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第五話 櫻木陽美 ~出逢い~
思い出の曲
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「落ちましたよ」
ピアノの近くで演奏を聴いていた女性が璃子さんに声をかけた。
遠野眞子さんだ。眞子さんは私にとって常連さんだったが、最近はご無沙汰だった。
「あ、ありがとうございます」
璃子さんは差し出されたハンカチを受け取る。
「お二人かわいいですね」
「ありがとうございます。娘と友達です。本当はあたしが聴きたい曲があるんです。母との思い出の曲なんですけど、あたしが悲しむだろうから弾きたくないって練習もしなくて。今日は母の命日なんです」
「どの曲ですか」
「ミルテの花の花嫁の歌1です」
「シューマンですね。わたし弾けますよ。良ければ弾きましょうか」
「よろしいんですか」
「はい。わたしの解釈になるので、お母さまの演奏とは違いがあるかもしれませんけど」
「趣味で弾いていただけなので、解釈なんて立派なもの母にはなかったと思いますよ。聴かせて頂けるだけで満足です。ユリちゃん。お姉さんが花嫁の歌弾いてくれるって。どうする?」
「あ……うん。お願いします」
璃子さんが声をかけると、ユリさんが璃子さんの顔を見てから頷いて、柚羽さんと一緒に席を譲った。
「お洋服かわいいね」
ユリさんは赤いワンピースを着ている。首と手首の白いファーがクリスマスっぽくていい。
「ありがとうございます。このピアノ、ばあばのピアノなの。ばあばに見てもらおうと思って」
「お祖母ちゃんのピアノなんだ。じゃあ、今日はきっと聴いてくれてるね。わたし何度か弾かせてもらったんだよ。悩み事があって、このピアノに聴いてもらったの。すごく助けられたのよ」
「ばあばが助けてくれたのかな」
「そうかもしれないね。お祖母ちゃんにお礼を言いながら弾かせてもらうね」
席に着いた眞子さんは、集中をするようにふうーと細く息を吐いた。
ゆっくりと腕を持ち上げ、鍵盤に触れる。恋心を歌う可愛らしいメロディが流れた。
璃子さんの目にじわじわと涙が溜まり、すぐに溢れでる。
ユリさんの演奏を微笑んで見つめていた一馬氏は、はっとしたように表情を変え、目元を手のひらで覆った。
彼の肩は震えていた。脳裏には、陽美さんとの出会いから別れるまでの日々が、めまぐるしく駆け回っているに違いない。
老け込み具合から、陽美さんを失った悲しみは癒えていないと思われる。
今までの人生を陽美さんに捧げてきたように、残りの人生も陽美さんに捧げ続けるのだろう。
短い曲だ。二分半ほどの長さしかない。一同は物足りない顔をしながらも、立ち上がった眞子さんに頭を下げた。
「ステキな曲ですよね。恋したくなっちゃいます。それでは、仕事があるので、失礼します」
「ありがとうございました」
ユリさんたちは私を背景に、記念写真を撮り始めた。
恋をしたくなると言った眞子さん。彼女の胸には、本人もまだ気づいていない恋の炎が小さく煌めき始めていることを、私は感じていた。
相手は同僚の結婚式で出会った新郎の友人のようだ。披露したピアノを褒められ、連絡先を交換し、ときどき遊びに行く仲になっている。
表情が晴れやかで生き生きしているのは、心が満たされ始めているからなのだな。前向きになれる一助になれたのだと思うと、私としても大変嬉しい。
歩き始めた眞子さんが、男女に声をかけられた。香さんと蓮音さんだった。二人は戻ってきていた。
「遠野さん久しぶり。今のピアノ聴かせてもらったわ」
「大澤さん!? えっ……ちょっ……びっくり」
「あたしもびっくりしてるわよ。同窓生に会うなんて。花嫁の歌、すてきだったわよ。ね、少しだけお茶でも行かない?」
「わたし、これから仕事で」
「何の仕事?」
「そこのモールでドレスの販売をしてる会社の営業。今日は新作が入荷するからディスプレイを手伝いに」
「新作のドレス? 見に行ってもいい?」
香さんが少女のように目をきらきらっと輝かせた。
「香さん、時間。お祖父さんとの約束」
「約束があるんなら、終わってからお店に寄ってくれれば。わたし二時間ぐらいいるから」
「二時間だと間に合わないかも。ランチとりながらなの」
「だったらなおさら約束通りに行かなきゃ。遅刻しちゃうよ」
「えーでも少し見たい。あたしね、春に結婚するの。パーティで着るドレス選んでよ。遠野さんのセンスあたし好きだったのよ。あなたのお陰でドレスの勉強もしたの」
「え、あ、そうなの? おめでとうございます。でも時間」
「少しだけ、ね? お願い」
香さんは眞子さんの腕に自分の腕を回し、眞子さんを連行するように地上への階段を上がり始めた。
