DEEP BLOOD

SAKU

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第三十六話

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散歩から戻ると、
サクは何でもないことのように言った。

「……葛城総理のところへ行こう。」

凪は、靴を脱ぎかけたところで固まる。

「……え?」

ゆっくり振り返る。

「そ……総理?
 山南さんじゃなくて……?」

サクは、少しだけ考えるように視線を上げてから答えた。

「一連の報告と……
 それから、私の戸籍を何とかしなくては。」

「……こ、せき?」

凪の声が、わずかに裏返る。

「戸籍!?」

「あぁ。」

サクは、あっさりとうなずいた。

「今の私は、戸籍がない。」

「……え?」

凪の思考が、追いつかない。

「つまり――
 身分証明が出来ない。
 運転免許も、保険も、口座も……」

一拍。

「このままでは、生活が成立しない。」

「ちょ、ちょっと待って……!」

凪は慌てて言った。

「じゃあ……
 昨日、どうやって来たの?」

サクは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まり――
それから、困ったように眉を下げた。

「……あれは、例外だ。」

「例外で済ませないで!」

凪は、思わず声を上げる。

「昨日、普通に車で来なかった!?」

サクは、視線を逸らす。

「……細かいことは、今は重要ではない。」

「重要だよ!!」

凪は頭を抱えた。

(この人……
 人としてのスタートラインが、色々おかしい……)

サクはそんな凪を横目に、静かに続ける。

「いずれにせよ、
 正式に“人として生きる”以上、
 避けて通れない。」

凪は、深く息を吸ってから言った。

「……それで。
 いきなり、総理?」

「最も話が早い。」

即答だった。

凪は、しばらくサクを見つめ――
やがて、観念したように小さく笑う。

「……分かった。」

そして、言葉を選ぶように付け加えた。

「でも……
 ちゃんと説明してよ。
 あとで倒れたりしたら、困るから。」

サクは、わずかに目を見開き――
それから、静かにうなずいた。

「……努力する。」

その返事が、どこか頼りなく聞こえたことに、
凪は気づかないふりをした。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

車に乗り込むと、
凪はシートベルトを締めながら、そっと横を見る。

サクは、いつもと変わらない表情でハンドルを握っていた。

「……ね。」

「どうした?」

「ほんとに……
 運転、大丈夫なの……?」

サクは前を見たまま答える。

「操作自体に問題はない。」

「そういう意味じゃなくて……」

凪は小さく息を吐いた。

「“許可”の話。」

一瞬だけ、サクの指がハンドルの上で止まる。

「……あぁ。」

短く、理解したように言う。

「その点も含めて、
 今日、整理する。」

凪はそれ以上言わなかった。

エンジン音だけが、一定のリズムで続く。

街を抜け、官邸へ向かう道に入るにつれ、
空気が少しずつ変わっていくのが分かった。

警備の目。
車線の整理。
無言の確認。

サクは、自然に速度を落とし、指示に従った。

凪は気づく。

――慣れている。

「……来たこと、あるんだね。」

「何度か。」

淡々とした答え。

「……その時は、
 “人として”じゃなかったけど。」

その言葉に、凪の胸が静かに鳴る。

車は止まり、
係員が近づいてくる。

サクは窓を下ろし、短く名を告げた。

確認は早かった。

車は、そのまま中へ通される。

凪は、小さく目を見開く。

「……ほんとに……総理官邸……」

「そうだね。」

サクはそう言いながら、車を降りた。

建物を見上げるその背中は、
夜のそれとも、朝のそれとも違う。

――ここに来る理由を、
きちんと自分で選んでいる背中だった。

凪も、後に続く。

中へ通される廊下は静かで、
音が吸われていくようだった。

案内役の足音だけが、規則正しく響く。

扉の前で立ち止まる。

「こちらです。」

ノックの音。

「どうぞ。」

低く、よく知っている声が返った。

扉が開く。

葛城総理は、机に向かったまま顔を上げ、
二人を見ると、わずかに口元を緩めた。

「……随分、早い“報告”だな。」

サクは、一歩前に出て頭を下げる。

「生きて戻りました。」

葛城は鼻で笑った。

「それは見りゃ分かる。」

そして、視線を凪に移す。

「……無事で何よりだ。」

凪は、小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。」

葛城は椅子にもたれ、サクを見る。

「で?」

短い一言。

サクは、まっすぐに答えた。

「あの時の約束を、
 守っていただきたく。」

一瞬、部屋の空気が張る。

葛城は、ゆっくりと目を細めた。

「あぁ……
 生きて帰ったら、ってやつだ。」

凪の胸が、わずかに痛んだ。

(……やっぱり……サクは死ぬ覚悟してたんだ…)

