【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希

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第二話 遠野眞子 ~初期衝動~

きっかけ

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 わたしがピアノを始めるきっかけになったのは、二歳上の従姉、優美お姉ちゃんのピアノの発表会だった。
 今でもよく覚えている。六歳の誕生日当日の一月十九日だった。

 わたしはその日を不機嫌で迎えた。
 今年もお友達を呼んで誕生日会をするものだと思っていた。
 卒園前の最後の誕生日会になるはずだった。
 小学校の学区が違うお友達もいるのに、前日も全員の日程が合わなかった。
 いい加減にしなさいと怒られるほどずっとすねていた。

 ピアノの発表会なんて行かないとだだをこねたところで、一人で留守番ができるわけもなく、用意された服に嫌々袖を通した。

 その服は小学校の入学式用に買ってもらったばかりのワンピースとジャケットのセットアップで、早く着たいと思っていたわたしは、着替えた地点で半分くらい機嫌は直っていた。
 だけどもあんなに怒っていた手前、ばつが悪くて不機嫌を装って電車に乗った。

 コンサートホールで従姉家族と祖父母と待ち合わせた。
 今日出演する優美お姉ちゃんは裾がふんわりと広がったピンクのドレスを着ていて、アニメのヒロインみたいでとても可愛かった。

 ホールでは天井の高さに圧倒され、子供の大きな声が全体に響くさまに驚き。
 不機嫌を装っていたことをすっかり忘れて、非日常にすっかり興奮した。

 発表会が始まると、ステージに出てくる同世代の子供たちが着ているいろいろなドレスに心惹かれた。
 裾が膨らんでレースがついているタイプ、ミニスカートに長いチュールがついているタイプ、腰に大きなリボンがついているタイプ、艶々の光沢を放つシンプルなタイプ。
 自分が着ているワンピースタイプの服の子もいたけれど、それらにはあまり興味を惹かれなかった。
 ドレスが出てくると、ドキドキした。
 どれもこれもとてもステキで、食い入るようにステージを見つめた。

 このわたしの姿をピアノに興味を示したと両親は勘違いした。

 発表会が終わってみんなでランチをしているとき、わたしはピアノを習いたいと言った。
 みんなが着ているようなドレスを着たかったからだ。
 日常でドレスを着られることはほぼない。
 でもピアノの発表会に出れば、ドレスを着られる。そう思ったからだった。

 そして勘違いをした両親によって、わりとあっさりと許可が下りた。
 ランチが終わってさっそく楽器屋さんに行ってピアノの購入を検討してくれた。
 電子じゃない、新品のアコースティックピアノ。
 防音対策を教えてもらい、後日ほかの楽器屋さんにも行って検討を重ねてついに購入をしてくれた。
 発表会から一カ月ほどで我が家にアップライトピアノがやってきて、春から一駅隣の山野ピアノ教室に通った。

 当然ながら、練習中にドレスを着るわけがない。
 それでもいつか着るんだという思いがモチベーションのアップに繋がり、教室に通うのも家での練習も苦にならなかった。

 一年後、わたしはついに念願の夢を叶えた。

 出演を申し込んだ三か月前から休みの度にたくさんのお店で試着をして写真を撮ってもらい、気に入ったものわたしに似合うものや色を検討し、これというドレスに決めた。
 靴も合わせて買ってもらい、毎日眺めてその日を心待ちにしていた。

 当日は早起きして、早く着たいと母にせがみ、汚れるから出かける直前までダメと言われ、練習したらと言われて一回だけ弾いて、その後はだらだらとテレビを見て過ごし、ようやく時間になった。

 袖なし白ベースのワンピースの胸元に、淡い黄色とピンクの花がアップリケされていて、スカートは淡い虹色のチュールがついていた。白のタイツを履いて、靴はキラキラ素材でシルバーのメリージェーン。

 髪は母に結ってもらった。後頭部の中央の辺りでお団子にして、白のリボンをつけてもらった。

 寒いのでコートを着ないといけないのが残念だった。
 気分はお姫様だったから、道行く人々に見てもらいたかった。

 会場は去年と同じコンサートホールだった。
 観る側から弾く側になる。
 緊張しそうなものだけど、心境に変化はなかった。

 出番が三番目だったから、開演時間の三十分前には楽屋に来てくださいと山野先生から言われていて、母に連れられて楽屋に行った。
 先生に挨拶をして、ドレスを褒められて上機嫌になって、他の出演者の衣装を観察して、スタッフさんに案内されて舞台袖に用意されたパイプイスに座り、順番を待った。

 一人目の演奏が終わって、イスをひとつずれる。
 二人目の演奏が終わる。

「遠野眞子さん、こちらへ」
 スタッフさんに呼ばれて立ち上がり、ステージの脇に向かう。
 舞台袖に戻ってくる演奏者とすれ違う。

「三番 遠野眞子さん。ブルグミュラー二五の練習曲より第十番『やさしい花』」

 司会のお姉さんの声が響き渡る。スタッフさんに「どうぞ」と言われ、ステージに進む。

 教室で教わったとおり、ピアノの近くまで行って、手を揃え、頭を下げる。
 天井からの眩い光に照らされるいっぱいの客席。
 わたしはなにも考えずイスに座り、鍵盤に指を乗せた。

