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一章 新米女将誕生
1.リニューアルオープン
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「女将、お車が到着されました」
春風がPCのメールチェックをしている最中、受付にいた仲居頭の村治榮が、事務所に声をかけてきた。
「はい。すぐ行きます」
出入口の横の姿見で全身をチェックし、顔を近づけて上半身を確認。おかしなところはない。
後を継ぐと決めてショートから伸ばし始めた髪は、母と同じように後頭部でお団子にした。
今日はご贔屓さんだけを招いたリニューアルオープン。十部屋のうち四部屋しか予約が入らなかった。けれど満室にならなかったことを嘆くより、お越しくださったお客様にご満足して帰っていただけるように、精一杯おもてなしをさせていただこう。と全スタッフに向けて挨拶をしたばかり。
春風は小さく「よし」と呟いた。
ロビーに行くと、駐車場から十歳に満たないだろう男の子が走ってくるのが見えた。後ろから母親らしき女性が追いかけてくる。
番頭の松原郡治が自動扉の前に立って、青陽荘の表玄関を開けた。
「いっらっしゃいませ」
と言っている郡治の横を、シュンと風が通り過ぎて行った。春風の前でも止まることなく、風が通る。キャーという声ともに。
突入した子供が足を緩めることなく、ロビーを走り回る。まさに突入という言葉がぴったりな勢い。
先に開けた郡治の気配りに、感心する。
あの勢いのままだと、自動扉が間に合わなかったかもしれない。
「すみません」
子供を追ってきた女性が足を止め、春風に頭を下げた。
「いいえ。元気なお坊ちゃまですね。走ってきてくださるほど、楽しみにしてくださっていたのでしょう」
女性は曖昧な笑みを浮かべながら、軽く頭を下げた。
もちろん、そうじゃないことは春風にもわかっている。きっとふだんから元気な子供なのだろうな、と想像がついた。
一応、春風なりの気遣いをしたつもりだった。
女性は子供を追いかけていく。
白いワゴンから、荷物を持った大人が三人歩いてきた。隣にそっと立った榮が、「青山様です」教えてくれた。
「青山様、本日はお越しくださいまして、ありがとうございます」
「春風ちゃん、久しぶりだねえ、大きくなって」
三人の中で一番年配の男性が声をかけてきた。春風がまだ小学生だった頃、先代女将の真似をして、お客様を出迎えていた。男性はその時のことを言っているのだろう。
「お陰様で、ぐんぐん成長できました」
春風がにこやかに返すと、青山様は「立派になって」とうんうん頷いた。
「お部屋の準備は整っております、白鳥の間へご案内させていただきます」
榮が荷物を預かろうとするのを「私は大丈夫だから」と青山様は断った。奥様の荷物を預かった榮と、たくさんの荷物を持っているもう一人の男性から、一部荷物を預かった伊東美愛と歩き出す。
「キーッ! キャー!」
ものすごい嬌声が聞こえた。と思った瞬間、ソファーの向こうから影が飛び出してきた。
春風はとっさに足を止める。
ロビーを走り回っていた子供とぶつかりそうになる。
「湊! 静かにして!」
追ってきた母親は、肩で息をつきながら、子供の手を取った。子供の名前は、湊というようだ。
ところが、その湊は母親の手を振り払って再び走り出そうとする。
「こぉら。捕まえた」
「つかまったあー。キー! ヤー」
荷物を置いた父親にひょいと抱き上げられた。湊は、もがきながら楽しそうにしている。
青山様と湊の父親がよく似た顔つきをしているので、息子一家との旅行のようだ。
母親が荷物を持ち上げるのを見てから、春風は歩き出した。
肝はひやりと冷えている。
(危なかったあ。ぶつかっていたら、怪我をさせていたかも)
自動扉の時といい、初仕事から医者が必要になる事態になっては、幸先が悪い。
(でも、子供のことは気をつけておこう。みんなに知らせておかないと)と思いながら、春風は青山様ご一家を、二階の白鳥の間にご案内した。
部屋の担当の榮と美愛を残し、一階に戻った春風を待ち構えていたのは、
