2 / 2
2.
母から息子へ
しおりを挟むーー気がつけば、私は知らない場所にいた。
ここは、どこだろう?
私、さっきまで何をしていたんだっけ?
ええと……、ええと……。
頭の中は、白いモヤがかかったみたい。
何も思い出せない。
ええと……、周りに見えるものは……?
今は何月何日で、季節は……。
頭の中で言葉をつむごうとしても、解けていくみたい。
ワタシ、ドウシチャッタノ……?
たぶん、ここは、どこかの建物。
見覚えはない。
前方を眺めると、誰か歩いてくる。
誰?
誰?
すれ違ったのは、杖をついたおばあさんだった。
「あの……」
話しかけたけれど、そのおばあさんは、私の声なんて聞こえていないみたいに、ブツブツ独り言を言いながら通り過ぎていった。
あの人は誰?
ここはどこ?
私はどうしてここにいるの?
不安……。不安……。不安……。不安……。
ふるえるほどに怖いと私は思った。
こんな場所にいられない。家に、帰らなくては……。
廊下の壁に手をつきながら歩いてくるおじいさんがいたので、私はおじいさんにこう言った。
「あの、私、うちに帰りたいんです……」
おじいさんは、ギロっと怖い顔をして私を見た。
「同じ話を何度もするな!
帰れるか! ここでわしら暮らしとるんじゃないか!」
帰れない? どういうこと?
不安がムクムクと大きくふくらみ、私は落ち着いていられなかった。
「いや、帰りたい‼︎
うちはどこ?!」
「やかましい! 何度も何度も!」
怒られた! 怒られた! どうして?
やっぱり怖い。ここは怖い。
今すぐここを出て行きたい!
「助けて! 誰か助けて‼︎」
私が大声で叫ぶと、エプロンと名札をつけた女性がたくさん集まってきた。
「どうしたんですか、セツコさん、ヨシオさん」
「こいつが、何回もおなじことを言うから、頭にきたんだ」
「まあまあ……」
エプロンの女性の一人が、おじいさんにむかってなだめるような声を出した。
何を言っているのか、さっぱり理解できない。
だけど、おじいさんは怖い顔をしているし、エプロンの女性たちは困ったような顔をしている。
言ってることはわからないけど、表情だけは読み取れた。
何かよくない雰囲気……。
何が起こっているんだろう……?
不安、不安……。やっぱり不安……。
私はそのあと、エプロンの女性たちに連れられて、ベッドと机とタンスのある部屋にやってきた。
彼女らの一人は私に向かってこう言った。
「さあ、お部屋に戻りましたよ。ゆっくりしててくださいね」
その言葉が終わるやいなや、彼女らはみんなクルリと私に背を向けた。そして、私をそこに残して、みんなどこかに行ってしまった。
「あの……」
ここはどこ?
そう尋ねる前に、ドアは閉じてしまった。
バタン。
部屋に広がる静けさ。
私は幼い時、隣町へ母と買い物に行った時に迷子になったことがあるのだけれど、その時の心細さを思い出した。最近のことは何も思い出せないのに、昔のことはやけにありありと思い出せた。
あの時私は、もう、一生家に帰れないんじゃないかと思って泣き出したいほど不安だった。そして、孤独だった。
私が、見知らぬ部屋で不安と孤独に押しつぶされそうになっていた時、ふと、一つの記憶がちらちらと頭の中をちらついた。
ステンレスの流し台、ラックにたてられた食器、炊飯器からは炊き立てのご飯のにおい、コンロにかけられた鍋の中ではカレーがグツグツと音を立てながら湯気をたてている。鍋はよく使い込まれていて、持ち手を握ると、私の手によくなじむ。
ああ、ここは我が家だ。
私の居場所。
私は記憶の中の光景をうっとりと眺めた。
すると、バタバタと廊下をかけてくる子供の足音が聞こえた。
ランドセルの金具をカチャカチャ鳴らしながら走ってくる。
私は、記憶の中のキッチンに立って、音がする方に振り返った。
すると、廊下からキッチンへ、ひょこっと小さな顔がのぞいた。
私はついつい微笑んだ。
日にやけた手足。
笑うと赤ん坊の頃の面影がよぎる顔。
私によく似た口元。
ああ、あの子だ。
あの子が帰ってきた。
あの子は、私の顔を見て、にこっと微笑んだ。私がこの世で一番愛おしいと思う笑顔。
私は深く息を吸い込んだ。
先ほどまで胸いっぱいに広がっていた不安はすっかり消えていた。
思い出された記憶が、見知らぬ場所にいる私の心を幸福で包んでくれた。
ああ、あの子のおかげだ、と私は思った。
……そう言えば、あの子は、今、どこにいるのだろう。
あの子がお腹をすかせていたらいけない。だから、ごはんをつくらなくては……。
材料は、
材料は……。
私が部屋でゴソゴソしていると、やだっという声が聞こえた。
私は振り返った。すると、エプロンをつけた女性が、口元に手を当て、眉間にシワを寄せて立っていた。
「差し入れをそんなにぐちゃぐちゃにして……」
そう言って、私の手首をつかんだ。
私の手からボトリと、何かがテーブルに落ちる。
私は、何をしていたんだっけ?
