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五章 来る者、去る者 前編

5.怒れる陽子

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 襖がすっと開く。
 立ち上がろうとした横澤様を、
「こないでください」
 陽子が短い言葉で、鋭く制す。

 部屋に一歩踏み込んで、閉めた襖の前に正座した。

「聞いとったんかいな」
「女将に任せっきりというわけにはいきませんから。出てくるつもりはなかったけれど、このまま逃げっ放しというのも嫌になって。文句の一つでも言ってやろうと思ったの。まあ、一つじゃすまないけれど」

 横澤様を見やる陽子の視線に、恐怖も憎しみもない。でも、力強い意気込みが感じられた。

「あなたは本当に自分勝手ね。謝って、自分だけ楽になろうとしてる。あたしたちがこれからも苦しむことをわかっていない。どれだけ傷ついたか。どれだけ怖い思いをしたか、考えもしなかったでしょ。昔も今も」
「‥‥‥はい」

「裏がありそうと思ってた? なにも考えていないから、のこのこ来たんでしょう。本当に申し訳ないと思っていたら、浮かれてご馳走になんてならないわよ」
「‥‥‥すんません」

 おっとりした陽子からの鋭い舌鋒に春風が面食らっていると、目の前の横澤様も、目を見開いて瞬きを忘れていた。

「どれだけ誠意を込めた謝罪をされたって、許せないから。一生、消えない傷をつけたのよ。特に美遥に対して。私には、お互い様のところもあると思うからもういいけれど。美遥には、一生申し訳ない思いを抱えて、生きて。私も、そう思ってるんだから。簡単に楽になろうとしないで」

「美遥には、ほんまに申し訳ないと思ってる。あの子に手を上げずにこれたんは、陽子の必死に守る姿を見たからなんや。俺を怖がってるくせに、凄い形相で立ちはだかって、傷一つつけさせへんって圧を感じた。あの頃はそれが余計に癪に触ってイライラした。陽子のあの姿は今も覚えてる」

「なら、忘れないで。自分が起こした過去の行いから、逃げないで。あなたの振る舞いで、人生が悪い方に変わるほどの影響を受けた人がいたことを思い出して。そして、これからのあなたの人生に関わる人を大切にしてあげて。ご両親も、仕事に就いているのなら仕事先の人も」
「今、ビジホで働いてる」

「それならお客様も。あと――」
「あと?」

「もしかしたら、恋人や家族になるかもしれない人も」

「陽子‥‥‥」

 横澤様は、頬を張られたように、はっとしたような表情をした。

「あなたと私はもう終わりました。今後の人生に関わり合うことはもうないと思います。美遥に関してはまだわからないけれど。父親としてできることがあるかもしれないから。それも美遥が拒否すれば、縁も切れるわね。だから、間違えた行為を今後に活かして、人生を紡いでいってください。つらいでしょうけど、自分を追い込まないほどに、ね」

 横澤様は座椅子から降り、畳に手をついて頭を下げた。
 陽子への謝罪と、彼女の優しさに感謝したのだと、春風には感じられた。

 リイチと目が合い、互いに微笑み合う。

 様子を見て頭を上げた横澤様に、陽子が「一つ質問があるのだけれど」と訊ねた。
 厳しかった口調は、元のふんわりとした調子に戻っている。目に込められていた威圧感も緩んだ。

「私が写ってたっていうSNSは?」
「ああ、それなら」

 横澤様がスマホを操作する。見せてくれた画面を全員で覗き込んだ。
 
 お客様と映るリイチの後ろに、小さな陽子の姿。

「僕のせいじゃん。陽子さん、ごめんなさい。SNSにはあげないでってお願いしたのに」

「写り込んだ私が悪かったの。リイチさんイケメンだから、引手あまたなの知ってたのに。うまく隠れなきゃいけなかったわね」

「これ、周知した方がいいですよね。勝手にアップしないように。もしくは、ぼかしなりスタンプとかで顔を隠すなり、加工してもらうように」

 春風は危機感を覚えた。
 女将の春風が表に出るのも宣伝の一つだが、従業員のプライバシーは守らないといけない。
 今回のようなトラブルに繋がってはいけないから。

「張り紙と、ホームページにも載せましょう。あとお部屋の案内書に注意事項として明記して――」

 対策を練ることにし、教えてくれた横澤様にお礼を伝えた。

 話し合いは終了し、春風たち三人は朱鷺トキの間を辞した。

「これで、辞めなくて大丈夫ですよね。陽子さん!?」
 振り返ると、陽子が腰を抜かしたように廊下に座り込んでいた。
 
「どうしたの? 大丈夫ですか?」

 春風とリイチは駆け寄って陽子を支える。

「少し‥‥‥疲れちゃって。足が‥‥‥」
「怖かったですよね。陽子さん、めちゃめちゃがんばってましたよ」

 暴力を受けた恐怖心や緊張を追いやって横澤様と対峙したせいだ。気を張っている間はなんとかなっていても、終わったとたんに気が抜けて、足腰が立たなくなったのだろう。

「今日はもう上がってください。明日はお休みにしておいて良かったです。ゆっくり休んでください」
「はい」

 陽子を立ち上がらせて、支えながらゆっくりと寮に向かう。

「女将、ありがとうございました。先代に助けられて、春風さんにも助けられました。従業員は家族だって。うふふ、嬉しかったです」

「あー、それは‥‥‥母がよく言っていたのを思い出したんです。陽子さんを守らなきゃって思ったら、ふと蘇って。どうして、忘れてたんでしょうかね。忘れないでいたら、琴葉さんを失わずにすんだかもしれないのに」

「春風さん、とてもかっこよかったです。お客様に対する丁寧な姿勢は崩さないながらも、従業員も守ろうとしてくれた。なかなかできないですよ。ご立派でした」

「ありがとうございます。必死でしたから。不本意な形で失っちゃいけないって。結果的にうまくいきましたけど、横澤様が反省しておられたお陰です。逆上されてもおかしくなかったと思います」

「あの人があんなにおとなしく人の話を聞くなんて、驚きました。口答えするなバンって感じでしたから」

「とてもつらかったと思います。でも、可能なら忘れられるといいなとあたしも思います。時間がかかるでしょうけど。美遥ちゃんも」

「美遥の男性恐怖症は、実はほぼ治っているんです」

「そうだったんですね。良かった」

「青陽荘でいろんな方を見たお陰なのかもしれません。板長のお顔は少し怖いけど、とても繊細なお料理をお作りになるし、笑うとかわいらしくて。郡治さんはいつも笑顔で、誰に対しても優しい。榊さんはクールだけど、子供と頭の高さを同じにして会話をしてくれます。竜太くんはやんちゃですけど、裏表のない飾らない人で、子供にはわかりやすいみたいです。青田さんは頼れるおじさんで、リイチさんはクラスメイトみたいって、言ってましたね」

「僕、超若いね」
「はいはい」

 喜ぶリイチを春風が適当にあしらうと、陽子はふふっと笑った。

「私と美遥だけの生活だったら、直ってなかったかもしれません。先代女将に拾ってもらわなかったらどんな人生になっていたか。出会いって大切ですね」

「ママ」

 部屋につくと、不安そうな顔をした美遥が駆け寄ってきた。陽子にしがみつく。

「もう大丈夫よ。女将が話をしてくれたから」
「あの人、もう来ない?」
「ええ。もう来ないから」

 美遥の頭を優しく撫でる。
 陽子の体から離れた美遥は、明るい笑顔を春風に見せた。

「女将さん、ママを守ってくれて、ありがとうございました」

「なにかあったら、いつでも相談して。あたしはママも美遥ちゃんも、家族だって思ってるから」
「うん!」
 美遥はにこっと笑って、力強く頷いた。
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