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タイムリープ! 妄想にかられて疾走する妻

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死ぬには、心残りが一つあった。

僕は過去にリナを泣かせたことがある。

それは、リナが二人目の出産をひかえ、病院に入院した日のことだ。

その日、僕は職場の飲み会があった。
僕は店長に就任したばかりで、社員みんなに店長として認められたい気持ちでいっぱいだった。
飲み会にも、ちゃんと顔を出して、社員一人一人と交流を深めたいような気持ちもあった。

ーー僕は店長だから、飲み会に顔を出さないわけにはいかないんだ。
あいさつ程度に参加してから、すぐに病院に行くよ。

リナにはそう約束したのに、僕は結局抜け出すことができず、一次会の最後まで参加していた。
病院に着いた時には、すでにユズが産まれていた。

マナトは僕の実家に泊まっていた。

「遅くなってごめん……」

ベッドの上で、リナはユズを抱きしめていた。
何にも喋らない。

僕はもう一度、
「ごめん」
と言った。

「一番、最初にこの子にかける言葉がそれなの?」
とリナは言った。

「生まれてきてくれて、ありがとう。
そう言ってあげてほしかった。

一緒にこの子が生まれてきたことを喜びたかった」

病室には、小さな音で音楽が流れていた。
 
オルゴールの音で奏でられた、
ハッピーバースデーだった。

「この子が生まれたら、
病室にハッピーバースデーをかけてくださいって、
助産師さんにお願いしていたの。

バースプランっていうのよ。

そういうのがあるのも、説明したけど、覚えてないでしょうね。

今日、この子が生まれた時、
分娩室でもハッピーバースデーをかけてくれたわ。
産科医の先生も、助産師さんも、みんな、
この子が生まれてきたことをお祝いしてくれた。

たくさんの笑顔がこの子の生まれた瞬間を見届けてくれたの。

だけど、その中に、あなたの顔はなかった。

あなたは、この子の出産より、仕事のことの方が大事なの?」

僕は返す言葉がなかった。

妻は、ポロリと泣いた。
涙が、ユズの頬に一粒落ちた。

小さな、でも、ふっくらしたほっぺたを涙がつたう。
ユズはむずがるように手足を動かしていた。
とても小さな手足だった。

ごめん、ユズ。
ごめん、リナ。

店長として認められたいなんて、自分の欲を優先したばっかりに……。

後悔を感じた。
だけど、時間はもう巻き戻らなかった。

思えば、あの日を境に、リナは僕に心を閉ざしたように思う。
育児には、不安や悩みがつきものだというが、僕には何にも相談しなくなった。
マナトが生まれた頃はたくさん悩みを話していたのに。

でも、僕は悩み相談自体をわずらわしく思っていたので、相談されなくなって良かったとさえ思っていた。

リナは、ユズの出産以降、必要なこと以外はほとんど話さなくなった。
楽しいことも、嬉しいことも、話さなくなった。

いつも、神経質そうに、顔の中心にギュッと力をこめ、眉根を寄せて肩もこわばらせて過ごすようになった。
今から思えば、内側からあふれそうな不安を、体に力を込めて、自分の内に押し留めていたように思えなくはない。

僕は、キッチンで、眉根にも肩にもギュッと力をこめて、料理をつくるリナを思い出す。

リナを精神的に追い詰めたのは僕なのかもしれない。

     •     •      •

けばけばしい明かりが見える。
ぼんやりしていた景色が、ゆっくりと像を結ぶ。

僕は、気づけば雨が降るネオン街に立っていた。

なんだ?
僕はどうなったんだ?

僕は訳がわからないまま、雨に体を打たれていた。
アスファルトの地面に水溜りができて、色とりどりのネオンの明かりが映り込んでいる。
ザアザアと雨の音がした。
地面や、道ゆく人の傘を雨が叩く。
雨の音に負けず、ガヤガヤとにぎやかな人の声もしていた。
近くに大通りがあるらしく、車の行き交う音もする。

僕は死んでいなかった。
僕は雨の中で自分の体を抱きしめた。
腕が震えていた。
雨に打たれ、冷やされても、自分の体は温かかった。
僕は泣いた。
たくさんの人が僕のそばを通り過ぎていく。
僕だけが雨の中、膝を地面につき、自分の体を自分の腕で抱いて泣いていた。

昔、廃屋になった遊園地に行ったことがある。
一人きりでのドライブの途中に、山道で見つけたのだ。
僕は、路肩に車を停め、遊園地に入ってみた。
動かない観覧車や、メリーゴーランド、コーヒーカップやゴーカートがあった。
アトラクションの塗装ははげ、鉄骨はさびていた。
夕暮れ時だった。
あまりに静かで、かつてそこにあったざわめきが幻聴になって聞こえてくる気がした。
僕はかつてそこにあって、今は失われてしまったものを思った。
誰かが死んだみたいに悲しかった。
そうだ、この遊園地は死んでしまったんだと思った。

死にたくない。
まだ、死にたくない。

僕は、まだ失われたくない。

夕陽に照らされていた巨大な遺骸みたいな遊園地の景色と、車を燃やしていた赤い炎を交互に思い出し、僕は死の恐怖を感じていた。

その時だった。

ポケットの携帯電話が鳴った。

ポケットから携帯電話を取り出し、画面の表示を見ると、佐藤からだということがわかった。

「もしもし……」

電話に出ると、
「綿谷先輩……、じゃなかった綿谷店長!
今、どこにいるんですか?」
と尋ねてきた。

電話の向こうからは、ガヤガヤとにぎやかな声が聞こえていた。

「もう、飲み会、始まってますよ!」

周りの声に負けないように、佐藤が声を張り上げる。

飲み会? なんの話だろう。

「店長、聞いてます?
それより、やっぱりお産が気になるんですか?」

「オサン?」

さっきから頭にハテナばかりが浮かぶ。

「さっき言ってたじゃないですか。
奥さん、陣痛が始まって入院したって、
二人目が、もう今日にも生まれそうなんだって」

なんだって?
なんと言った?

陣痛?
今日、生まれそう?

「佐藤、ちょっと教えてくれないか。
今は西暦何年だ?」

「どういう質問ですか?
今は……」

僕は佐藤の答えを聞くやいなや、「悪い! 切るぞ!」と言って電話を切った。

「あ、ちょ、ちょっと、どういうこ……」

僕は佐藤の言葉を最後まで聞かずに通話を切った。

そして駆け出した!
地面のくぼみにたまった雨水を跳ねながら、久しぶりに全力で走った。

大通りにでてタクシーを拾う。
目指すのは、妻がユズを産むために入院した産婦人科の病院だった。

~3.後編へ続く
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