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第五話 櫻木陽美 ~出逢い~
璃子の交際相手
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会計士として櫻木グループの関連企業で働いている璃子さんが、ある日若い男性を連れてきたのは、夏の盛りであった。
着ているスーツは身体にフィットしオーダーメイド品であるようだが、初々しさの欠片がまだ残る着慣れていない感じがあった。
黒革のカウチソファーに座り、しきりに汗を拭っている。
背中に木刀でも入っているかのように、背筋をぴんと伸ばし、只野さんが用意した冷たいお茶を一気に飲み干した。璃子さんがおかわりを継ぐと、再び一気に空ける。そして汗を拭く。
応接室はほどよく冷えているはずだ。エアコンは私に直接当たらないように、私から一番遠いソファーの傍に設置されている。つまり彼が座っているあたりは風がよくあたる場所であるはずなのだ。暑いのならばジャケットを脱げばいいのに、律儀にボタンとネクタイを締めている。
「お待たせしてごめんなさいね」
応接室の扉が開いて陽美さんが入ってくると、彼はバネのように飛び跳ねて立ち上がった。
「一馬さん、早く」
陽美さんから数歩遅れて入ってきた一馬氏は、一見して不機嫌だとわかるオーラを発していた。
これは珍しい。一馬氏が客人に対してこのような態度を取るのは初めてだ。
一馬氏を見た彼は、顔色を変えた。
直後に深々と腰を折った。九十度を超え、膝に頭がつきそうな、これが身体の限界というところまで折り曲げている。
どっしりとソファーに座った一馬氏は、腕を組んで彼をじっと見ていた。眼光は鋭い。
「お掛けになったら」
陽美さんが柔らかく声をかけると、彼は「はいっ! 失礼致します」と大声で言い腰を下ろした。
上げた顔の表情は硬く、奥歯を噛み締めているようだ。
視線はしっかりと一馬氏に固定されていた。何か覚悟を決めた、男の顔をしていた。
「お父さん怖いんだけど……」
璃子さんがそう言っても一馬氏の表情も態度も変わらなかったようで、璃子さんは陽美さんと視線を合わせ、肩をすくめた。
「あたしがお付き合いをさせてもらってる峯村守さん。銀行に勤めています」
「峯村守と申します! 本日はお時間をくださり、ありがとうございます!」
「君、声が大きい」
一馬氏が顔を背けた。
「申し訳! あ……申し訳ございません」
声のボリュームを抑えて峯村さんは言い直した。
「ずっとスポーツをしてきてたから、癖になってるのよ」
璃子さんがフォローする。
「何のスポーツをなさっていたの?」
峯村さんは陽美さんに顔を向けた。
「中学まではサッカーで、高校と大学ではラグビーをしていました」
「それでがっしりした身体をしてるのね。ラグビーは今も続けているの?」
「入行してからはなかなか時間が取れなくて、代わりにジムに通っています」
「お父さんも若い頃水泳やってたんでしょ」
仲を取り持つように、璃子さんが水を向ける。
「若い頃って、今も若い」
「アラフィフが何言ってんの。二十代に張り合おうとしないでよ」
一馬氏がイライラを隠さないことに、璃子さんも少し苛立ちを見せる。
そこへ陽美さんがまあまあと割って入った。
「峯村さんはマリンスポーツの経験は?」
「大学時代にダイビングを少ししたことがあります」
「主人はダイビングが好きなのよ。わたしと真琴は苦手なんだけど、璃子もできるし。いつかみんなで行きましょうか」
「はい。ぜひ」
峯村さんが無邪気に顔を綻ばせて頷くと、一馬氏がふんと鼻息を吐いた。
我慢ができなくなったのか、璃子さんが嗜めるように口を開いた。
「お父さん、いい加減に――」
「お義父さん! お義母さん!」
遮るように、峯村さんが大声をだした。瞬時に、
「君にそう呼ばれる筋合いはない!」
一馬氏に拒否され、峯村さんが少しの間言葉を失う。