ついていく蓮音くんの背中が、やれやれと呟いていた。
ピアノの近くで演奏を聴いていた女性が璃子さんに声をかけた。
遠野眞子さんだ。眞子さんは私にとって常連さんだったが、最近はご無沙汰だった。
「あ、ありがとうございます」
璃子さんは差し出されたハンカチを受け取る。
「お二人かわいいですね」
「ありがとうございます。娘と友達です。本当はあたしが聴きたい曲があるんです。母との思い出の曲なんですけど、あたしが悲しむだろうから弾きたくないって練習もしなくて。今日は母の命日なんです」
「どの曲ですか」
「ミルテの花の花嫁の歌1です」
「シューマンですね。わたし弾けますよ。良ければ弾きましょうか」
「よろしいんですか」
「はい。わたしの解釈になるので、お母さまの演奏とは違いがあるかもしれませんけど」
「趣味で弾いていただけなので、解釈なんて立派なもの母にはなかったと思いますよ。聴かせて頂けるだけで満足です。ユリちゃん。お姉さんが花嫁の歌弾いてくれるって。どうする?」
「あ……うん。お願いします」
璃子さんが声をかけると、ユリさんが璃子さんの顔を見てから頷いて、柚羽さんと一緒に席を譲った。
「お洋服かわいいね」
ユリさんは赤いワンピースを着ている。首と手首の白いファーがクリスマスっぽくていい。
「ありがとうございます。このピアノ、ばあばのピアノなの。ばあばに見てもらおうと思って」
「お祖母ちゃんのピアノなんだ。じゃあ、今日はきっと聴いてくれてるね。わたし何度か弾かせてもらったんだよ。悩み事があって、このピアノに聴いてもらったの。すごく助けられたのよ」
「ばあばが助けてくれたのかな」
「そうかもしれないね。お祖母ちゃんにお礼を言いながら弾かせてもらうね」
席に着いた眞子さんは、集中をするようにふうーと細く息を吐いた。
ゆっくりと腕を持ち上げ、鍵盤に触れる。恋心を歌う可愛らしいメロディが流れた。
璃子さんの目にじわじわと涙が溜まり、すぐに溢れでる。
ユリさんの演奏を微笑んで見つめていた一馬氏は、はっとしたように表情を変え、目元を手のひらで覆った。
彼の肩は震えていた。脳裏には、陽美さんとの出会いから別れるまでの日々が、めまぐるしく駆け回っているに違いない。
老け込み具合から、陽美さんを失った悲しみは癒えていないと思われる。
今までの人生を陽美さんに捧げてきたように、残りの人生も陽美さんに捧げ続けるのだろう。
短い曲だ。二分半ほどの長さしかない。一同は物足りない顔をしながらも、立ち上がった眞子さんに頭を下げた。
「ステキな曲ですよね。恋したくなっちゃいます。それでは、仕事があるので、失礼します」
「ありがとうございました」
ユリさんたちは私を背景に、記念写真を撮り始めた。
恋をしたくなると言った眞子さん。彼女の胸には、本人もまだ気づいていない恋の炎が小さく煌めき始めていることを、私は感じていた。
相手は同僚の結婚式で出会った新郎の友人のようだ。披露したピアノを褒められ、連絡先を交換し、ときどき遊びに行く仲になっている。
表情が晴れやかで生き生きしているのは、心が満たされ始めているからなのだな。前向きになれる一助になれたのだと思うと、私としても大変嬉しい。
歩き始めた眞子さんが、男女に声をかけられた。香さんと蓮音さんだった。二人は戻ってきていた。
「遠野さん久しぶり。今のピアノ聴かせてもらったわ」
「大澤さん!? えっ……ちょっ……びっくり」
「あたしもびっくりしてるわよ。同窓生に会うなんて。花嫁の歌、すてきだったわよ。ね、少しだけお茶でも行かない?」
「わたし、これから仕事で」
「何の仕事?」
「そこのモールでドレスの販売をしてる会社の営業。今日は新作が入荷するからディスプレイを手伝いに」
「新作のドレス? 見に行ってもいい?」
香さんが少女のように目をきらきらっと輝かせた。
「香さん、時間。お祖父さんとの約束」
「約束があるんなら、終わってからお店に寄ってくれれば。わたし二時間ぐらいいるから」
「二時間だと間に合わないかも。ランチとりながらなの」
「だったらなおさら約束通りに行かなきゃ。遅刻しちゃうよ」
「えーでも少し見たい。あたしね、春に結婚するの。パーティで着るドレス選んでよ。遠野さんのセンスあたし好きだったのよ。あなたのお陰でドレスの勉強もしたの」
「え、あ、そうなの? おめでとうございます。でも時間」
「少しだけ、ね? お願い」
香さんは眞子さんの腕に自分の腕を回し、眞子さんを連行するように地上への階段を上がり始めた。
ついていく蓮音くんの背中が、やれやれと呟いていた。
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