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2章 届くはずのない手紙
2.峯山さん、再び
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十七時半になり、ほとんどの園児が退園した。
これから峯山さんがご夫婦で来園されることになっていた。
佑斗くんは十四時にお迎えがきて、お母さんと退園している。
今朝、園児たちが登園する前に、園長とは話をすませている。
メールの報告を読み、私の報告を聞いた園長が峯山さんのお宅に連絡し、夕方の来園が決まった。
園児たちと一緒にいると、憂鬱だったことを忘れていた。気を張っているのもあるし、園児たちに癒されてもいたおかげ。
でも予定の時刻が迫ってくると、呼吸がしにくくなるほどに、緊張してきた。
意識して深呼吸、を何度繰り返したことか。
園長という強い味方が同席してくれるとはいえ、怒鳴りつけてくる峯山さんが怖い。
私は男性に大きな声を出された経験はない。
父は教育に無関心で、一緒の時間を過ごすことが少なかったから、叱られたことがない。
学生時代は共学だったけど、荒々しい男子生徒とは関わりがなかったし。
ああいう方は、初めてだった。
内心でどんどん膨れていく不安を押し殺して、業務に向かいながら呼び出しがかかるのを待った。
十八時を過ぎて、峯山さんがやってきたと、事務員の渡辺さんが呼びにきてくれた。
私と麻香先生は、視線を交わした。
麻香先生も昨日の件が尾を引いているのだろう、すでに涙目だった。
本当は同席するのが怖いのだろう。
でも私たちは担任と副担任で、当事者。説明する責任がある。
「行きましょう」
「……はい」
応接室に向かうため、職員室を歩いていく。
昨日、私に気をつけてと忠告してくれた美鈴先生や、他の先生方が目線で見送ってくれる。
ガッツポーズをしてくれる先生もいた。エールを送ってくれたのだろう。
嬉しいけれど、不安を消せるほどではない。
今回の件は、同僚のみんなにとっても他人事ではないことをわかっている。
自分が同じ立場になる可能性があるし、経験済みの先生もいる。
幼稚園の先生は園児との関係性を築きながら、保護者さんとの信頼関係も築いていかないといけない。
担任を受け持って二カ月半。
信頼関係を築くことは容易でないことを、改めて思い知らされた。
応接室に向かうと、渡辺さんが鍵を開けているところだった。
峯山さんご夫妻が、廊下で待っていた。
お母さんの背後から、佑斗くんがひょっこり顔を出した。不安そうな顔で、お母さんの足にしがみついている。
一緒に来るのだとは思っていなかった。
佑斗くんは当事者ではある。けれどこの件は子供の手から離れて、大人の話し合いになっている。子供に聞かせていいのかなと、不安が増した。
夫妻に続いて、応接室に入る。
白い壁、革製のソファーにローテーブル。この部屋だけ見れば、幼稚園の中とは思えない立派な一室。
ここに私が足を踏み入れたのは、就職して二年目の時。年中のうさぎ組でトラブルがあり、副担任として同席していた。
あの時の親御さんは、難しいタイプの人だった。
どれだけ誠意を尽くして説明をしても「でもね」「だから」と反論し、納得せず。三時間の話し合いの末、結局退園した。
上座のソファーに峯山さん一家を案内した渡辺さんが、
「少々お待ちください。お茶をお持ちいたします」
と一礼している途中で、
「園長は?!」
お父さんの大きな声が、応接室に響いた。
私の隣に立っていた麻香先生が、体を大きく震わせる。
「ただいま電話中でございます。終わり次第、参ります」
渡辺さんが伝えると、
「待たせるつもりかよ」
と小さな声ではあったけど、お父さんは不満をこぼした。
渡辺さんが退室すると、きまずい沈黙が降りる。
お父さんは貧乏ゆすりをしてイライラしている。お母さんと佑斗くんは小さくなって座っている。
峯山さんはどんな方なんだろう。説明を聞いたら納得して帰ってくれるのか、クレームを言いたいだけなのか。
佑斗くんは叩かれたと言っていた。手が出るタイプの人なのだろう。
しつけと暴力は、線引きが難しい。
もちろんいかなる理由があろうと、暴力に訴えるのは反対。
けれど、体で覚えさせるというしつけをする家庭もあり、私が異を唱えることは難しい。
明らかに痣があり、行き過ぎた暴力である場合は、園長に報告の上、児童相談所に連絡する。
峯山家は、どうだろう。
佑斗くんの体に痣を見つけたことは、入園以来ない。
注意深く見ておいた方がいいのかも、と思案していると、
「まだかよ。こっちは暇じゃねえんだぞ」
とお父さんが凄んできた。
そんなこと、私たちに言われてもどうしようもない。私たちに園長の電話を終わらせることはできないのに。
「呼んで来いよ」
また昨日と同じように、顎でクイ。
やだな、と思っていると、扉がノックされた。渡辺さんがお茶を持ってきてくれる。
夫妻には湯呑、佑斗くんにはガラスコップが置かれた。温かいお茶と、リンゴジュースだと思う。
戻る渡辺さんに確認をすると、やはりリンゴジュースだった。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
渡辺さんと入れ替わりで、園長が入室してきた。
「園長の白木でございます」
黒のパンツスーツに身を包んだ園長が颯爽と入ってくると、場の空気が変わった。
お父さんは貧乏ゆすりをやめ、正面に座った園長を見遣る。