「う……では、櫻木さん。璃子さんと結婚させてください!」
「断る!」
「ちょっと! お父さん」
銅鑼のような声で一喝され、璃子さんが非難する声を上げた。父親と娘の間に不穏な空気が漂う。
「父親だものね。一度は断るわよね」
のんびりとした声で陽美さんが間に入った。
「今日は腕によりをかけてお料理をしたのよ。峯村さんたくさん食べてくださいね。璃子、手伝って」
「え? でも」
「いいから」
二人っきりにさせることを心配しているのか、璃子さんは渋々といったように立ち上がり、陽美さんに背中を押されて応接室を出て行った。
残された二人の間に沈黙が続き、お茶を飲む音だけがする。
出て行った二人はなかなか戻ってこない。先に口を開いたのは一馬氏だった。
「上着」
「は、はい」
「暑苦しいから、脱ぎなさい」
「え……あ、でも」
「いいから。ラフにしたぐらいで君への評価は変わらんよ。わたしから娘を奪いにくるなんて。璃子はまだ若い。まだ二十三なのに……」
「ではお言葉に甘えて、失礼致します」
一馬氏が峯村さんへの呪詛の言葉をぶつぶつと呟く向かいで、峯村さんはジャケットを脱ぎ、ネクタイも外した。
やはり暑かったのだろう。ふうっと息を吐いた。
「おと、櫻木さん。前後になって申し訳ありません。お酒がお好きと伺いましたので、お口に合うとよろしいのですが」
峯村さんが夏らしい涼やかな青い瓶と、包装された箱をテーブルに並べた。
「わたしが担当させていただいている取引先の社長が美味しいと仰っていたので、おと、櫻木さんにぜひにと思いまして、おつまみにどうぞ。イベリコ豚の熟成生ハムです」
「いちいち言い直さなくていいよ」
一馬氏は機嫌を直さない口調のまま言ったが、峯村さんはぱあっと顔を輝かせ、
「ありがとうございます。お義父さん!」
と一馬氏を呼んだ。笑うと目尻が下がり、可愛らしい顔つきになった。
「銀行は転勤が多いだろう。璃子は入社してまだ二年目。すぐ退職するわけにはいかない。その辺り、どう考えている」
「はい。同い年なので、自分もまだ社会人二年目です。今の支店に配属されて一年ですので、まだ数年異動はないと思います。ですが、もし異動が決まったら、璃子さんにはついてきてもらいたいと思っています。もちろん、璃子さんが仕事を辞めたくない場合は、希望を優先するつもりではあります」
「単身赴任でも構わないのか? 璃子は君も知っての通り、感情の起伏が激しい。我儘ではないが、主張はするほうだ。制御できる自信が君にはあるのか。娘と知り合ってどれぐらい経つ?」
「来月で一年です。去年の九月仕事の関係で出会いました。同い年なのにしっかりとした、頭の切れる方だと思いました。たしかに意見はしっかりと述べられますが強引に押し通すことはしない、違っている場合は取り下げる柔軟さをお持ちです。自分は熟考するタイプなので瞬発力がありません。母と姉からおっとりしていて怒り甲斐がないとよく言われていました。のれんに腕押しだと。そんな自分に璃子さんの感情の制御はできないと思いますし、それをすると璃子さんが不満を抱えると思います。ですから、受け止めようと思っています」
「受け流すのではなく?」
「はい。怒りも悲しみも恐怖も不安も不満も、すべて自分が受け止めます。安心できるように、リラックスできるように。寄り添って支えられるようにしたいです」
一馬氏が腕を組んで黙った。
弁が立つ人ならその場限りの嘘をつけるだろう。
しかし峯村さんの思考の瞬発力がないとの申告が真実ならば、普段から考えていないと出てこない答えではないかと思う。璃子さんとの真剣さが窺い知れる。
一馬氏が結婚の申し出を断ったのは、父親としての反射で、本音では若い二人がただただ心配なのだろう。
本当に嫌なら、二人きりにされた地点で部屋を出て行っただろうから。
陽美さんもそれがわかっていて、あえて二人にしたと思われる。
じっくりと話ができるように。一馬氏が峯村さんを吟味できるように。璃子さんのいないところで、本音が聞けるように。
