3 / 46
一章 新米女将誕生
2.初めてのご挨拶
しおりを挟む
「失礼致します」
お客様のいらっしゃる主室に入る前室で、春風は正座をし、襖を開ける前に声をかけた。
「はい。どうぞ」
柔らかい男性の声で応答があるのを聞いてから、つま先を立て、引手に左手をかける。少しだけ開いてから、隙間に指を添わせて下ろし、襖を開いた。
体の半分ほど開けてから、手を替え、右手で襖を開く。
立てていたたつま先を下ろして正座に戻り、お客様にお辞儀。
燕の間の前田様は、ご夫婦でお越しになられた。前女将が急逝した頃ご予約を頂いていたお客様。半年間の休業の後、再営業のお知らせをお送りしたところ、すぐに連絡を頂いた。
青陽荘にとってはご贔屓さんだが、春風が女将になってから初めてのお客様への挨拶周り。
ありがたく感じると同時に、すべての所作が前女将と比べられると思うと、手や背中に汗が滲む。
緊張を悟られないように、滑らかに見えるように気をつけて、春風は入室した。
床の間にお尻を向けないようにして体を反転させ、開けた時と逆の動きで襖を閉める。
春風を後継ぎにと考えていた母から、幼い頃から所作を仕込まれてきた。半年間の女将修行に行ったときに褒められ、母に感謝した。
女将らしく見えているといいけれど、と思いながら、前田様に向き直った。
「前田様。本日はお越しくださいまして、ありがとうございます。改めまして、先代女将の後を継ぎました春風と申します。よろしくお願い致します」
「ご丁寧にどうも。女将、ああ、先代女将になるのか。残念だったね」
「生前は、大変お世話になりました」
前田様ご夫婦は、テーブルを挟んで座っている。お部屋での夕食をご堪能されている最中だった。浴衣をお召しになっておられるので、新しくしたサウナ付き大浴場を利用されたのだろう。
「先代の女将さんとは、十五年ほどのお付き合いになるかしらね。いろいろよくして頂いて。急なことで驚きました」
奥様が「お悔やみ申し上げます」と言いながら、香典をすっと差し出す。
「いえ。お客様から頂くわけには参りません」
春風が断ると、「気持ちだから、受け取ってください」と前田様が仰る。
父と香典は受け取らないことにしようと事前に決めていた。
「いえ。足をお運びくださっただけで、十分ですので、どうかお納めください」
頑なに拒否すると、前田様は残念そうな顔をしながらも、香典を引き下げてくれた。
「本日のお料理はいかがでしょうか」
「うん。美味しいねえ」
前田様は山女魚の塩焼きを口に入れて、満足そうに頷く。
今日の料理は12皿。胡麻豆腐・前菜のプレート・椀物は海老しんじょ・お造り五種盛り・山女魚の塩焼き・牛しゃぶ・酢の物・香の物・お吸い物・筍ご飯。水菓子はいちごとびわと、一口サイズのケーキ。
「後ほど、父がご挨拶に伺うと申しております。明日のお弁当の打合せに参りますと」
「楽しみだわ。山頂で頂く板長のお弁当は格別なのよ」
奥様の頬が上気しているのは、お酒のせいではない。奥様の前にあるのは白い煎茶碗で、飲んでいるのは日本茶。明日のハイキングのことを考えて、心が浮き立っておられるのだろう。
「内装や風呂が新しくなっていたから、正直なところ、寂しく感じたんだけど、料理は変わらずで、安心したよ」
前田様に向けられた笑みに、春風は胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます。伝えておきます」
「板長は、お元気ですか?」
「母が亡くなった直後は沈んでいましたが、包丁を握ると落ち着いたようで。元気になりました」
「仕事があってよかったよ。やるべきことがあると、前を向けるからね」
前田様の言葉に、確かにと春風は納得した。父の言う通りに青陽荘を閉めていたら、父は気落ちしたままだったかもしれない。
「娘さんが、後を継いでくださったんだもの。喜んでおられたでしょう?」
とは奥様。
「難しい顔をしておりました。わたしでは、まだまだ母の足元にも及びませんから、心配なようです」
父はあまり話さない。その分、目は口ほどに物を言う、を体現していた。
「おいくつになられるの?」
「先月30歳になりました」
「そう。先代の女将さんは、私より十歳ほどお若いと聞いていたから、まだ60歳になっていなかったわよね」
「母は57歳でした」
「キャリアが違うもの。差があるのは当たり前ですよ。焦らず、がんばってくださいな」
「精進致します。今度ともよろしくお願い申し上げます」
食事中に長居をしたことを詫びてから、春風が燕の間から出ると、
「女将!」
小さな、しかし鋭い声で呼ばれた。
待ち構えていたのは榮だった。ショートヘアの前髪を上げて、ワックスでしっかり固めているのに、前髪が一筋乱れて、富士額におりている。
「榮さん、どうしました?」
「白鳥の間にご案内した、青山様のお孫様の姿が見えないそうです」
「いつから?」
「きちんとしたお時間はわからないそうです。サウナをご利用後、先に上がったお孫様がお部屋におられないと、問い合わせがありまして」
「お部屋に隠れているとか」
「白鳥の間は青山様が隅々まで調べてくださいました。他の、お客様がお泊りになっていないお部屋はこちらで調べましたが、子供さんのお姿はなくて」
「手分けして探しましょう」
着物の裾がはだけない程度に足を速めて、春風は階段に向かった。
お客様のいらっしゃる主室に入る前室で、春風は正座をし、襖を開ける前に声をかけた。
