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第二部
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障子戸がかたりと鳴いたのは、雅道が部屋を出て行ってから一刻あまりたった後のことだった。
今宵は玄徳が出かけているので患者を診ないことは周囲に伝えてあるそうだが、病人や怪我人は急に発生するものだ。急患がやって来ることもあるだろう。今は次席家老とはいえ、影衆上がりの忠雅は今でも気配や物音には敏い。微かに人の気配を感じ、雅道を呼んで来ようと立ち上がって、思わず剣の柄に手をかけた。
風の音でも野犬でもない。闇に紛れた気配は人のものであり――明らかに殺気を発している。
君水藩明野領次席家老である忠雅には当然、付き従うべき家臣がいる。だが現実問題として、今の明野領や清水家の家臣の中で、忠雅以上に剣を使えるものはいなかった。何者かに襲撃された場合、忠雅がお付きの者達を守ってやらねばらならないので、はっきりいって足手まといに他ならない。だから玄徳の医院に来る時や、法勝寺、元許嫁が暮らす保月庵に向かう時などは一切家臣を連れず、単独行動することが常だった。
まさかそれを承知の上で、今この場所に忠雅の命を奪いに来たのか。しかしこんな街場のど真ん中で斬り合いなどすれば、巻き込まれる人間が出ても不思議ではないではないか。少なくとも、玄徳や雅道といった医の者をくだらない殺し合いに巻き込んでは絶対にならない。
現役の影衆だった頃、忠雅は常に先手必勝を心がけていた。今宵は月が明るい分、光の届かない陰の部分の闇は深い。底なしの闇だ。向こうが動き出すより先に、障子を蹴倒して楓の木に向かって斬りかかった。幹の陰の闇にいた人物が刀を抜いて応戦し、刃と刃がぶつかり合う。煌々と光る月の光に照らされて、打ち合わされた白刃がぎらりと光った。
その瞬間、えっ……と思わず声が出そうになった。侵入者は武家のいで立ちの若い男で、覆面をしているので顔形は定かではない。だがたった今、打ち合わされた太刀に見覚えがあった。いや、見覚えがあるなどという生易しいものではない。あの刀は代々清水家の嫡男に受け継がれるものであり、六人いた兄が全員死んだ後、忠雅の物になった。正直見たくもなければ使いたくもなかったので、一度も抜くこともせず、すぐさま雅勝に下げ渡したのだ。
――そんな、まさか。
雅勝が死んだ後、その太刀の行方は定かではなかった。刀のことなど、今の今まで忘れていたのだが、当時の藩主を暗殺した刀だ。当然、藩で回収して――その後、どうなったのだろう。そして何より何故今、闖入者がその刀を持っているのか。
先ほど雅道とあんな話をしていた所為なのだろう。いったんそう思ってしまうと、今打ち合っている相手の背格好が、死んだはずの同輩に似ているような気がしてならなかった。太刀筋にも覚えがあるような気がするのだが、忠雅は雅勝と本気で殺し合ったことがないので、絶対にそうだと言い切る自信はない。
動揺がそのまま剣に出た。何度目かに打ち合った切っ先をかわしきれずに、腕から鮮血が迸った。軽傷ではあるが結構痛い。少し離れた砂利の上に着地した時、忠雅の息は完全に上がっていたが、対する相手はほとんど呼吸も乱さず、構えには一寸の隙もない。どこの手のものか素性はまったく明らかではないが、かなりの遣い手に間違いない。そしてもしも本当にこの相手が雅勝であった場合、現役の影衆だった頃から忠雅は剣の腕において、雅勝には絶対にかなわなかった。
背筋を焼けるような焦燥が駆け抜けた時、不意に夜の闇を白い光が駆け抜けた。白い稲妻――いや、忍びの人間が使う飛び道具に近い短刀だ。誰が短刀を投擲したかと考える必要はなかった。今日、この家には影衆上がりがもう一人いる。縁側を駆けて来た雅道は今、影衆の頃と同じ表情をしていた。
「――忠雅兄者!」
「雅道……」
太刀で短刀を弾いた闖入者が一瞬、忠雅と雅道の顔を見比べたような気がした。二対一では勝ち目がないと踏んだのか、踵を返して立ち去ろうとしたその横顔に向け、忠雅は足元に落ちていた短刀を投げつけた。
致命傷を狙ったわけではない。これほどの遣い手であれば顔の辺りに飛んできた短刀など、難なく払いのけるだろう。事実、若い男は左手であっさりその刀を打ち払った。ただその瞬間、顔を隠していた覆面がずれて、月明りの下に一瞬、その相貌が鮮やかに浮かび上がった。――想像通りまだ若い。二十代前半くらいの月代を剃った若い武士である。