峯村さんは再び汗を拭き始める。
一馬氏が黙ってしまったから、発言が失敗したかと思っているに違いない。
扉の外から話し声が聞こえてきて、ほっとした表情を浮かべた。
「お待たせしました。あら、峯村さん暑い? 温度下げましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です。美味しそうですね」
「陽美。峯村さんからの手土産だ。生ハムだそうだ」
「あらあら、お気遣い頂いて。ありがとう」
ちらし寿司、カルパッチョ、天ぷら、冷製パスタ、キッシュ。料理がテーブル狭しと並んでいく。
「こちらで何か作ってくるわね。お先にどうぞ」
生ハムの箱を持って陽美さんが出て行く。
「嫌いなものはあるか?」
「いえ、ありません。何でもいただきます」
「酒は」
「大好きです」
「ならせっかくだ。これも空けようか」
バーカウンターにグラスを取りに向かう一馬氏の機嫌はどうやら直ったようである。
璃子さんは一馬氏の背中を見て首を傾げたが、何も言わなかった。
今、直接の指摘や訊ねるのはやめておいて正解だと思う。
一馬氏の機嫌が直ったのだ。そっとしておくのが一番だ。
陽美さんが戻ってくる前に食事が始まり、後に生ハム料理が三品追加された。
食後はバーカウンターに移動し、陽美さんのピアノを聴きながらお酒を飲み、夕方、足取りが少しだけ覚束ない酔っ払いたちが玄関に向かった。声だけが聞こえてくる。
「長い時間お邪魔しました。ご馳走様でした。お義母さんの手料理とても美味しかったです」
「お粗末様でした。璃子は、お料理覚えなくちゃね」
「んー、そうだねえ」
「自分は料理好きなので、大丈夫です」
「守くんの方が女子力高いんだよねえ」
「甘えてちゃだめよ」
「はーい」
「それでは、失礼致します」
「そこまで送ってくる」
「またいらっしゃいね」
「はい。ありがとうございます」
「スーツで来なくていい。手土産もいらんからな」
「……は、はい! ありがとうございます!」
峯村さんの喜ぶ姿が見えるような声だった。
着ているスーツは身体にフィットしオーダーメイド品であるようだが、初々しさの欠片がまだ残る着慣れていない感じがあった。
黒革のカウチソファーに座り、しきりに汗を拭っている。
背中に木刀でも入っているかのように、背筋をぴんと伸ばし、只野さんが用意した冷たいお茶を一気に飲み干した。璃子さんがおかわりを継ぐと、再び一気に空ける。そして汗を拭く。
応接室はほどよく冷えているはずだ。エアコンは私に直接当たらないように、私から一番遠いソファーの傍に設置されている。つまり彼が座っているあたりは風がよくあたる場所であるはずなのだ。暑いのならばジャケットを脱げばいいのに、律儀にボタンとネクタイを締めている。
「お待たせしてごめんなさいね」
応接室の扉が開いて陽美さんが入ってくると、彼はバネのように飛び跳ねて立ち上がった。
「一馬さん、早く」
陽美さんから数歩遅れて入ってきた一馬氏は、一見して不機嫌だとわかるオーラを発していた。
これは珍しい。一馬氏が客人に対してこのような態度を取るのは初めてだ。
一馬氏を見た彼は、顔色を変えた。
直後に深々と腰を折った。九十度を超え、膝に頭がつきそうな、これが身体の限界というところまで折り曲げている。
どっしりとソファーに座った一馬氏は、腕を組んで彼をじっと見ていた。眼光は鋭い。
「お掛けになったら」
陽美さんが柔らかく声をかけると、彼は「はいっ! 失礼致します」と大声で言い腰を下ろした。
上げた顔の表情は硬く、奥歯を噛み締めているようだ。
視線はしっかりと一馬氏に固定されていた。何か覚悟を決めた、男の顔をしていた。
「お父さん怖いんだけど……」
璃子さんがそう言っても一馬氏の表情も態度も変わらなかったようで、璃子さんは陽美さんと視線を合わせ、肩をすくめた。
