【完結】想いはピアノの調べに乗せて

第二話 遠野眞子 ～初期衝動～

ピアノ

　平日、朝の通勤通学の時間帯が過ぎると、人通りは少々落ち着く。
　忙しなかった足取りがのんびりとしたものに、スーツからラフな服装に変わる。

　近くのショッピングモールにでも向かうのか、幼い子供を連れた女性たちが待ち合わせをし、旅行者らしき人たちがロッカーにキャリーバッグを入れ、身軽になって私の前を歩いていく。

　改札から出てきたショートカットの女性が、私に目を止めた。
　黒のパンツスーツに低めのヒールのパンプス。営業職に就いているのだろうか。
　私を見つめる瞳は、はじめは動揺していたのか小さく揺れていたのが、徐々に鋭さを帯びていった。

　なぜだろうか。ピアノに嫌な思い出でもあるのだろうか。
　睨まれる覚えは私にはない。この場所に六年いるが、女性を見かけたのはおそらく初めてだ。
　一分ほどだろうか立ち止まっていた彼女がふいと視線をそらし、早足で歩いて行った。

　女性が戻ってきたのはそれから二時間ほど後だった。
　柱の天井は一二時半を差そうとしている。

　再び私に目を止める。足は止まらない。
　このまま歩き去って改札に向かうのだろう。
　違った。

　一度は通り過ぎたものの、彼女は戻ってきた。
　怒りの色が見える瞳で私を覗き込む。
　艶やかな私のボディに見惚れているわけでも、写り込む自身の姿に見惚れているわけでもないはずだ。
　視線がボディから鍵盤に移り、ポーンとシの音が鳴った。
　それを境に怒りの色がゆっくりと失われ、代わりに慈愛の色が浮かんでくる。
　噛み締めていた顎から力が抜け、口角が上がる。

　彼女はピアノが嫌いなのではない。むしろ好きなのだ。
　ポーンポーンと鍵盤を押さえるごとに、彼女の中に楽しいという感情が浮かび上がってくる。
　眉間に寄っていた皺がなくなり、明るい表情になっていく。

　もっと私に触れて欲しい。
　あなたの中に潜む葛藤、不安、怖れを吐き出して欲しい。
　あなたの心が和らぐお手伝いを、ぜひとも私にさせてもらいたい。

　ほら、イスに座って。
　鍵盤に指を乗せて。
　曲はなんだっていい。あなたの心の中にある思いを音符に乗せて。