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五章 来る者、去る者 前編
2.陽子の元旦那
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宿泊のお客様を全員お見送りし、サウナご利用のお客様がロビーでゆっくりしている午後3時頃のこと。
「女将、困ったお客様が……」
郁の低い声に不穏な雰囲気を感じ取った春風が受付に向かった。
「せやから、おるやろう。陽子。黒木か横澤か、どっちかの苗字で」
一人の男性が受付のカウンターに寄りかかり、両ひじをついていた。
美愛が困った顔で応対している。
「お客様、こちらへどうぞ。お話をお伺いいたします」
男性の態度にロビーがざわついている。少し横柄な態度は周囲から浮き、耳目を集めていた。
春風は男性を、事務所の一角に通した。ローテーブルを挟んで座り、麦茶を用意する。
「なにか不手際がございましたか?」
クレームの類だろうかと春風は考えていた。
「ちゃうねん。俺は陽子に会いに来ただけなんですよ。SNSで見つけましてな。ここで働いてるみたいやから、話しようと思って」
関西弁で話す彼は、弁解するように早口で言った。
「個人的な面会ですか? 失礼とは存じますが、ご関係を伺ってもよろしいですか」
「元夫です。ちょっと顔を見たいなと思って。美遥のことも心配やし」
「離婚されたご主人ですか。本人とは、連絡を取ってなかったのでしょうか」
「……」
間があった。チッと舌打ち。
「着拒されてるから、こうやって足運んでるんですよ。詳しい話しせんと、会わせてもらえへんのですか。ブラックですかここは」
脅かすように、声が大きくなる。
「あいにく、彼女は先日退職いたしました。ですので、もうここにはいないのです」
「……ほんまですか。それならそうと、はよ言いなはれや。ここは従業員の自由もないところなんかと、疑ってしまいましたわ。あはは」
口は笑っているが、目が笑っていない。
春風は恐怖を感じる。
「ほな、どこに行ったとか、わかりまへんわなあ」
「ご希望に沿えず、申し訳ございません」
春風が頭を下げると、睨むように見つめていた視線が外れた。
「邪魔しましたな。帰りますわ」
意外とあっさり引いてくれた。春風はほっと息を吐く。
冷えて震えている指先を、温めるように擦ってから、春風は受話器を取り上げた。
連絡を受けた陽子は、美遥とともに戻ってきた。
離れと寮に向かう奥のドアから事務所に入ってきた。息を切らせている。
「お帰りなさい」
「ご迷惑をおかけしました」
「お名前は伺ってないのですけど、ご本人がそう仰って‥‥‥」
「関西弁の、少し柄の悪い人ですよね。それなら間違いなく、元夫です」
陽子の声は震え、美遥と繋ぐ手に、力がこめられている。
美遥も陽子にしがみついている。
「誰か手を出されたりしていませんか」
「手を? それはないです。凄まれはしましたけど」
「ああ。女将、ご迷惑をおかけして、すみません。怖かったですよね」
「いえ。陽子さんは退職したと伝えたら、すぐに引いてくれましたから」
「嘘だと見抜かれていると思います。きっとまた来ます。もしかしたら今、物陰に隠れて玄関を見張っているかも」
怖いのか、陽子の瞳が不安そうに揺れる。
「またご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。急で申し訳ありませんが、退職させてください」
「は!? え‥‥‥どうして、そうなるんですか」
そこまで話が飛ぶとは思っておらず、春風は変な声を上げた。
「あの人、ストーカー気質なところがあるんです。離婚するまでの二年間、行くところ行くところつきまとって、あちこちに迷惑をかけました」
「うちで働いている間は、大丈夫だったんですよね」
「裁判所から、接近禁止命令が出たんです。その間に頭を冷やしてくれたと思っていました。やっぱり、性格って変わらないんでしょうね」
「SNSで陽子さんを見つけたと言っていました。忘れたつもりだったけど、再燃したのかもしれませんね。熱い想いみたいな」
陽子は悲しそうに首を横に振る。
「もう愛情はないと思います。ただの執着です。私たちのことを思うなら、姿を見せないで欲しいのに」
母娘は寄り添い合うと、「お世話になりました」と頭を下げた。
呆然とその背中を見送っていた春風は、しかし弾かれたように走り出した。
寮に向かう陽子と美遥を追いかける。
「待って!」
寮の扉前で二人は振り返った。
「少し話をしましょう。対処可能なら、方法を考えます。辞める前に、できることをしてみましょう」
一瞬目を丸くした陽子は、にこりと笑みを浮かべた。
「やはり親子ですね。春風さんと先代女将は」
「女将、困ったお客様が……」
郁の低い声に不穏な雰囲気を感じ取った春風が受付に向かった。
「せやから、おるやろう。陽子。黒木か横澤か、どっちかの苗字で」
一人の男性が受付のカウンターに寄りかかり、両ひじをついていた。
美愛が困った顔で応対している。
「お客様、こちらへどうぞ。お話をお伺いいたします」
男性の態度にロビーがざわついている。少し横柄な態度は周囲から浮き、耳目を集めていた。
春風は男性を、事務所の一角に通した。ローテーブルを挟んで座り、麦茶を用意する。
「なにか不手際がございましたか?」
クレームの類だろうかと春風は考えていた。
「ちゃうねん。俺は陽子に会いに来ただけなんですよ。SNSで見つけましてな。ここで働いてるみたいやから、話しようと思って」
関西弁で話す彼は、弁解するように早口で言った。
「個人的な面会ですか? 失礼とは存じますが、ご関係を伺ってもよろしいですか」
「元夫です。ちょっと顔を見たいなと思って。美遥のことも心配やし」
「離婚されたご主人ですか。本人とは、連絡を取ってなかったのでしょうか」
「……」
間があった。チッと舌打ち。
「着拒されてるから、こうやって足運んでるんですよ。詳しい話しせんと、会わせてもらえへんのですか。ブラックですかここは」
脅かすように、声が大きくなる。
「あいにく、彼女は先日退職いたしました。ですので、もうここにはいないのです」
「……ほんまですか。それならそうと、はよ言いなはれや。ここは従業員の自由もないところなんかと、疑ってしまいましたわ。あはは」
口は笑っているが、目が笑っていない。
春風は恐怖を感じる。
「ほな、どこに行ったとか、わかりまへんわなあ」
「ご希望に沿えず、申し訳ございません」
春風が頭を下げると、睨むように見つめていた視線が外れた。
「邪魔しましたな。帰りますわ」
意外とあっさり引いてくれた。春風はほっと息を吐く。
冷えて震えている指先を、温めるように擦ってから、春風は受話器を取り上げた。
連絡を受けた陽子は、美遥とともに戻ってきた。
離れと寮に向かう奥のドアから事務所に入ってきた。息を切らせている。
「お帰りなさい」
「ご迷惑をおかけしました」
「お名前は伺ってないのですけど、ご本人がそう仰って‥‥‥」
「関西弁の、少し柄の悪い人ですよね。それなら間違いなく、元夫です」
陽子の声は震え、美遥と繋ぐ手に、力がこめられている。
美遥も陽子にしがみついている。
「誰か手を出されたりしていませんか」
「手を? それはないです。凄まれはしましたけど」
「ああ。女将、ご迷惑をおかけして、すみません。怖かったですよね」
「いえ。陽子さんは退職したと伝えたら、すぐに引いてくれましたから」
「嘘だと見抜かれていると思います。きっとまた来ます。もしかしたら今、物陰に隠れて玄関を見張っているかも」
怖いのか、陽子の瞳が不安そうに揺れる。
「またご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。急で申し訳ありませんが、退職させてください」
「は!? え‥‥‥どうして、そうなるんですか」
そこまで話が飛ぶとは思っておらず、春風は変な声を上げた。
「あの人、ストーカー気質なところがあるんです。離婚するまでの二年間、行くところ行くところつきまとって、あちこちに迷惑をかけました」
「うちで働いている間は、大丈夫だったんですよね」
「裁判所から、接近禁止命令が出たんです。その間に頭を冷やしてくれたと思っていました。やっぱり、性格って変わらないんでしょうね」
「SNSで陽子さんを見つけたと言っていました。忘れたつもりだったけど、再燃したのかもしれませんね。熱い想いみたいな」
陽子は悲しそうに首を横に振る。
「もう愛情はないと思います。ただの執着です。私たちのことを思うなら、姿を見せないで欲しいのに」
母娘は寄り添い合うと、「お世話になりました」と頭を下げた。
呆然とその背中を見送っていた春風は、しかし弾かれたように走り出した。
寮に向かう陽子と美遥を追いかける。
「待って!」
寮の扉前で二人は振り返った。
「少し話をしましょう。対処可能なら、方法を考えます。辞める前に、できることをしてみましょう」
一瞬目を丸くした陽子は、にこりと笑みを浮かべた。
「やはり親子ですね。春風さんと先代女将は」
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