君と一緒に空を飛ぶ

相沢 竜一

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渡河編

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 ジャンたち二人がたどり着いたこの森は、ブラーバ河と接する部分のうち、もっとも細い個所だったらしい。東西の幅は一〇〇メートルもないのではないだろうか。
 予定よりもかなり早く到達してしまったため、渡河を決行する夜までにはかなり時間的な余裕がある。
 ジャンは、この森の中を素早く索敵して歩いた。どこに敵がいるかを確認しておく必要があったからだ。
 中尉の方はと言えば、こちらも双眼鏡を使って、対岸をはじめとして周囲の様子を観察している。中尉は無理をすれば歩けなくもないのだが、ここまで来て無理をする意味がない。
 二人が離れていたのはほんのわずかな時間だったが、ジャンの索敵と中尉の監視からわかったことは、この近辺には敵が布陣していないという事実だった。
 実に不思議な事態だ。
 ブラーバ河は、敵が架ける橋の本数を極端に削減するほど、天然の要害としての機能を重視している場所のはずだ。それゆえに、防衛に向いていそうなこの森の中には、塹壕や火点のひとつでも設けていておかしくないのに、そういったものが見当たらない。
 というより、敵の姿そのものを見ていないのだ。
 確かに、渡河する敵に対しては、その渡河を完全に阻止するために水際で防御するか、それとも、渡河が困難であるということを利用して、制御できる範囲内で敵の渡河を許容し、これを包囲殲滅することを目指す内陸持久という、二つの概念がある。
 このうち、後者を選択したのであれば、この森に敵の姿がないのも理解はできる。何しろ、水際防御での最大の障害は、敵の砲爆撃の効果範囲内に兵を置かねばならないという事実があるからだ。
 だが、例えそうだとしても、ある程度の警戒用の将兵は置いておくべきだと思うのだが。
 もっとも、そのおかげで、ジャンとアンナの二人は安全を確保できているのだから、敵の不備には感謝してもし足りない。

 ジャンは掩体壕を掘ることにした。渡河まで待機するとなれば、あと数時間はここに滞在することになる。その間に、味方が敵が潜んでいるであろうこの森に対し、砲撃を始めたらどうなるか。
 あまり愉快な想像にはならない。
 それを避けるためには、穴を掘る必要がある。
 航空兵であるジャンと中尉にはそれほど身近な感覚ではないが、同じ陸軍の歩兵であれば、それはもう、身に付いた習性と言ってもいいほどに穴を掘る。
 実に単純な話で、銃弾や砲弾の破片は、頭上から降ってくるよりも、側面から襲ってくる可能性の方がはるかに高い。それに、砲弾の炸裂実験などから、立ったままの歩兵に対する砲撃と、地面の起伏を利用して伏せている歩兵と、塹壕を掘ってその中に隠れている歩兵とでは、前者から後者に向かうほど、その損耗率は劇的に減るという結果が出ている。
 つまり、地上戦で生き残るためには、とにかく穴を掘ってそこに隠れろ。ということになるのだ。
 ジャンは車の備品である円匙スコップを取りに行こうとした。
 そんなジャンを、周囲の様子を写真機カメラで撮影していた中尉が呼び止める。
「なあ、軍曹。あの車、もう少しこちらに動かせないか?」
 中尉の視線の先には、二人をここまで連れてきてくれた車があった。
「はあ。やれないことはないと思いますが、どうしてです?」
「あれには前照灯ヘッドライトがついているだろう?」
 にやりと笑う中尉の意図を察したジャンは、深くうなずいた。
「わかりました。すぐに移動させましょう」
 言うのは簡単だったが、行うのはなかなかに面倒であった。
 何しろ、人為的に作られた森ではないから、木々の間隔はまばらで、少しでも間隔の広いところを縫うようにして進まなければならないし、先ほど車体後部に被弾したせいで、車軸が曲がったのか、それとも、緩衝装置がいかれたのか、右後輪が車体に食い込んで動かなくなってしまっているのだ。走行中はここまで酷くはなかったのだが、車から離れているうちにこうなってしまったらしい。
 幸い、車は前輪駆動だから、固定されてしまった右後輪を引きずるようにすれば動けなくもないのだが、木々の間を通るために、左右に車体を振って進まなければいけないので、わずらわしいことこの上ない。
 それでも、夜までに時間があることと、何もしないで待つという苦痛から逃れられるという意味では、これはこれでよかったのかもしれない。