「あたしがお付き合いをさせてもらってる峯村守さん。銀行に勤めています」
「峯村守と申します! 本日はお時間をくださり、ありがとうございます!」
「君、声が大きい」
一馬氏が顔を背けた。
「申し訳! あ……申し訳ございません」
声のボリュームを抑えて峯村さんは言い直した。
「ずっとスポーツをしてきてたから、癖になってるのよ」
璃子さんがフォローする。
「何のスポーツをなさっていたの?」
峯村さんは陽美さんに顔を向けた。
「中学まではサッカーで、高校と大学ではラグビーをしていました」
「それでがっしりした身体をしてるのね。ラグビーは今も続けているの?」
「入行してからはなかなか時間が取れなくて、代わりにジムに通っています」
「お父さんも若い頃水泳やってたんでしょ」
仲を取り持つように、璃子さんが水を向ける。
「若い頃って、今も若い」
「アラフィフが何言ってんの。二十代に張り合おうとしないでよ」
一馬氏がイライラを隠さないことに、璃子さんも少し苛立ちを見せる。
そこへ陽美さんがまあまあと割って入った。
「峯村さんはマリンスポーツの経験は?」
「大学時代にダイビングを少ししたことがあります」
「主人はダイビングが好きなのよ。わたしと真琴は苦手なんだけど、璃子もできるし。いつかみんなで行きましょうか」
「はい。ぜひ」
峯村さんが無邪気に顔を綻ばせて頷くと、一馬氏がふんと鼻息を吐いた。
我慢ができなくなったのか、璃子さんが嗜めるように口を開いた。
「お父さん、いい加減に――」
「お義父さん! お義母さん!」
遮るように、峯村さんが大声をだした。瞬時に、
「君にそう呼ばれる筋合いはない!」
一馬氏に拒否され、峯村さんが少しの間言葉を失う。
「う……では、櫻木さん。璃子さんと結婚させてください!」
「断る!」
「ちょっと! お父さん」
銅鑼のような声で一喝され、璃子さんが非難する声を上げた。父親と娘の間に不穏な空気が漂う。
「父親だものね。一度は断るわよね」
のんびりとした声で陽美さんが間に入った。
「今日は腕によりをかけてお料理をしたのよ。峯村さんたくさん食べてくださいね。璃子、手伝って」
「え? でも」
「いいから」
二人っきりにさせることを心配しているのか、璃子さんは渋々といったように立ち上がり、陽美さんに背中を押されて応接室を出て行った。
残された二人の間に沈黙が続き、お茶を飲む音だけがする。
出て行った二人はなかなか戻ってこない。先に口を開いたのは一馬氏だった。
「上着」
「は、はい」
「暑苦しいから、脱ぎなさい」
「え……あ、でも」
「いいから。ラフにしたぐらいで君への評価は変わらんよ。わたしから娘を奪いにくるなんて。璃子はまだ若い。まだ二十三なのに……」
「ではお言葉に甘えて、失礼致します」
一馬氏が峯村さんへの呪詛の言葉をぶつぶつと呟く向かいで、峯村さんはジャケットを脱ぎ、ネクタイも外した。
やはり暑かったのだろう。ふうっと息を吐いた。
「おと、櫻木さん。前後になって申し訳ありません。お酒がお好きと伺いましたので、お口に合うとよろしいのですが」
峯村さんが夏らしい涼やかな青い瓶と、包装された箱をテーブルに並べた。
「わたしが担当させていただいている取引先の社長が美味しいと仰っていたので、おと、櫻木さんにぜひにと思いまして、おつまみにどうぞ。イベリコ豚の熟成生ハムです」
「いちいち言い直さなくていいよ」
一馬氏は機嫌を直さない口調のまま言ったが、峯村さんはぱあっと顔を輝かせ、
「ありがとうございます。お義父さん!」
と一馬氏を呼んだ。笑うと目尻が下がり、可愛らしい顔つきになった。
「銀行は転勤が多いだろう。璃子は入社してまだ二年目。すぐ退職するわけにはいかない。その辺り、どう考えている」
「はい。同い年なので、自分もまだ社会人二年目です。今の支店に配属されて一年ですので、まだ数年異動はないと思います。ですが、もし異動が決まったら、璃子さんにはついてきてもらいたいと思っています。もちろん、璃子さんが仕事を辞めたくない場合は、希望を優先するつもりではあります」
