茜さす

横山美香

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後日談

春風 1

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 確かに当事者である彼女が、構わないから行ってこいと言ってくれたとはいえ、その時、自分が取った行動が、世間一般的には非情と呼ばれる行為だという自覚はある。だけどしかしそれにしたって、その行動に対して、この邸の女達が行った報復は、あまりにもあんまりなのではないか……と忠雅は思った。


 柔らかな陽射しが、明野領清水家の庭先に降り注いでいた。ほどよく、整えすぎない程度に刈り込まれた庭木の枝は綺麗な形に広がって、先々代の時に庭にあつらえられた池の畔では、数羽の水鳥が気持ちよさそうに瞼を閉ざしている。きっと、つがいなのだろう。二羽で仲良く毛づくろいしている様子は、心に余裕のある者が見たならば、微笑まずにはいられない光景だった。
 清水家は代々――といってもたかだが三代やそこらのことではあるが――君水藩の飛び地領である明野領で次席家老を勤める家柄である。元々、君水藩武智家の嫡流であった初代・道久候がどういう訳か幕府から嫌われて、飛び地領に追いやられた際に一緒にこの土地にやって来た。その後、藩主も領主も清水家も代替わりを経て、今は先代当主の七男――妾腹の生まれで、一度は明野領の隠密である影衆に落とされた息子が跡を継いだわけだが、その辺りの事情はあまりにこみ入っている上に、知られては色々と都合の悪い事情もあるので、大きな声で語られたことはない。
 その清水家の現在の当主――明野領次席家老の清水忠雅が、離れの一室を訪れた時、褥に横たわっていた女人が、寝間着の襟もとを押さえて顔を上げた。
 確かに普段よりとても青白い顔をしていて、たいぶやつれている。だが表情は穏やかで――そして何よりも、生きている。
「……菊乃」
 恐る恐る、こわごわと呼びかけた夫に、妻は不思議そうに首を傾げた。忠雅とて、今、自分の顔に張り付いている表情が、かなり険しいものであることは自覚している。だがどうしても、いったん強張った顔の筋肉が元に戻ってくれないのだ。
「お帰りなさいませ。……忠雅様?どうされました?随分と、お顔の色がよくないようですが」
「……本当に、本当に大丈夫なんだな」
 すべての発端は昨夜からずっと、腹を抱えて苦しんでいる菊乃を置いて、忠雅が陣屋に――仕事に出かけたことに起因する。いくらよりにもよって今日、明野領に生野藩からの使者がやってきて、次席家老の忠雅が歓待する予定があったとはいえ――そして激しく長い苦痛の合間に、当の妻が構わないから行ってくれと言ってくれたとはいえ――確かに行動自体は、薄情と謗られてもいたしかたない。
 現在の明野領主・武智行久は精神に異常のある人物であり、まともな行動や判断能力を期待することができない。筆頭家老の川口家が数年前に没落していまい、今は事実上、忠雅が明野領主として政務を取り仕切っている。武智家の親戚であり、明野領と境界を接している生野藩との付き合いは極めて重要だった。そのあたりの事情は、明野領五大家老家の一つ、佐竹家の姫君であった菊乃は重々承知している。しかし彼女とて生まれてはじめての事態であり、辛くて痛くて不安だったろうに、廊下でおろおろ行ったり来たりを繰り返している夫に向けて、ここは構わないからさっさと陣屋に行けと障子越しに声をかけた時、夫が本当に自分を置いて行ってしまうと思っていたのだろうか。
 ちなみに隣藩からの使者を迎えるという本日のお役目は、散々たるあり様だった。
 対面の場――領主・武智行久が表に出てこないので、代わりに忠雅が領主代理として座っている――だけは何とかやり過ごしたが、その後の昼餉の席では、椀の汁物をこぼした上に膳をひっくり返し、慌てて立ち上がった際に代わりの膳を持ってきた小者とぶつかって、互いに額を抑えてのたうち回るという、笑い話にもならないような本当の話をやってのけた。生野藩からやってきた初老の武士もさぞかし呆れたのだろう。涙目の次席家老に向かって、
「清水殿はお加減でも悪いのか?儂を迎える為に無理をされているのであれば、早く帰ってゆっくりと休んで下され」
 ……そう言う他にはなかったのだろうと思う。
 この世には百の方便よりも、一の真実の方が重たいこともある。事ここに至って、忠雅は包み隠さずすべてをぶちまけた。実は妻が昨夜から産気づいていて、はじめての子だけあって気になって不安でいたしかたないのです――
 四十代後半から五十代初旬くらいの武士は忠雅の言葉を聞いて、まんまるに目を見開いた。
「それは大変だ!清水殿、貴公はここでこんなことをしている場合ではない!女子は産の恨みを一生忘れませんぞ。初めての産の時に夫がどこでどのような振る舞いをしたか。そのことに、今後の夫婦生活の平穏のすべてがかかっているのじゃ!」
 ――何だか、ものすごく言葉に実感がこもっていた。
 明野領の老臣達は考え方が旧式で、妻や子をないがしろにする傾向が強い。いわく、戦国の世では後顧の憂いを除く為に、武士は自らの手で妻子を斬ってから出陣したとか。そういう彼らは戦国の世にはまだ生まれていないか、生まれていたとしてもまだ物心つかない年端である。父親の出陣に際して母親と共に斬られていれば今ここで偉そうな口をきくこともないので、ぜひともそうしておいて欲しかった……という本音は、いまだかつて誰にも明かしたことはない。
 その後、取りあえず最低限しなければならないことを済ませ、息を切らせて自邸に駆け戻ってきた忠雅を見て、この邸の女たちは表情を曇らせた。昨晩から泊り込んでくれていた菊乃の義姉など、忠雅の顔を見て露骨の眉をひそめてうつむいた。まるで――つい先程この場所で、たいそう不吉な出来事が起こったと言わんばかりに。
 でかける時には産婆や医者がいて、お湯が足りないとか布を持ってきてとか、女たちがせわしなく立ち働いていたのに、帰って来た時には邸全体がしんと静まり返っていた。何しろ人ばかりは大勢いる邸だから、過去にこれほど静まり返ったのは今から八年ほど昔――本来なら清水家を継ぐはずだった長兄が、流行病で死んだ時以来だ。
 それで完全に、忠雅の顔から血の気が引いた。
 戦が男の戦いであれば、産は女の戦いである。命懸けの戦いは時に敗れることもある。忠雅は九歳から十六までの七年間を明野領の隠密である影衆として過ごしていた為、一般的な武士よりは市井の事情に通じている。そう、あの頃何度か耳にした。実母が弟妹の出産の時に死んでしまって、その後やって来た継母に疎まれて影衆に売られてきたとか。影衆時代に知り合って最も長く親しく付き合ってきた雅勝もまた、母親が妹を産むときに身体を壊してしまったがことが、売られてきた要因の一つだった。
 もっとも彼女達とてそれほど悪趣味ではなく、すぐに表情を緩ませて、彼の妻の今の状態について教えてくれた。しかしこの仕打ちに、顔が強張らないでいられる男がいるのなら、ぜひともお会いしてみたい。
 忠雅の説明に、まだ多少青白い顔ながら、菊乃は声をあげて笑った。あまりに長く笑っているので、これではかえって身体に悪いのではないかと、心配になるほどだった。
「おい……、あまり無理はするな」
「わたくしは大丈夫です。そんなことより、早く抱いて下さいまし」
 まだ笑いの余韻を残した顔で、宝物を抱くように差し出された、小さな布の塊。その中には真実、宝物が――夫妻の第一子が包まれていた。
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