「女将。生ビールの注文が間違って届きました」
「え!?」
織部郁の低い声が、不安をあおる。
慌てて厨房前のドリンク置き場に向かう。
中身が見える業務用のビールサーバーの中が、黄金色ではなく黒い。
「これ、黒ビール?」
「そのようです」
「注文したのは?」
納品書を確認する。注文通りの銘柄が明記されている。中身が違うなんて、疑うわけがない。
慌てて業者に連絡をすると、電話はすぐに繋がった。夜だったらお店を閉めていたかもしれない。夕方で良かった。
中身が違うことを伝えると、電話の相手は確認を取り、バイトの配達者が間違えたことを謝罪し、すぐに届けてくれることになった。
ほっと胸を撫で下ろす。
事務所に戻ると、
「女将、広瀬様がご到着されました」
黒木陽子からほわんとした声がかかった。陽子のふんわりした優しい声に、焦っていた気持ちが少し落ち着く。
登山スタイルで現れた広瀬様を、鸛の間にご案内する。
広瀬様は朝から隣の山に登って、野鳥を観察してきた、と嬉しそうに話してくれる。
「サウナ、できたんですよね。今日はそれも楽しみなんです。野鳥とサウナ、両方を一度に楽しめるなんて、最高です」
「サウナお好きなんですね」
「そうなんですよ。山に登るのは体力使いますからね。サウナで整うと、疲れが抜けてすっきり眠れるんですよ。いやー嬉しいなあ」
「来週から、一般のお客様に向けてサウナ営業を始めますので、もし気になることがありましたら、ご教授いただいてもよろしいですか」
「泊まり客以外も使用できるようになるんですね」
「はい。朝11時から夜6時までの営業予定ですが、お泊りのお客様は夜10時までご利用いただけます」
「わかりました。気になることがあったら、言いますね」
テンション高めの広瀬様をお部屋までご案内し、担当の陽子に任せて一階に下りた。
予約のお客様はあと二組。
お部屋での夕食の準備をして、お部屋へ挨拶に回って、と考えていると、受付の電話が鳴っていた。
五人いる仲居のうち、榮と美愛と陽子は接客、郁はドリンクの補充を行っている。
藤村琴葉はどこに行ったのだろうと思いながら、春風は受付に走って行った。
春風がPCのメールチェックをしている最中、受付にいた仲居頭の村治榮が、事務所に声をかけてきた。
「はい。すぐ行きます」
出入口の横の姿見で全身をチェックし、顔を近づけて上半身を確認。おかしなところはない。
後を継ぐと決めてショートから伸ばし始めた髪は、母と同じように後頭部でお団子にした。
今日はご贔屓さんだけを招いたリニューアルオープン。十部屋のうち四部屋しか予約が入らなかった。けれど満室にならなかったことを嘆くより、お越しくださったお客様にご満足して帰っていただけるように、精一杯おもてなしをさせていただこう。と全スタッフに向けて挨拶をしたばかり。
春風は小さく「よし」と呟いた。
ロビーに行くと、駐車場から十歳に満たないだろう男の子が走ってくるのが見えた。後ろから母親らしき女性が追いかけてくる。
番頭の松原郡治が自動扉の前に立って、青陽荘の表玄関を開けた。
「いっらっしゃいませ」
と言っている郡治の横を、シュンと風が通り過ぎて行った。春風の前でも止まることなく、風が通る。キャーという声ともに。
突入した子供が足を緩めることなく、ロビーを走り回る。まさに突入という言葉がぴったりな勢い。
先に開けた郡治の気配りに、感心する。
あの勢いのままだと、自動扉が間に合わなかったかもしれない。
「すみません」
子供を追ってきた女性が足を止め、春風に頭を下げた。
「いいえ。元気なお坊ちゃまですね。走ってきてくださるほど、楽しみにしてくださっていたのでしょう」
女性は曖昧な笑みを浮かべながら、軽く頭を下げた。
もちろん、そうじゃないことは春風にもわかっている。きっとふだんから元気な子供なのだろうな、と想像がついた。
一応、春風なりの気遣いをしたつもりだった。
女性は子供を追いかけていく。
白いワゴンから、荷物を持った大人が三人歩いてきた。隣にそっと立った榮が、「青山様です」教えてくれた。
「青山様、本日はお越しくださいまして、ありがとうございます」
「春風ちゃん、久しぶりだねえ、大きくなって」
三人の中で一番年配の男性が声をかけてきた。春風がまだ小学生だった頃、先代女将の真似をして、お客様を出迎えていた。男性はその時のことを言っているのだろう。
「お陰様で、ぐんぐん成長できました」
春風がにこやかに返すと、青山様は「立派になって」とうんうん頷いた。
「お部屋の準備は整っております、白鳥の間へご案内させていただきます」
榮が荷物を預かろうとするのを「私は大丈夫だから」と青山様は断った。奥様の荷物を預かった榮と、たくさんの荷物を持っているもう一人の男性から、一部荷物を預かった伊東美愛と歩き出す。
「キーッ! キャー!」
ものすごい嬌声が聞こえた。と思った瞬間、ソファーの向こうから影が飛び出してきた。
春風はとっさに足を止める。
ロビーを走り回っていた子供とぶつかりそうになる。
「湊! 静かにして!」
追ってきた母親は、肩で息をつきながら、子供の手を取った。子供の名前は、湊というようだ。
ところが、その湊は母親の手を振り払って再び走り出そうとする。
「こぉら。捕まえた」
「つかまったあー。キー! ヤー」
荷物を置いた父親にひょいと抱き上げられた。湊は、もがきながら楽しそうにしている。
青山様と湊の父親がよく似た顔つきをしているので、息子一家との旅行のようだ。
母親が荷物を持ち上げるのを見てから、春風は歩き出した。
肝はひやりと冷えている。
(危なかったあ。ぶつかっていたら、怪我をさせていたかも)
自動扉の時といい、初仕事から医者が必要になる事態になっては、幸先が悪い。
(でも、子供のことは気をつけておこう。みんなに知らせておかないと)と思いながら、春風は青山様ご一家を、二階の白鳥の間にご案内した。
部屋の担当の榮と美愛を残し、一階に戻った春風を待ち構えていたのは、
「女将。生ビールの注文が間違って届きました」
「え!?」
織部郁の低い声が、不安をあおる。
慌てて厨房前のドリンク置き場に向かう。
中身が見える業務用のビールサーバーの中が、黄金色ではなく黒い。
「これ、黒ビール?」
「そのようです」
「注文したのは?」
納品書を確認する。注文通りの銘柄が明記されている。中身が違うなんて、疑うわけがない。
慌てて業者に連絡をすると、電話はすぐに繋がった。夜だったらお店を閉めていたかもしれない。夕方で良かった。
中身が違うことを伝えると、電話の相手は確認を取り、バイトの配達者が間違えたことを謝罪し、すぐに届けてくれることになった。
ほっと胸を撫で下ろす。
事務所に戻ると、
「女将、広瀬様がご到着されました」
黒木陽子からほわんとした声がかかった。陽子のふんわりした優しい声に、焦っていた気持ちが少し落ち着く。
登山スタイルで現れた広瀬様を、鸛の間にご案内する。
広瀬様は朝から隣の山に登って、野鳥を観察してきた、と嬉しそうに話してくれる。
「サウナ、できたんですよね。今日はそれも楽しみなんです。野鳥とサウナ、両方を一度に楽しめるなんて、最高です」
「サウナお好きなんですね」
「そうなんですよ。山に登るのは体力使いますからね。サウナで整うと、疲れが抜けてすっきり眠れるんですよ。いやー嬉しいなあ」
「来週から、一般のお客様に向けてサウナ営業を始めますので、もし気になることがありましたら、ご教授いただいてもよろしいですか」
「泊まり客以外も使用できるようになるんですね」
「はい。朝11時から夜6時までの営業予定ですが、お泊りのお客様は夜10時までご利用いただけます」
「わかりました。気になることがあったら、言いますね」
テンション高めの広瀬様をお部屋までご案内し、担当の陽子に任せて一階に下りた。
予約のお客様はあと二組。
お部屋での夕食の準備をして、お部屋へ挨拶に回って、と考えていると、受付の電話が鳴っていた。
五人いる仲居のうち、榮と美愛と陽子は接客、郁はドリンクの補充を行っている。
藤村琴葉はどこに行ったのだろうと思いながら、春風は受付に走って行った。
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