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第五話 櫻木陽美 ~出逢い~
別れ、そしてストリートピアノへ
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その後、守さんは何度か櫻木家を訪れ、真琴さんも加えた五人での交流を深めていった。
翌年六月、璃子さんは式を挙げた。
まもなく妊娠し、翌年七月長女ユリさんを出産。一時帰省した。毎週末には守さんが訪問し、泊まっていった。
出産後、璃子さんは一カ月ほどで櫻木家を離れたが、月に一回は帰ってきた。
すくすくと成長を重ねて、櫻木家のアイドルになるユリさんの姿を私も見ることができた。
陽美さんの弾くピアノにもじっとして耳を澄ませ、櫻木家にとっての大切な時間を、ユリさんも共に過ごした。
守さんの転勤が決まり、年内最後の集いを楽しんだ一家に、四か月後悲劇が訪れた。
この年の十二月、陽美さんは事故に合い、帰らぬ人となった。
ユリさんぐらいの年の頃の子供を助け、車に跳ねられてしまった。
子供は軽い怪我で命は助かったが、代わりに陽美さんの命が失われた。
一馬氏の悲嘆に暮れる姿は見ていられないほど、痛々しかった。
応接室にやってくると、バーカウンターには見向きもせず、演奏者用のイスに座る。
一馬氏がこのイスに座ったことなど、一度もない。
ここは陽美さんの指定席であり、一馬氏は後ろから陽美さんを見つめていた。三日月のように目を細めて。
一馬氏は肩を落とし、ため息を吐いた。重々しい吐息だ。
蓋を開け、触れたこともないのに鍵盤を押す。ポーンポーン。
一馬氏の痛みと悲しみと陽美さんへの想いが、どっと私に流れこんでくる。
陽美さんを初めて見かけた時から心が動き、手紙をやり取りし、真剣に陽美さんのことを考え、お見合いを決断した時。
結婚準備に心躍らせ、式当日可愛い花嫁に近づく見知らぬ女性から守らねばと思ったこと。
妊娠した時の嬉しさ、母子共に問題なく出産でき安堵し、四人になった一家を守らねばならない責任をさらに感じた。
叔父から社長業を引継いで多忙になり、子育てを陽美さんに任せっきりになっていることを申し訳なく思っていた。
お酒を飲みながら陽美さんの演奏するピアノを聴く時間が、癒しと活力になっていた。
これらの日々が永遠に戻らないと怯え、悲嘆に暮れる。
食事は喉を通らず、仕事に行かねばならないのに、玄関から出られない。
陽美さんとの思い出に浸らなければ生きていけない。
思い返せば返すほど、哀しみが募る。真っ赤になった目から滂沱として涙を流し続けた。
胸を抉られるような痛みに、私のないはずの心が引き裂かれそうだった。
鍵盤を殴りつけるように激しく叩き、不協和音を聴きつけた真琴さんと只野さんの手によって、一馬氏はピアノから引き離された。
応接室には鍵がかけられた。たまにドアを開けようとする音はしたが、宥める声と共に静まった。
しばらく経って一馬氏は回復に向かったようで、仕事に向かう音が玄関からしていた。
数日に一度、応接室に掃除の手が入る。だが一馬氏が不在の時を狙っているのか、只野さん以外の人は見なかった。
陽美さんの不在から一年が経つ少し前に、応接室に一家と只野さんが入室した。
見知らぬ男性が二人案内されてくる。
私は悟った。ついに不要になったのだなと。
一家の誰もピアノを弾けない。聴く専門だった人たちだ。私がここにいても邪魔なだけだろうし、哀しみも増すばかりなのだろう。
廃棄されるか、中古ピアノとして引き取られれば、新しい主を得る。
そう思っていた。見知らぬ場所に設置されたときは大変驚き戸惑った。
大勢の人が行き交い、興味のありそうな目を向けられたり、迷惑そうな顔をされたり、まったくの無視だったり。
毎日毎日、さまざまな反応をする人間を見る生活になった。
改札前に設置されてから初めて私を弾いたのは、旅行者だった。
遠い異国からやってきた青い瞳に金色の髪を持つ彼は、きらきらした目で私に近づき一曲弾いていった。
音楽家として活動をしている彼は、日本アニメのファンで、アニメソングを弾いて行き来する人々の耳目を集めた。
学生に、主婦に、子供に、音大生に、ユーチューバーに。
たくさんの人に演奏されるようになって六年になる。
私は触れた人の心の声を感じ取り、陽美さんからよく感じていた愛おしさや寂しさ以外の、もっと複雑な人の気持ちを知った。
悩みを抱えていれば寄り添いたい、やる気に溢れていれば応援したい、緊張していれば癒してやりたい。
自分で音を出すことはできないが、私に触れてもらえれば、演奏者と聴衆の役に立てる。それが嬉しかった。
見知らぬ人同士が音楽を聴いて、一緒に楽しむ。
リクエストを受ける。セッションをする。涙し、拍手する。繋がる。
