【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希

文字の大きさ
55 / 70
第五話 櫻木陽美 ~出逢い~

別れ、そしてストリートピアノへ

しおりを挟む
 その後、守さんは何度か櫻木家を訪れ、真琴さんも加えた五人での交流を深めていった。

 翌年六月、璃子さんは式を挙げた。
 まもなく妊娠し、翌年七月長女ユリさんを出産。一時帰省した。毎週末には守さんが訪問し、泊まっていった。

 出産後、璃子さんは一カ月ほどで櫻木家を離れたが、月に一回は帰ってきた。
 すくすくと成長を重ねて、櫻木家のアイドルになるユリさんの姿を私も見ることができた。
 陽美さんの弾くピアノにもじっとして耳を澄ませ、櫻木家にとっての大切な時間を、ユリさんも共に過ごした。
 守さんの転勤が決まり、年内最後の集いを楽しんだ一家に、四か月後悲劇が訪れた。

 この年の十二月、陽美さんは事故に合い、帰らぬ人となった。
 ユリさんぐらいの年の頃の子供を助け、車に跳ねられてしまった。
 子供は軽い怪我で命は助かったが、代わりに陽美さんの命が失われた。
 一馬氏の悲嘆に暮れる姿は見ていられないほど、痛々しかった。

 応接室にやってくると、バーカウンターには見向きもせず、演奏者用のイスに座る。
 一馬氏がこのイスに座ったことなど、一度もない。
 ここは陽美さんの指定席であり、一馬氏は後ろから陽美さんを見つめていた。三日月のように目を細めて。

 一馬氏は肩を落とし、ため息を吐いた。重々しい吐息だ。
 蓋を開け、触れたこともないのに鍵盤を押す。ポーンポーン。
 一馬氏の痛みと悲しみと陽美さんへの想いが、どっと私に流れこんでくる。

 陽美さんを初めて見かけた時から心が動き、手紙をやり取りし、真剣に陽美さんのことを考え、お見合いを決断した時。
 結婚準備に心躍らせ、式当日可愛い花嫁に近づく見知らぬ女性から守らねばと思ったこと。
 妊娠した時の嬉しさ、母子共に問題なく出産でき安堵し、四人になった一家を守らねばならない責任をさらに感じた。
 叔父から社長業を引継いで多忙になり、子育てを陽美さんに任せっきりになっていることを申し訳なく思っていた。
 お酒を飲みながら陽美さんの演奏するピアノを聴く時間が、癒しと活力になっていた。

 これらの日々が永遠に戻らないと怯え、悲嘆に暮れる。
 食事は喉を通らず、仕事に行かねばならないのに、玄関から出られない。
 陽美さんとの思い出に浸らなければ生きていけない。
 思い返せば返すほど、哀しみが募る。真っ赤になった目から滂沱として涙を流し続けた。

 胸を抉られるような痛みに、私のないはずの心が引き裂かれそうだった。
 鍵盤を殴りつけるように激しく叩き、不協和音を聴きつけた真琴さんと只野さんの手によって、一馬氏はピアノから引き離された。

 応接室には鍵がかけられた。たまにドアを開けようとする音はしたが、宥める声と共に静まった。
 しばらく経って一馬氏は回復に向かったようで、仕事に向かう音が玄関からしていた。

 数日に一度、応接室に掃除の手が入る。だが一馬氏が不在の時を狙っているのか、只野さん以外の人は見なかった。

 陽美さんの不在から一年が経つ少し前に、応接室に一家と只野さんが入室した。
 見知らぬ男性が二人案内されてくる。
 私は悟った。ついに不要になったのだなと。
 一家の誰もピアノを弾けない。聴く専門だった人たちだ。私がここにいても邪魔なだけだろうし、哀しみも増すばかりなのだろう。

 廃棄されるか、中古ピアノとして引き取られれば、新しい主を得る。
 そう思っていた。見知らぬ場所に設置されたときは大変驚き戸惑った。
 大勢の人が行き交い、興味のありそうな目を向けられたり、迷惑そうな顔をされたり、まったくの無視だったり。
 毎日毎日、さまざまな反応をする人間を見る生活になった。

 改札前に設置されてから初めて私を弾いたのは、旅行者だった。
 遠い異国からやってきた青い瞳に金色の髪を持つ彼は、きらきらした目で私に近づき一曲弾いていった。
 音楽家として活動をしている彼は、日本アニメのファンで、アニメソングを弾いて行き来する人々の耳目を集めた。

 学生に、主婦に、子供に、音大生に、ユーチューバーに。
 たくさんの人に演奏されるようになって六年になる。
 私は触れた人の心の声を感じ取り、陽美さんからよく感じていた愛おしさや寂しさ以外の、もっと複雑な人の気持ちを知った。

 悩みを抱えていれば寄り添いたい、やる気に溢れていれば応援したい、緊張していれば癒してやりたい。
 自分で音を出すことはできないが、私に触れてもらえれば、演奏者と聴衆の役に立てる。それが嬉しかった。

 見知らぬ人同士が音楽を聴いて、一緒に楽しむ。
 リクエストを受ける。セッションをする。涙し、拍手する。繋がる。
 それがその場限りの、ほんの一時だからこそ、気軽に溜まった気持ちを置いていけばいい。一期一会の時間を楽しんでもらいたい。
 陽美さんもそれを望んでいるはずだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...