 曲は頭に入っている。楽譜はいらない。
 だってみんな暗譜しているのだから、わたしだっていらない。
 すぐに覚えられたし大丈夫。

 練習と変わらず弾けると思っていた。
 頭に入っていた、はずだった。途中でわからなくなった。
 指が止まる。あれ、次なんだっけ。どんなメロディだったっけ。
 鍵盤に指を乗せたまま、わたしは固まった。
 思い出そうと焦れば焦るほど、思い出せなくなる。
 少し戻って弾き直そう。
 そう思うのだけど、どこまで弾いたのかもわからなくなった。

 客席がざわつきはじめる。
 どうしたの? 忘れっちゃったんじゃない? 

 はっきり聞こえたわけじゃないけど、そんなことを言われているんだろうと想像がついた。

 どうしよう。もう止めちゃおうか。途中だけど帰っちゃおうか。

 初めてのステージなのに。お気に入りのドレスを着ているのに。
 買ってくれた両親もそこで聴いているのに。悔しい。このまま帰るのは悔しい。嫌だ。

 最後まで弾きたい思いが溢れた。
 思いと同時に音符が飛び出してきた。
 わたしは正解なのかわからないまま、それを弾いた。

 なんとか弾き終え、走って引っ込みたい気持ちを抑えて頭を下げ、早足で舞台袖に向かった。

 恥ずかしかった。
 ドレスを着たい一心で発表会になんて出てしまった。
 大したことないと高をくくって、大きなミスをやらかした。
 あんなことするの、きっとわたしぐらいだ。

 舞台袖に戻ると、走って廊下に飛び出した。
 途中で山野先生が駆け寄ろうとするのが見えたけど、逃げるようにトイレに飛び込んだ。
 一人にして欲しかった。
 慰めも叱責も同情もされたくなかった。そっとしておいて欲しかった。

 便座に腰掛け、わんわん声を上げて泣いた。
 ドレスを汚してはいけないと、トイレットペーパーを何十にも巻いて顔を覆った。

 五分ほど泣いて、疲れて、心は落ちこんでいたけれど、涙は落ち着いた。

 個室の扉がノックされた。返事をしないでいると、
「眞子さん」
 と声をかけられた。山野先生だった。

「出ていらっしゃい」
 先生は優しいけど、厳しい。怖くはないけど、先生の声を効くと背筋がしゃんと伸びる。

 一度、他の遊びに夢中になって、毎日の練習をあまりしないままレッスンに行き、前回言われたところが直せていないことがあった。先生はピアノを止めて、わたしに全身を向けた。

「ピアノは好きですか」
「好きです」

 質問されてすぐに答えた。じっと目を覗き込まれた。そして、
「わかりました」
 と頷いて、レッスンを再開した。
 あの時、嘘はないか確認をされたんだろう。
 ピアノを好きな気持ちに嘘はなかった。ただ練習をちょっとさぼっただけ。
 それ以来、ちゃんと練習をするようになった。

 レッスンでもしたことのない、演奏を止めてしまう大きなミス。
 先生は練習が足りないと怒るんだろうか。どうしてと嘆かれるんだろうか。

 怒られても仕方がない。わたしはしぶしぶドアを開け、個室から出た。

「先生、ごめんなさい」
 謝っている途中で、わたしは抱きしめられた。先生からは、甘い花の香りがした。

「よく頑張りました。逃げずにピアノと向き合いましたね。ステキな演奏でしたよ」

 怒られるものと思っていたわたしは、再び泣いた。先生の言葉が嬉しくて。

 先生はわたしの涙が止まるまで抱きしめていてくれた。
 耳元で、大丈夫大丈夫と言葉をかけてくれた。

 ペーパーがついてしまった顔を洗ってトイレから出ると、両親が揃って心配そうな顔をして待っていた。
 先生は両親に向けても「ステキな演奏でした。眞子さんは頑張り屋さんですね」と褒めてくれた。

 後で知った。発表会で演奏を止めてしまうことはよくあるのだと。

 だけど、わたしにとっては大きな出来事だった。

 これ以来、今までとは比べものにならないくらい、より一層ピアノに取り組んだ。

 次の発表会では、ランゲの「花の歌」を弾いた。
 ドレスはひまわりのような鮮やかな黄色。

 ステージの袖で待っているとき、前年の失敗を思い出して怖くなった。
 ドレスの裾をぎゅっと握っていた。
 大丈夫、しっかり練習してきたんだからと言い聞かせて、ピアノに向かった。

 頭が真っ白になることはなく、ほんの少しミスはしたけれど、楽しい演奏ができた。

 この曲はトラウマを払拭した、良い思い出がある大好きな曲。
 トラウマにフェルマータ(終止符)をつけるのなら、この曲しかない。
 わたしは、やっぱりピアノが大好きだ。
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