葛城は続ける。

「“その時は、彼女と共に生きることを許してください”
 だったな。」

「――え?」

凪が、思わず声を漏らす。

サクは、うなずいた。

「そうです。」

葛城は、小さく息を吐いた。

「結局、我々は“サク”を失うことになる。」

「えぇ。」

即答だった。

「……本当に、面倒な男だ。」

「否定しません。」

葛城は机に肘をつく。

「で?」

視線を鋭くする。

「私は、どうすればいい。」

サクは、一拍置いて言った。

「――戸籍を下さい。」

部屋に、短い沈黙が落ちた。

葛城は、しばらくサクを見つめ――
やがて、苦笑する。

「……国として、
 それが一番厄介な頼みだ。」

それでも。

「だが……
 ないのも、困る。」

そう言って、書類を一枚引き寄せた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

葛城は、書類に視線を落としたまま言った。

「ただな。」

その一言で、
部屋の空気がわずかに引き締まる。

「戸籍を作る以上、
 “過去が空白の人間”には出来ない。」

サクは黙って聞いている。

「名前。
 本籍。
 生年月日。
 親族関係。」

一つずつ、淡々と並べられる。

「全部、決める必要がある。」

サクは、わずかに視線を伏せた。

「……承知しています。」

葛城は顔を上げる。

「“南雲朔夜”は使えん。
 あれはもう、存在しない。」

「はい。」

凪は、そっとサクを見る。

名前を失う、ということ。
それがどれほど重いかを、凪は知っていた。

葛城はペンを置き、言った。

「新しい名前だ。」

一拍。

「“人として生きるための名前”を出せ。」

部屋が、静かになる。

サクはすぐには答えなかった。

――夜に呼ばれた名。
――影で使われた名。
――奪い、守り、消えてきた名。

どれも、もう違う。

凪は、何も言わずに待った。

急かさない。
奪わない。

サクは、ゆっくりと顔を上げる。

「……朝比奈。」

葛城が眉を動かす。

「ほう。」

「“朝”を、生きる者として。」

凪の胸が、静かに鳴る。

サクは続けた。

「名は……
 朔弥。」

夜明け。
新月。
始まり。

葛城は、数秒その名を反芻するように黙り――
やがて、書類にペンを走らせた。

「朝比奈 朔弥。」

インクの音が、確かに響く。

「今日から、おまえは
 国家上、そういう人間だ。」

サクは、その文字を見る。

そこにあるのは、
逃げるための名ではない。

隠れるための名でもない。

生きるための名だった。

凪は、そっと息を吸い、小さく言った。

「……よろしくね。」

サクは、ほんの一瞬目を瞬かせ――
それから、静かにうなずく。

「……あぁ。」

葛城は、椅子にもたれて言った。

「面倒な男だ。
 名前一つ作るのに、
 これだけ時間を使わせる。」

「申し訳ありません。」

「褒めてない。」

そう言いながらも、
葛城の声には、どこか柔らかさがあった。

「だが――」

書類を閉じる。

「これで、
 おまえは“夜に消える存在”じゃない。」

一拍。

「朝比奈 朔弥。
 人として、
 朝を迎えろ。」

その言葉に、
サク――朝比奈朔弥は、深く頭を下げた。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

書類を閉じた葛城は、
しばらく椅子にもたれて天井を見上げていた。

そして、何でもないことのように言う。

「……で。」

視線を戻す。

「これから、どうする。」

サクは即答しなかった。

凪が、わずかに息を詰める。

葛城は続けた。

「戸籍を作った以上、
 おまえは“人間社会”に出る。」

一拍。

「裏を知ってる人間が、
 野良で動くのは困る。」

視線が、凪にも向けられる。

「彼女もな。」

凪は、はっとして背筋を伸ばした。

サクは、静かにうなずく。

「……承知しています。」

葛城は、短く鼻で笑った。

「だから。」

机を指で叩く。

「政治家はやらせん。」

サクの眉が、わずかに動く。

「だが――
 政治からは、逃がさない。」

凪は、思わず口を挟んだ。

「……それって……?」

葛城は、あっさりと言った。

「私の秘書だ。」

一瞬、部屋が静まり返る。

「……はい?」

サクが、珍しく聞き返す。

「秘書。」

葛城は繰り返す。

「表の肩書きがある。
 給料も出る。
 戸籍とも、行動とも紐づく。」

一拍。

「私の目の届く場所に置く。
 監視……と言いたいところだが。」

サクを見る。

「面倒を見る、の方が近いな。」

サクは、数秒黙り――
やがて、静かに言った。

「……私は、人としては
 まだ不慣れですが。」

「知ってる。」

即答だった。

「能力の話はしてない。」

視線を鋭くする。

「倒れるかどうかの話だ。」

凪が、そっと言う。

「……最近、
 無理をすると、すぐ顔色が変わります。」

「凪……」

「ほらな。」

短く、結論を出す。

「朝比奈朔弥。
 しばらくは、
 私の秘書として働け。」

サクは、凪を見る。

凪は、一瞬だけ迷ってから――
小さく、うなずいた。

「……一緒に、やっていこう。」

その言葉に、
サクはゆっくり息を吐いた。

「……分かりました。」

深く、頭を下げる。

葛城は、椅子に深く腰掛け直し、言った。

「人として生きる練習だ。」

一拍。

「まずは――
 倒れずに働くところから始めろ。」
 
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