古民家ベーカリー&カフェ とまり木 ~美味しいパンとやすらぎを~ 〈何気ない暮らしの景色賞〉受賞

衿乃 光希

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四章 田舎の人の距離間

2. 市川さん

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「ありがとうございました」
 パンの袋詰めのお手伝いをして、お客さんを見送る。

「ありがとう」と言ってもらえると、とても嬉しいんだと知った。
 私は買い物や飲食店でお礼を言わない。恥ずかしいと思っていた。お金を払ってるんだから、それでいいじゃんとって。

 自分がレジをする立場になってみて、大変さが少しわかった。
 立ちっぱなしだし、同じ作業がずっと続く。食べ物を運ぶときは粗相をしないように気をつけないといけない。
 一言お礼の言葉をもらえるだけで、嬉しくなって、疲れが癒される。そんな効果があるなんて思いもしなかった。
 これから買い物をするときは、お礼を言おうと思った。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 来店したお婆さんを見て、見覚えのある顔にあっ、と声を上げそうになった。今朝、沙耶さんに食パンの取り置きを頼んでいた人だった。

「市川さん、ですね」
「覚えてくださったの? 嬉しいわ」
 市川さんはぱっと華やかな笑顔を浮かべた。

 注文を受けた商品はレジの後ろの棚に置いていると、今朝教えてもらった。
「食パン一本ですね。お待ちください」
 今日の注文は市川さんだけだから、すぐに見つかった。

「カットはしなくても大丈夫ですか」
 袋にはカットをしていない食パンが、一本まるっと入っていた。

「ええ。このままでくださいな。好きな大きさに切って戴くのが好きなのよ。生食が特に美味しくて。ふわっとしているのに、もちっと感もあってね。焼くとさくさくして軽い触感でいくらでも食べられそうなのよ。もうこちらの食パンしか食べられなくなっちゃって」
 うふふと市井さんは可愛らしく微笑む。

「わかります! 店長が作るパン、美味しすぎですよね」
 自分が大好きなものを好きと言う仲間が見つかり、嬉しくて思わずテンションが上がる。市井さんはお祖母ちゃんぐらいの年齢だけど、親近感が湧いた。

「あなたもファンなのね。あら、今朝沙耶さんと一緒にいた方かしら?」
「はい。沙耶さんのお宅に住まわせてもらっています。鈴原依織といいます」
「ご近所さんね。市川竹子といいます。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」

 自然と名乗って、挨拶を交わした。これから道で市井さんと出会ったら、必ず挨拶をしようと決めた。
 余所から来た私を警戒する人がいるかもしれない。けれど、挨拶をすることで覚えてもらって、同じ地域の住人だとわかってもらえるのだろう。それがここに住む、ということなのかなと、漠然と考えた。

 夕方の休憩を終えて、閉店まで一時間ほどとなった頃、市川さんが再び来店した。
「お仕事中にごめんなさいね。今日、筑前煮を作ったのだけど、作りすぎちゃって。良かったらもらってくださらない?」
 差し出された紙袋の中には、タッパーが見えた。

「え、でも」
 受け取っていいのか、判断がつかなくて迷ってしまう。
「今日あなたとお知り合いになれたじゃない。せっかくだからと思って」

 顔を上げると、テーブルの掃除をしていた沙耶さんが、「市川さん、こんにちは」とこっちに来てくれた。事情を話すと、
「わあ、ありがとうございます。いただいていいんですか」
 沙耶さんはにっこり笑顔を見せた。

「ありがとう」
 と帰っていく市川さんに、私たちも「ありがとうございます」と声をかけた。

「沙耶さん、こういう場合は受け取っていいんですか」
「差し入れくれる人たまにいるのよ。店長に伝えて、分けられそうならみんなで分けてるの。これはどうだろうね。とりあえず冷蔵庫に入れておいて」
「わかりました」

 休憩室には小さな冷蔵庫がある。
 キッチンで店長に伝えてから、冷蔵庫に入れておく。

 閉店後、蓋を開けてみるとけっこうな量があったので、休憩室で別のタッパーに入れ替えて、それぞれが持って帰った。

 この日の夕食は、筑前煮、ナスの煮浸し、出し巻き卵、お味噌汁になった。
 市川さんの筑前煮は、どの具材にもこっくりと味が染み込み、とても美味しくて、ご飯が進んだ。


 次回⇒3.歓送迎会
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