「そんな、お前、どうして……」
落ちた覆面を拾い上げ、立ち去った闖入者の後を追うことができなかった。――月明かりに照らされた横顔はあまりにも、死んだはずの友によく似ていた。
今宵は玄徳が出かけているので患者を診ないことは周囲に伝えてあるそうだが、病人や怪我人は急に発生するものだ。急患がやって来ることもあるだろう。今は次席家老とはいえ、影衆上がりの忠雅は今でも気配や物音には敏い。微かに人の気配を感じ、雅道を呼んで来ようと立ち上がって、思わず剣の柄に手をかけた。
風の音でも野犬でもない。闇に紛れた気配は人のものであり――明らかに殺気を発している。
君水藩明野領次席家老である忠雅には当然、付き従うべき家臣がいる。だが現実問題として、今の明野領や清水家の家臣の中で、忠雅以上に剣を使えるものはいなかった。何者かに襲撃された場合、忠雅がお付きの者達を守ってやらねばらならないので、はっきりいって足手まといに他ならない。だから玄徳の医院に来る時や、法勝寺、元許嫁が暮らす保月庵に向かう時などは一切家臣を連れず、単独行動することが常だった。
まさかそれを承知の上で、今この場所に忠雅の命を奪いに来たのか。しかしこんな街場のど真ん中で斬り合いなどすれば、巻き込まれる人間が出ても不思議ではないではないか。少なくとも、玄徳や雅道といった医の者をくだらない殺し合いに巻き込んでは絶対にならない。
現役の影衆だった頃、忠雅は常に先手必勝を心がけていた。今宵は月が明るい分、光の届かない陰の部分の闇は深い。底なしの闇だ。向こうが動き出すより先に、障子を蹴倒して楓の木に向かって斬りかかった。幹の陰の闇にいた人物が刀を抜いて応戦し、刃と刃がぶつかり合う。煌々と光る月の光に照らされて、打ち合わされた白刃がぎらりと光った。
その瞬間、えっ……と思わず声が出そうになった。侵入者は武家のいで立ちの若い男で、覆面をしているので顔形は定かではない。だがたった今、打ち合わされた太刀に見覚えがあった。いや、見覚えがあるなどという生易しいものではない。あの刀は代々清水家の嫡男に受け継がれるものであり、六人いた兄が全員死んだ後、忠雅の物になった。正直見たくもなければ使いたくもなかったので、一度も抜くこともせず、すぐさま雅勝に下げ渡したのだ。
――そんな、まさか。
雅勝が死んだ後、その太刀の行方は定かではなかった。刀のことなど、今の今まで忘れていたのだが、当時の藩主を暗殺した刀だ。当然、藩で回収して――その後、どうなったのだろう。そして何より何故今、闖入者がその刀を持っているのか。
先ほど雅道とあんな話をしていた所為なのだろう。いったんそう思ってしまうと、今打ち合っている相手の背格好が、死んだはずの同輩に似ているような気がしてならなかった。太刀筋にも覚えがあるような気がするのだが、忠雅は雅勝と本気で殺し合ったことがないので、絶対にそうだと言い切る自信はない。
動揺がそのまま剣に出た。何度目かに打ち合った切っ先をかわしきれずに、腕から鮮血が迸った。軽傷ではあるが結構痛い。少し離れた砂利の上に着地した時、忠雅の息は完全に上がっていたが、対する相手はほとんど呼吸も乱さず、構えには一寸の隙もない。どこの手のものか素性はまったく明らかではないが、かなりの遣い手に間違いない。そしてもしも本当にこの相手が雅勝であった場合、現役の影衆だった頃から忠雅は剣の腕において、雅勝には絶対にかなわなかった。
背筋を焼けるような焦燥が駆け抜けた時、不意に夜の闇を白い光が駆け抜けた。白い稲妻――いや、忍びの人間が使う飛び道具に近い短刀だ。誰が短刀を投擲したかと考える必要はなかった。今日、この家には影衆上がりがもう一人いる。縁側を駆けて来た雅道は今、影衆の頃と同じ表情をしていた。
「――忠雅兄者!」
「雅道……」
太刀で短刀を弾いた闖入者が一瞬、忠雅と雅道の顔を見比べたような気がした。二対一では勝ち目がないと踏んだのか、踵を返して立ち去ろうとしたその横顔に向け、忠雅は足元に落ちていた短刀を投げつけた。
致命傷を狙ったわけではない。これほどの遣い手であれば顔の辺りに飛んできた短刀など、難なく払いのけるだろう。事実、若い男は左手であっさりその刀を打ち払った。ただその瞬間、顔を隠していた覆面がずれて、月明りの下に一瞬、その相貌が鮮やかに浮かび上がった。――想像通りまだ若い。二十代前半くらいの月代を剃った若い武士である。
「そんな、お前、どうして……」
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