それがその場限りの、ほんの一時だからこそ、気軽に溜まった気持ちを置いていけばいい。一期一会の時間を楽しんでもらいたい。
陽美さんもそれを望んでいるはずだ。
翌年六月、璃子さんは式を挙げた。
まもなく妊娠し、翌年七月長女ユリさんを出産。一時帰省した。毎週末には守さんが訪問し、泊まっていった。
出産後、璃子さんは一カ月ほどで櫻木家を離れたが、月に一回は帰ってきた。
すくすくと成長を重ねて、櫻木家のアイドルになるユリさんの姿を私も見ることができた。
陽美さんの弾くピアノにもじっとして耳を澄ませ、櫻木家にとっての大切な時間を、ユリさんも共に過ごした。
守さんの転勤が決まり、年内最後の集いを楽しんだ一家に、四か月後悲劇が訪れた。
この年の十二月、陽美さんは事故に合い、帰らぬ人となった。
ユリさんぐらいの年の頃の子供を助け、車に跳ねられてしまった。
子供は軽い怪我で命は助かったが、代わりに陽美さんの命が失われた。
一馬氏の悲嘆に暮れる姿は見ていられないほど、痛々しかった。
応接室にやってくると、バーカウンターには見向きもせず、演奏者用のイスに座る。
一馬氏がこのイスに座ったことなど、一度もない。
ここは陽美さんの指定席であり、一馬氏は後ろから陽美さんを見つめていた。三日月のように目を細めて。
一馬氏は肩を落とし、ため息を吐いた。重々しい吐息だ。
蓋を開け、触れたこともないのに鍵盤を押す。ポーンポーン。
一馬氏の痛みと悲しみと陽美さんへの想いが、どっと私に流れこんでくる。
陽美さんを初めて見かけた時から心が動き、手紙をやり取りし、真剣に陽美さんのことを考え、お見合いを決断した時。
結婚準備に心躍らせ、式当日可愛い花嫁に近づく見知らぬ女性から守らねばと思ったこと。
妊娠した時の嬉しさ、母子共に問題なく出産でき安堵し、四人になった一家を守らねばならない責任をさらに感じた。
叔父から社長業を引継いで多忙になり、子育てを陽美さんに任せっきりになっていることを申し訳なく思っていた。
お酒を飲みながら陽美さんの演奏するピアノを聴く時間が、癒しと活力になっていた。
これらの日々が永遠に戻らないと怯え、悲嘆に暮れる。
食事は喉を通らず、仕事に行かねばならないのに、玄関から出られない。
陽美さんとの思い出に浸らなければ生きていけない。
思い返せば返すほど、哀しみが募る。真っ赤になった目から滂沱として涙を流し続けた。
胸を抉られるような痛みに、私のないはずの心が引き裂かれそうだった。
鍵盤を殴りつけるように激しく叩き、不協和音を聴きつけた真琴さんと只野さんの手によって、一馬氏はピアノから引き離された。
応接室には鍵がかけられた。たまにドアを開けようとする音はしたが、宥める声と共に静まった。
しばらく経って一馬氏は回復に向かったようで、仕事に向かう音が玄関からしていた。
数日に一度、応接室に掃除の手が入る。だが一馬氏が不在の時を狙っているのか、只野さん以外の人は見なかった。
陽美さんの不在から一年が経つ少し前に、応接室に一家と只野さんが入室した。
見知らぬ男性が二人案内されてくる。
私は悟った。ついに不要になったのだなと。
一家の誰もピアノを弾けない。聴く専門だった人たちだ。私がここにいても邪魔なだけだろうし、哀しみも増すばかりなのだろう。
廃棄されるか、中古ピアノとして引き取られれば、新しい主を得る。
そう思っていた。見知らぬ場所に設置されたときは大変驚き戸惑った。
大勢の人が行き交い、興味のありそうな目を向けられたり、迷惑そうな顔をされたり、まったくの無視だったり。
毎日毎日、さまざまな反応をする人間を見る生活になった。
改札前に設置されてから初めて私を弾いたのは、旅行者だった。
遠い異国からやってきた青い瞳に金色の髪を持つ彼は、きらきらした目で私に近づき一曲弾いていった。
音楽家として活動をしている彼は、日本アニメのファンで、アニメソングを弾いて行き来する人々の耳目を集めた。
学生に、主婦に、子供に、音大生に、ユーチューバーに。
たくさんの人に演奏されるようになって六年になる。
私は触れた人の心の声を感じ取り、陽美さんからよく感じていた愛おしさや寂しさ以外の、もっと複雑な人の気持ちを知った。
悩みを抱えていれば寄り添いたい、やる気に溢れていれば応援したい、緊張していれば癒してやりたい。
自分で音を出すことはできないが、私に触れてもらえれば、演奏者と聴衆の役に立てる。それが嬉しかった。
見知らぬ人同士が音楽を聴いて、一緒に楽しむ。
リクエストを受ける。セッションをする。涙し、拍手する。繋がる。
それがその場限りの、ほんの一時だからこそ、気軽に溜まった気持ちを置いていけばいい。一期一会の時間を楽しんでもらいたい。
陽美さんもそれを望んでいるはずだ。
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