私や麻香先生を見たときの、こちらを見下すような目つきと違い、力が入ったように見えた。
次回⇒3.愛と覚悟
これから峯山さんがご夫婦で来園されることになっていた。
佑斗くんは十四時にお迎えがきて、お母さんと退園している。
今朝、園児たちが登園する前に、園長とは話をすませている。
メールの報告を読み、私の報告を聞いた園長が峯山さんのお宅に連絡し、夕方の来園が決まった。
園児たちと一緒にいると、憂鬱だったことを忘れていた。気を張っているのもあるし、園児たちに癒されてもいたおかげ。
でも予定の時刻が迫ってくると、呼吸がしにくくなるほどに、緊張してきた。
意識して深呼吸、を何度繰り返したことか。
園長という強い味方が同席してくれるとはいえ、怒鳴りつけてくる峯山さんが怖い。
私は男性に大きな声を出された経験はない。
父は教育に無関心で、一緒の時間を過ごすことが少なかったから、叱られたことがない。
学生時代は共学だったけど、荒々しい男子生徒とは関わりがなかったし。
ああいう方は、初めてだった。
内心でどんどん膨れていく不安を押し殺して、業務に向かいながら呼び出しがかかるのを待った。
十八時を過ぎて、峯山さんがやってきたと、事務員の渡辺さんが呼びにきてくれた。
私と麻香先生は、視線を交わした。
麻香先生も昨日の件が尾を引いているのだろう、すでに涙目だった。
本当は同席するのが怖いのだろう。
でも私たちは担任と副担任で、当事者。説明する責任がある。
「行きましょう」
「……はい」
応接室に向かうため、職員室を歩いていく。
昨日、私に気をつけてと忠告してくれた美鈴先生や、他の先生方が目線で見送ってくれる。
ガッツポーズをしてくれる先生もいた。エールを送ってくれたのだろう。
嬉しいけれど、不安を消せるほどではない。
今回の件は、同僚のみんなにとっても他人事ではないことをわかっている。
自分が同じ立場になる可能性があるし、経験済みの先生もいる。
幼稚園の先生は園児との関係性を築きながら、保護者さんとの信頼関係も築いていかないといけない。
担任を受け持って二カ月半。
信頼関係を築くことは容易でないことを、改めて思い知らされた。
応接室に向かうと、渡辺さんが鍵を開けているところだった。
峯山さんご夫妻が、廊下で待っていた。
お母さんの背後から、佑斗くんがひょっこり顔を出した。不安そうな顔で、お母さんの足にしがみついている。
一緒に来るのだとは思っていなかった。
佑斗くんは当事者ではある。けれどこの件は子供の手から離れて、大人の話し合いになっている。子供に聞かせていいのかなと、不安が増した。
夫妻に続いて、応接室に入る。
白い壁、革製のソファーにローテーブル。この部屋だけ見れば、幼稚園の中とは思えない立派な一室。
ここに私が足を踏み入れたのは、就職して二年目の時。年中のうさぎ組でトラブルがあり、副担任として同席していた。
あの時の親御さんは、難しいタイプの人だった。
どれだけ誠意を尽くして説明をしても「でもね」「だから」と反論し、納得せず。三時間の話し合いの末、結局退園した。
上座のソファーに峯山さん一家を案内した渡辺さんが、
「少々お待ちください。お茶をお持ちいたします」
と一礼している途中で、
「園長は?!」
お父さんの大きな声が、応接室に響いた。
私の隣に立っていた麻香先生が、体を大きく震わせる。
「ただいま電話中でございます。終わり次第、参ります」
渡辺さんが伝えると、
「待たせるつもりかよ」
と小さな声ではあったけど、お父さんは不満をこぼした。
渡辺さんが退室すると、きまずい沈黙が降りる。
お父さんは貧乏ゆすりをしてイライラしている。お母さんと佑斗くんは小さくなって座っている。
峯山さんはどんな方なんだろう。説明を聞いたら納得して帰ってくれるのか、クレームを言いたいだけなのか。
佑斗くんは叩かれたと言っていた。手が出るタイプの人なのだろう。
しつけと暴力は、線引きが難しい。
もちろんいかなる理由があろうと、暴力に訴えるのは反対。
けれど、体で覚えさせるというしつけをする家庭もあり、私が異を唱えることは難しい。
明らかに痣があり、行き過ぎた暴力である場合は、園長に報告の上、児童相談所に連絡する。
峯山家は、どうだろう。
佑斗くんの体に痣を見つけたことは、入園以来ない。
注意深く見ておいた方がいいのかも、と思案していると、
「まだかよ。こっちは暇じゃねえんだぞ」
とお父さんが凄んできた。
そんなこと、私たちに言われてもどうしようもない。私たちに園長の電話を終わらせることはできないのに。
「呼んで来いよ」
また昨日と同じように、顎でクイ。
やだな、と思っていると、扉がノックされた。渡辺さんがお茶を持ってきてくれる。
夫妻には湯呑、佑斗くんにはガラスコップが置かれた。温かいお茶と、リンゴジュースだと思う。
戻る渡辺さんに確認をすると、やはりリンゴジュースだった。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
渡辺さんと入れ替わりで、園長が入室してきた。
「園長の白木でございます」
黒のパンツスーツに身を包んだ園長が颯爽と入ってくると、場の空気が変わった。
お父さんは貧乏ゆすりをやめ、正面に座った園長を見遣る。
私や麻香先生を見たときの、こちらを見下すような目つきと違い、力が入ったように見えた。
次回⇒3.愛と覚悟
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