「単身赴任でも構わないのか? 璃子は君も知っての通り、感情の起伏が激しい。我儘ではないが、主張はするほうだ。制御できる自信が君にはあるのか。娘と知り合ってどれぐらい経つ?」
「来月で一年です。去年の九月仕事の関係で出会いました。同い年なのにしっかりとした、頭の切れる方だと思いました。たしかに意見はしっかりと述べられますが強引に押し通すことはしない、違っている場合は取り下げる柔軟さをお持ちです。自分は熟考するタイプなので瞬発力がありません。母と姉からおっとりしていて怒り甲斐がないとよく言われていました。のれんに腕押しだと。そんな自分に璃子さんの感情の制御はできないと思いますし、それをすると璃子さんが不満を抱えると思います。ですから、受け止めようと思っています」
「受け流すのではなく?」
「はい。怒りも悲しみも恐怖も不安も不満も、すべて自分が受け止めます。安心できるように、リラックスできるように。寄り添って支えられるようにしたいです」
一馬氏が腕を組んで黙った。
弁が立つ人ならその場限りの嘘をつけるだろう。
しかし峯村さんの思考の瞬発力がないとの申告が真実ならば、普段から考えていないと出てこない答えではないかと思う。璃子さんとの真剣さが窺い知れる。
一馬氏が結婚の申し出を断ったのは、父親としての反射で、本音では若い二人がただただ心配なのだろう。
本当に嫌なら、二人きりにされた地点で部屋を出て行っただろうから。
陽美さんもそれがわかっていて、あえて二人にしたと思われる。
じっくりと話ができるように。一馬氏が峯村さんを吟味できるように。璃子さんのいないところで、本音が聞けるように。
峯村さんは再び汗を拭き始める。
一馬氏が黙ってしまったから、発言が失敗したかと思っているに違いない。
扉の外から話し声が聞こえてきて、ほっとした表情を浮かべた。
「お待たせしました。あら、峯村さん暑い? 温度下げましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です。美味しそうですね」
「陽美。峯村さんからの手土産だ。生ハムだそうだ」
「あらあら、お気遣い頂いて。ありがとう」
ちらし寿司、カルパッチョ、天ぷら、冷製パスタ、キッシュ。料理がテーブル狭しと並んでいく。
「こちらで何か作ってくるわね。お先にどうぞ」
生ハムの箱を持って陽美さんが出て行く。
「嫌いなものはあるか?」
「いえ、ありません。何でもいただきます」
「酒は」
「大好きです」
「ならせっかくだ。これも空けようか」
バーカウンターにグラスを取りに向かう一馬氏の機嫌はどうやら直ったようである。
璃子さんは一馬氏の背中を見て首を傾げたが、何も言わなかった。
今、直接の指摘や訊ねるのはやめておいて正解だと思う。
一馬氏の機嫌が直ったのだ。そっとしておくのが一番だ。
陽美さんが戻ってくる前に食事が始まり、後に生ハム料理が三品追加された。
食後はバーカウンターに移動し、陽美さんのピアノを聴きながらお酒を飲み、夕方、足取りが少しだけ覚束ない酔っ払いたちが玄関に向かった。声だけが聞こえてくる。
「長い時間お邪魔しました。ご馳走様でした。お義母さんの手料理とても美味しかったです」
「お粗末様でした。璃子は、お料理覚えなくちゃね」
「んー、そうだねえ」
「自分は料理好きなので、大丈夫です」
「守くんの方が女子力高いんだよねえ」
「甘えてちゃだめよ」
「はーい」
「それでは、失礼致します」
「そこまで送ってくる」
「またいらっしゃいね」
「はい。ありがとうございます」
「スーツで来なくていい。手土産もいらんからな」
「……は、はい! ありがとうございます!」
峯村さんの喜ぶ姿が見えるような声だった。
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