 一方、車の移動を頼んだ中尉はと言えば、周囲を撮影した後は、帳面メモに向かって通信文を組み立てていた。
 本来、暗号電文を作成するには、専用の装置を必要とするが、機上では通信も担当する中尉はある道具を持っていた。文字が羅列された表と、計算尺のような形をした器具で、暗号尺という。
 これらは、次のように使用する。
 最初に準備するものは文字列表だ。この文字列表は複数存在し、各ページ毎にまったく違う配列で並んでいる。文字列表のどの頁を使うかは日付毎にあらかじめ決まっているので、該当する頁を開く。さらに、毎日三文字の暗号鍵が通達される。例えば「9F3」のような値だ。
 これらの準備が終わったら、文字列表に暗号尺を載せる。まず、暗号尺の腕を動かして、暗号鍵の一文字目である「9」が小窓に見えるようにする。次に、文字列表の最上段に並んだ文字から、暗号化したい「A」と暗号尺の上にある上三角印が一致するように動かす。すると、暗号尺の下にある下三角印が、暗号化された文字「V」を示す。
 続いて、暗号尺の腕を動かして、小窓に「F」が表示されるようにし、同じように上三角印で「V」を選択すると、下三角印では「P」が示される。
 という手順を暗号鍵すべてで繰り返すと、最終的に「A」という文字は「6」に変換される。
 これを、平文のすべてに対して実行すると、一見しただけでは意味をなさない文字列が完成する。
 復号するときは、暗号化の反対を行えばいい。つまり、暗号尺を「3」に合わせて下三角印を「6」に合わせると、上三角印は「P」を示す。続いて暗号尺を「F」に合わせ、下三角印を「P」に合わせると、上三角印は「V」を示す。といった要領だ。
 中尉は以下のような電文を準備していた。
『我、帝国陸軍第七四三飛行隊所属、ル・ブラン中尉及ビ、タリアン軍曹ナリ。二日前、敵地ニ墜落セルモ、ブラーバ河東岸マデ到達セリ。コレヨリ渡河ヲ開始ス。援護サレタシ』
 この文章の一文字一文字に上記の暗号化を行うのだから、実に気が遠くなるような作業だ。
 だが、この手間を少しだけ省く方法がある。まず、最初に与えられた暗号化文字「9」で全文を変換し、変換後の文字列を次の暗号化文字「F」で変換するのだ。こうすると、暗号尺の腕を操作する手間がわずかに三度のみとなり、あとは文字列表の上をひたすら動かすだけでよくなる。
 アンナも、ジャンが車を四苦八苦しながら移動させている間に、電文の組み立てに夢中になっていた。
 おかげで、今ではもう、暗号化された電文の準備はほとんどできあがっている。
 唯一不安なのは、今日使うべき文字列表はわかっているが、今日の暗号鍵が不明である点だ。これは、結局、墜落時に使っていた二日前の暗号鍵を使わざるを得なかった。
 夜の渡河に向け、準備は着々と進んでいる。

 ジャンは移動した車の脇に、穴を掘り始めた。
 車の側面に搭載されていた円匙を地面に突き立てる。
 携帯円匙に比べ、柄の長さは倍。匙部の面積は三倍近いし、先が剣状になっているので実に掘りやすい。
 黙々と地面を掘っているジャンの反対側には、中尉が地面に伏せて対岸や周囲を監視していた。敵の接近はもちろんだが、対岸から味方に攻撃されるというのも避けたいので、特に用心している。
 しているのだが。
 用心していることと、敵の接近を避けることとは、必ずしも一致しない。
 敵が、近づいてくる。

 最初に見つけた中尉が、ジャンに警告を発した。
 こちらに向かってこなければ、やり過ごすつもりではあったのだが、彼らは確実にここを目指しているようで、もはや接触は避けられそうにない。
 ジャンは、見つかったら面倒を引き起こしそうなものはすべて、車の天蓋となる幌と荷台との隙間に押し込んで隠した。
 彼らがこちらに近づくに従って、人数やその服装、武装なども見分けられるようになった。
 一人は士官で、もう一人は下士官のようだ。だが、着用している軍服は、あきらかにジャンとアンナが着ているものとは違う。上衣ジャケットこそ枯草色カーキに染められているが、帽子と下袴ズボンは紺色を主体に、挿し色として赤を入れた色調でまとめられている。
 親衛隊。
 人民と党と最高指導者同志に忠誠を誓った狂信者たち。
 捕虜を取らない、捕虜にならないという敵の姿勢は、彼らが最も強烈に発揮しており、文字通り全滅するまで戦うらしい。
 噂には聞いていたが、実物を見るのはこれが初めてだ。
 彼らが放つ雰囲気も、これまでに遭遇してきた敵とはあきらかに違う。まったく油断をしていない。武器こそ構えてはいないが、いつでも使えるようにしているのが見て取れる。
 下士官の方は、短機関銃を負革スリングで肩から身体の前にくるように下げて、あとは手でつかんで持ち上げれば射撃できる状態にしているし、士官も腰に本人から見て左側の前の方に拳銃嚢ホルスターを配置して、右手で即座に抜けるようにしているからだ。
 これは、相当拙い。
 ジャンは、親しくしている後方攪乱部隊の兵士たちから教えてもらったことを思い出していた。
 至近距離で咄嗟の射撃を行う場合は、照準を定める必要はない。銃を握った手の人差し指を相手の方に向けるようにして、引金トリガーを絞るだけでいい。ただし、より危険な相手を狙うこと。例えば、銃をこちらに向けつつある。より強力な武器を持っているというのが判断基準となる。
 それと、銃を持った相手の場合は、頭や上半身ではなく、腹を撃たなければならない。頭や心臓を撃った場合、反射で筋肉が収縮してしまい、引金を引かれる恐れがある。腹を撃てば身体は折れ曲がるので、たとえ反射で引金を引いたとしても、銃口は地面を向く可能性が高まる。
 そんな場面に遭遇したくはないが、備えだけはしておかなければならない。
 ジャンは、手にした円匙で地面の穴を広げつつ、敵から奪って腰に付けた拳銃嚢の蓋をそっとずらしてから、気付かれぬように手を忍び込ませて、拳銃の安全装置セーフティを外した。薬室にはすでに装填済みだから、万が一の時は拳銃嚢から拳銃を抜いて、引金を引くだけでいい。
 何もなければよいのだが……。
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