「はい。どうぞ」
柔らかい男性の声で応答があるのを聞いてから、つま先を立て、引手に左手をかける。少しだけ開いてから、隙間に指を添わせて下ろし、襖を開いた。
体の半分ほど開けてから、手を替え、右手で襖を開く。
立てていたたつま先を下ろして正座に戻り、お客様にお辞儀。
燕の間の前田様は、ご夫婦でお越しになられた。前女将が急逝した頃ご予約を頂いていたお客様。半年間の休業の後、再営業のお知らせをお送りしたところ、すぐに連絡を頂いた。
青陽荘にとってはご贔屓さんだが、春風が女将になってから初めてのお客様への挨拶周り。
ありがたく感じると同時に、すべての所作が前女将と比べられると思うと、手や背中に汗が滲む。
緊張を悟られないように、滑らかに見えるように気をつけて、春風は入室した。
床の間にお尻を向けないようにして体を反転させ、開けた時と逆の動きで襖を閉める。
春風を後継ぎにと考えていた母から、幼い頃から所作を仕込まれてきた。半年間の女将修行に行ったときに褒められ、母に感謝した。
女将らしく見えているといいけれど、と思いながら、前田様に向き直った。
「前田様。本日はお越しくださいまして、ありがとうございます。改めまして、先代女将の後を継ぎました春風と申します。よろしくお願い致します」
「ご丁寧にどうも。女将、ああ、先代女将になるのか。残念だったね」
「生前は、大変お世話になりました」
前田様ご夫婦は、テーブルを挟んで座っている。お部屋での夕食をご堪能されている最中だった。浴衣をお召しになっておられるので、新しくしたサウナ付き大浴場を利用されたのだろう。
「先代の女将さんとは、十五年ほどのお付き合いになるかしらね。いろいろよくして頂いて。急なことで驚きました」
奥様が「お悔やみ申し上げます」と言いながら、香典をすっと差し出す。
「いえ。お客様から頂くわけには参りません」
春風が断ると、「気持ちだから、受け取ってください」と前田様が仰る。
父と香典は受け取らないことにしようと事前に決めていた。
「いえ。足をお運びくださっただけで、十分ですので、どうかお納めください」
頑なに拒否すると、前田様は残念そうな顔をしながらも、香典を引き下げてくれた。
「本日のお料理はいかがでしょうか」
「うん。美味しいねえ」
前田様は山女魚の塩焼きを口に入れて、満足そうに頷く。
今日の料理は12皿。胡麻豆腐・前菜のプレート・椀物は海老しんじょ・お造り五種盛り・山女魚の塩焼き・牛しゃぶ・酢の物・香の物・お吸い物・筍ご飯。水菓子はいちごとびわと、一口サイズのケーキ。
「後ほど、父がご挨拶に伺うと申しております。明日のお弁当の打合せに参りますと」
「楽しみだわ。山頂で頂く板長のお弁当は格別なのよ」
奥様の頬が上気しているのは、お酒のせいではない。奥様の前にあるのは白い煎茶碗で、飲んでいるのは日本茶。明日のハイキングのことを考えて、心が浮き立っておられるのだろう。
「内装や風呂が新しくなっていたから、正直なところ、寂しく感じたんだけど、料理は変わらずで、安心したよ」
前田様に向けられた笑みに、春風は胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます。伝えておきます」
「板長は、お元気ですか?」
「母が亡くなった直後は沈んでいましたが、包丁を握ると落ち着いたようで。元気になりました」
「仕事があってよかったよ。やるべきことがあると、前を向けるからね」
前田様の言葉に、確かにと春風は納得した。父の言う通りに青陽荘を閉めていたら、父は気落ちしたままだったかもしれない。
「娘さんが、後を継いでくださったんだもの。喜んでおられたでしょう?」
とは奥様。
「難しい顔をしておりました。わたしでは、まだまだ母の足元にも及びませんから、心配なようです」
父はあまり話さない。その分、目は口ほどに物を言う、を体現していた。
「おいくつになられるの?」
「先月30歳になりました」
「そう。先代の女将さんは、私より十歳ほどお若いと聞いていたから、まだ60歳になっていなかったわよね」
「母は57歳でした」
「キャリアが違うもの。差があるのは当たり前ですよ。焦らず、がんばってくださいな」
「精進致します。今度ともよろしくお願い申し上げます」
食事中に長居をしたことを詫びてから、春風が燕の間から出ると、
「女将!」
小さな、しかし鋭い声で呼ばれた。
待ち構えていたのは榮だった。ショートヘアの前髪を上げて、ワックスでしっかり固めているのに、前髪が一筋乱れて、富士額におりている。
「榮さん、どうしました?」
「白鳥の間にご案内した、青山様のお孫様の姿が見えないそうです」
「いつから?」
「きちんとしたお時間はわからないそうです。サウナをご利用後、先に上がったお孫様がお部屋におられないと、問い合わせがありまして」
「お部屋に隠れているとか」
「白鳥の間は青山様が隅々まで調べてくださいました。他の、お客様がお泊りになっていないお部屋はこちらで調べましたが、子供さんのお姿はなくて」
「手分けして探しましょう」
着物の裾がはだけない程度に足を速めて、春風は階段に向かった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
16
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる