家の御為に働かぬというのなら――今すぐ全員処分してしまえ」
そうだ。その通りだ。影衆を買い求める金は武智家の金であり、五大家老と家臣達の金であり、そこで暮らす領民達の金だ。だから彼ら――領主から末端の民にいたるまで、明野領で暮らす人々にとって、影衆は人ではない。物でさえもない。道具だ。人は金で買った物に執心することはあっても、道具に対して思い入れを持つことはない。道具は便利に使えて当然、使えなければ捨てればよい。それだけのものだから。
生まれ育った家で、忠雅は卑しい生まれにより蔑まれる存在だった。その後影衆になってからは次席家老の家の生まれであることを理由に異質として扱われ、そして今、五大家老の一人でありながら道具に執心する忠雅は、この明野領において完全なる異物だ。これからも永遠に相容れることはないだろう。
そしてこの上さらに領主・武智雅久までもが、家老達の考えに同意しているのだとしたら。
それは決してありえない話ではない。暗殺そのものが失敗しても、試みたという事実だけで口煩い老人達は溜飲を下げる。首尾よく成功すれば江戸にいる嫡男嗣久が後を継ぐ。しかし嗣久は病弱の身であり、恐らくそう永くは生きられまい。嗣久亡き後は千代丸君が藩主となって――千代丸君の実父である雅久が、事実上の藩主として藩政を取り仕切ることができる。
その辺りの意図は調べてみればわかるし、何なら領主に直接聞いてみてもいい。清水の家督を継いで三年、それくらいのことは忠雅にもできる。
そこまで考えて、一つの事実に気づいて愕然とした。
かつて無実の罪で切腹に追い込まれた藩士の孫が、祖父の仇を討つ為に藩主を暗殺する。
きっかけは単なる思いつきであれ、筋は通ってしまっている。五大家老の奏上が全員一致を建前としている以上、五大家老の決定であれば何が何でも反対してやる。脅されようが責められようが決して屈しはしない。――だがもしも領主が本当にそれを認めてしまったならば。
今回、雅勝を生かす為に忠雅にしてやれることは何もない。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる