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第二部
26 体調不良
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その夜、ディーノは眠れなかった。
身体は眠ろうとするのに、頭がいろいろと考えてしまい、うとうとしかけてもすぐにはっと目が覚めてしまう。
睡眠の邪魔をするのは、かつての暮らしが脳裏に甦るせいだった。
狭くて暗い部屋に押し込まれ、どこかから連れて来られた子供たちと折り重なるように身をよせあった幼少時代。
オルッシーニ男爵に買われ、休暇も給金も無くただ働きの毎日。手はあかぎれとマメだらけ。風邪をひこうが熱が出ようが、医者に診せてはもらえない。
少しのミスで怒鳴られ殴られ、使用人の中にはあからさまに無視をする者もいた。
階級の差はあれど、人として接してもらえている今、あの頃を耐えていた自分が不憫でならなかった。
師匠やピエールやアイゼンシュタット公爵に、自分が奴隷から逃げ出した身分であることがばれたら、またあの生活に逆戻りさせられてしまうのだろうか。
嫌だ。絶対に嫌だ。もう二度とあんな生活には戻りたくない。
どうしたらいい? どうしたら男爵の手から逃れられる?
白々と夜が明けるのを見つめながら、震える二の腕を擦った。やたらと全身が寒かった。
*
朝、熱がでた。智恵熱なのか風邪を引いたのかわからない。
身体を起こすことができず、食欲もない。しかし咳はなく、喉の痛みもなかった。
心配したピエールが医者を呼んでくれた。解熱剤と睡眠薬を出してもらい、薬が効いている間だけは恐怖から解放されたが、目が覚めれば再び考え込んでしまう。
結局三日間寝込んでしまい、熱のせいで身体が、オルッシーニ男爵からの圧力で精神が疲弊しきってしまった状態で、仕事の日を迎えた。
その日、ロドヴィーゴとディーノの二人には音楽教師の仕事が入っていた。師は公爵と数人の貴族たちに、ディーノはバルドリーニ伯爵夫人の屋敷で。
ピエールは体調を慮り、キャンセルも可能だと助言したが、ディーノは振りきるように公爵の屋敷を出た。
ディーノは三日間、リュートに触れていない。
教える曲は希望があったため決まっていたが、勉強不足であることはわかっていた。それでも仕事に行くことにしたのは、もうどうにでもなれ、という自棄のようなものがあったからだった。
男爵は一応おとなしく帰ったようだが、何かを仕掛けてこないとも限らない。あのハンターのような眸を思い出すだけで、背筋が凍りついた。不安で不安で、しかたがなかった。
師匠に相談すればいいのかもしれない。助けを請えば手を貸してもらえるかもしれない。そのためには秘密にしてきたことを打ち明けねばならなかった。その覚悟がまだできないでいた。
『潔癖な貴族も多いからなあ』
男爵の言葉が脳裏に蘇る。真実なのかわからない。不安に陥れるために放った嘘かもしれないし、それが貴族の本音なのかもしれない。
貴族たちとの付き合いがまだほんの数年のディーノには判断のしようがなかった。付き合いというほど親交が深いわけでもない。
真実であれば奴隷解放は政治運動が絡んだ、ただのポーズだということになる。つまりアイゼンシュタット公爵たちを信頼できないということだ。
ディーノ自身は公爵の運動を直接見たことはないので、具体的にどういう運動をしているのかは全く知らなかったが、少なくとも公爵の屋敷には奴隷はいないように見えた。使用人はいても皆きちんとした清潔な服を着ているし、自分がしていたような劣悪な環境で働いているようには思えなかった。
しかし、それもどこまで信用していいのか。
屋敷のすみずみまでディーノが立ち入られるわけではないから、会った事のない使用人もいるだろう。挨拶をしてくれる人は大勢いるけれど、お客として扱われているのだから、笑顔の裏の本音までは見えてこない。
御者台で馬を操っている使用人の背中を見つめていると、声をかけたくなった。背中が丸くなりかけた御者は、中年という年齢を超えているが老人というには失礼なような、けれどもう十年もしないうちに引退が控えているような年齢と思われた。
勤めて長いのか。使用人から見た主はどうなのか。訊いてみたかったが、言い出せなかった。訊いたところで本音など漏らすわけがないこともわかるほどに、大人になっていた。無邪気な子供のままでいられたら、深く考える前に質問ができただろうし、建前の返答も鵜呑みにしただろう。
それができればもっと楽になれるのに。わかっていながらできない自分がもどかしい。
気鬱な状態でバルドリーニ伯爵邸に到着し、礼だけを述べて馬車を降りた。
彼は「行ってらっしゃいませ」と深々と頭を下げて、見送ってくれた。穏やかそうな顔の内に、不満を抱えているようには見えなかった。
身体は眠ろうとするのに、頭がいろいろと考えてしまい、うとうとしかけてもすぐにはっと目が覚めてしまう。
睡眠の邪魔をするのは、かつての暮らしが脳裏に甦るせいだった。
狭くて暗い部屋に押し込まれ、どこかから連れて来られた子供たちと折り重なるように身をよせあった幼少時代。
オルッシーニ男爵に買われ、休暇も給金も無くただ働きの毎日。手はあかぎれとマメだらけ。風邪をひこうが熱が出ようが、医者に診せてはもらえない。
少しのミスで怒鳴られ殴られ、使用人の中にはあからさまに無視をする者もいた。
階級の差はあれど、人として接してもらえている今、あの頃を耐えていた自分が不憫でならなかった。
師匠やピエールやアイゼンシュタット公爵に、自分が奴隷から逃げ出した身分であることがばれたら、またあの生活に逆戻りさせられてしまうのだろうか。
嫌だ。絶対に嫌だ。もう二度とあんな生活には戻りたくない。
どうしたらいい? どうしたら男爵の手から逃れられる?
白々と夜が明けるのを見つめながら、震える二の腕を擦った。やたらと全身が寒かった。
*
朝、熱がでた。智恵熱なのか風邪を引いたのかわからない。
身体を起こすことができず、食欲もない。しかし咳はなく、喉の痛みもなかった。
心配したピエールが医者を呼んでくれた。解熱剤と睡眠薬を出してもらい、薬が効いている間だけは恐怖から解放されたが、目が覚めれば再び考え込んでしまう。
結局三日間寝込んでしまい、熱のせいで身体が、オルッシーニ男爵からの圧力で精神が疲弊しきってしまった状態で、仕事の日を迎えた。
その日、ロドヴィーゴとディーノの二人には音楽教師の仕事が入っていた。師は公爵と数人の貴族たちに、ディーノはバルドリーニ伯爵夫人の屋敷で。
ピエールは体調を慮り、キャンセルも可能だと助言したが、ディーノは振りきるように公爵の屋敷を出た。
ディーノは三日間、リュートに触れていない。
教える曲は希望があったため決まっていたが、勉強不足であることはわかっていた。それでも仕事に行くことにしたのは、もうどうにでもなれ、という自棄のようなものがあったからだった。
男爵は一応おとなしく帰ったようだが、何かを仕掛けてこないとも限らない。あのハンターのような眸を思い出すだけで、背筋が凍りついた。不安で不安で、しかたがなかった。
師匠に相談すればいいのかもしれない。助けを請えば手を貸してもらえるかもしれない。そのためには秘密にしてきたことを打ち明けねばならなかった。その覚悟がまだできないでいた。
『潔癖な貴族も多いからなあ』
男爵の言葉が脳裏に蘇る。真実なのかわからない。不安に陥れるために放った嘘かもしれないし、それが貴族の本音なのかもしれない。
貴族たちとの付き合いがまだほんの数年のディーノには判断のしようがなかった。付き合いというほど親交が深いわけでもない。
真実であれば奴隷解放は政治運動が絡んだ、ただのポーズだということになる。つまりアイゼンシュタット公爵たちを信頼できないということだ。
ディーノ自身は公爵の運動を直接見たことはないので、具体的にどういう運動をしているのかは全く知らなかったが、少なくとも公爵の屋敷には奴隷はいないように見えた。使用人はいても皆きちんとした清潔な服を着ているし、自分がしていたような劣悪な環境で働いているようには思えなかった。
しかし、それもどこまで信用していいのか。
屋敷のすみずみまでディーノが立ち入られるわけではないから、会った事のない使用人もいるだろう。挨拶をしてくれる人は大勢いるけれど、お客として扱われているのだから、笑顔の裏の本音までは見えてこない。
御者台で馬を操っている使用人の背中を見つめていると、声をかけたくなった。背中が丸くなりかけた御者は、中年という年齢を超えているが老人というには失礼なような、けれどもう十年もしないうちに引退が控えているような年齢と思われた。
勤めて長いのか。使用人から見た主はどうなのか。訊いてみたかったが、言い出せなかった。訊いたところで本音など漏らすわけがないこともわかるほどに、大人になっていた。無邪気な子供のままでいられたら、深く考える前に質問ができただろうし、建前の返答も鵜呑みにしただろう。
それができればもっと楽になれるのに。わかっていながらできない自分がもどかしい。
気鬱な状態でバルドリーニ伯爵邸に到着し、礼だけを述べて馬車を降りた。
彼は「行ってらっしゃいませ」と深々と頭を下げて、見送ってくれた。穏やかそうな顔の内に、不満を抱えているようには見えなかった。
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