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最期の贈り物――橘 修(享年55歳)

5. 修 2の続き

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塀沿いに腰を屈めてポストまで近づき、伸次がポストの扉を開いた瞬間に新聞を掴んだ。
つもりだったが、おかしなことが起きた。分厚い新聞を掴んだ感触がない。右手の指先はたしかに新聞を掴んだはずなのに、素通りして指先が触れ合っている。しかし、どういうことだろう。触れ合っているはずの指の感触がない。
茫然としているそばから、新聞が抜き去られた。
立ち上がり伸次の顔を見つめる。突然現れた顔に驚くかと思いきや、伸次は無反応だった。眠そうな顔で新聞を少し見たあと、踵を返した。
これは無断外泊をした俺に対する罰か何かか。
俺をこらしめるために無視しようと二人で示し合せたのか。
事情も聞かないで酷い仕打ちをするではないか。俺だって好きで連絡をしなかったわけじゃない。できなかったのだから仕方がないじゃないか。
後を追って声を掛けたが、伸次は立ち止まる素振りも見せない。扉を引いて中に消える。
閉まりかけた扉に手をかけようとして、さっきと同じ現象が起こった。取っ手を掴んで引こうとしたが掴めない。何度もやっても透り抜けてしまう。
俺に何が起こっているのだ? まるで透明人間じゃないか。なぜ、こんな不思議な現象が俺の身に起こっているのだ?
手をこまねいている間に、扉は堅く閉ざされてしまった。唖然として扉をじっと見つめていて、ふと思った。
取っ手が透り抜けるのなら、扉だって抜けられるのではないか。
試しに右手を突き出してみる。何にも当たることもなく、すんなりと扉の向こうに右手首から先が消えた。
腹を決め、トンネルのときのようにゆっくりと歩いてみると、予想通り、扉を開けることなく中に入ることができた。
出勤前と何も変わっていない。ただ一つ伸次の靴が転がっていることを除いては。
やれやれ、成人したというのに、脱いだ靴を揃えておくこともできないのか。一人っ子だから甘やかして育ててしまったな。
溜め息を洩らしながら、伸次の靴を揃えようとしたけれど、やはり掴めなかった。
自分の靴にも触れないのだろうか。革靴を見下ろし手を伸ばしてみたが、やはり触れている感触はなかった。けれど、不思議なことに靴を脱ぐことはできた。揃えることができないから、仕方なくそのままにして廊下に上がる。
居間に向かうとマグカップを片手にパジャマ姿の伸次が新聞を読んでいた。見ているのはテレビ欄だから読んでいるとは言いがたいが。
マグカップから湯気があがっているのだが、匂いがしない。貴子が買い置きしているのはコーヒーと紅茶とスープだから、どれも入れたてなら匂いがしそうなものだが。
そういえば、腹が減った感覚がないな。昨日の昼を食べてから何も口にしていないはずなのに。
テレビ台の上の時計を見ると八時を過ぎていた。このままでは会社に遅刻してしまう。
貴子はどうしたのだろう。いつもなら七時には起きているはずなのに。心配しすぎて体調を悪くしてしまったのだろうか。
今日は昼から出勤することにして、貴子の様子を見てこよう。
二階へ上がり、寝室を覗くと、貴子はベッドで横になっていた。
名前を呼んでも反応がない。
寝顔は穏やかなものだった。
そっとしておいてやろうと一階に戻ると、伸次がでかける準備をしていた。珍しくスーツを着ている。
居間を出ようとした伸次に、馬子にも衣装だな、と声をかけたが声は届かなかったのか、反応はなかった。無視されているにしては、伸次の様子はあまりにも自然だった。
その伸次が居間と繋がった和室に目を向けた。
和室は俺が晩酌をするときに愛用していたちゃぶ台があるだけで、それ以外の家具は置いていない。
気になって、俺も伸次の横から覗いてみた。
そして言葉を失った。
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