ボウルの中で、野菜をこねて和物を作っていたような……。
「セツコさん、だめですよ。またこんなことして。ああ、もう、掃除が大変。家族さんにも、差し入れを部屋において帰らずにスタッフに預けてくださいって言っておいたのに」
何かしらないけれど、怒られてしまった。
そういや、前も怒られた気がする。
よく覚えていないけれど、何か怖い思いをした気がする。
私は、ひどく悲しかった。悲しくて、不安で、孤独だった。頭は相変わらずモヤがかかったみたいだった。
まるで、深い霧がたちこめた森で迷子になったみたい……。
• • •
それからも、私は不安と孤独のモヤの中で生きていた。
そしてーー、
ふと気がつくと、私は車の中にいた。
車は細い道を走っている。
周りには人家が見えた。
車は静かにゆっくりと走っている。
心地よい振動を体に感じた。
やがて、運転席に座っている誰かが、運転席側の窓が開いた。
ゆうげのにおいが、車の中にふわっと入ってくる。
私は懐かしい気持ちになった。
優しいにおい。
家庭の食卓のにおい。
運転席にいる誰かも、懐かしそうな顔をして窓の外に顔を向けていた。
なぜだか分からないけど、私はその人に懐かしいような、愛おしいような気持ちを感じた。込み上げてきた、と言った方が正確かもしれない。私は、その気持ちに押し動かされ、思わず隣の人に手を伸ばした。
そして、そっと頭に触れた。
手のひらに触れる頭の形に、うっすらと何かしらの記憶がよみがえろうとする。私はなぜか泣きたいような気持ちになった。
隣の人は私に振り返った。
そして、私をじっと見つめた。
私は少し緊張した。
その人が、どんな反応をするのか分からなくて身がまえた。
すると……、
その人は、私に優しく微笑んだのだった。
その顔に、懐かしい顔が重なったーー。
廊下を走ってくる足音。
駆けるたびにカチャカチャ鳴るランドセルの金具の音。
そして、廊下からひょこっとキッチンをのぞく顔。
私を見て、パッとにこやかになる顔。
その子は、キッチンに立つ私のそばに駆け寄ってくると、
〝夕ごはん、何?〟
と、私を見上げて尋ねてくる。
ああ、この顔ーー、と私は思う。
この顔を見たくて、私は毎日ごはんをつくってきた。
生まれた日から、ずっと、毎日、私に向けてくれた笑顔。
私がこの子を育て、守り、いつくしんできたようで、実は私の方がいつもこの子の笑顔に助けられてきた。
〝お母さん、どうしたの?〟
〝ううん、なんでもない〟
そんな会話をしながら子供と食事を食べる。そして、そうしながら、私はこんなことを考えていた。
ーー私は、この子から、どのくらいたくさんの笑顔をもらっただろう。
その笑顔の全てが、私の宝物だった。
今、目の前で微笑んでいる顔は、懐かしいその笑顔とよく似ていた。
その笑顔を見ていると、不安と孤独のモヤにつつまれた世界に、パッと明るい花が咲いたみたいだった。
ありがとうーー。
私は心のなかでつぶやいた。
こんなふうに、私の心を明るくしてくれた笑顔に。
どこか懐かしい笑顔にーー。
•••
開いた車窓からゆうげのにおいが舞い込んでくる。
懐かしいにおい。
毎日、子育てに奮闘していた、大変で忙しくて幸福だったころのにおい。
記憶はにおいに誘われるように、昔へ、昔へと帰っていく。
〝お母さん!〟
公園でベンチに座っていると、三歳くらいの、幼い息子が私に向かって駆けよってくる。膝や手のひらに砂をくっつけて。
私は駆けよってきた息子を抱き上げる。
抱き上げると、息子はコロコロと小さい子供に特有の笑い声をたてて笑った。
風が公園をザアッと吹き抜ける。
私の足元に生えていた、たくさんのたんぽぽの綿毛が、風にのって空に舞い上がる。いくつも、いくつも、数えきれないほど……。
やがて、それは私の目の前を真っ白に覆ってしまった。
風が柔らかくなる。
気がつくと、私は真っ白いレースのカーテンが揺れる部屋にいた。
ああ~、あああ……。
赤ん坊が泣く声が聞こえる。
窓際にベビーベッドがあるのが見えた。
のぞきこむと、まだ首の座らない赤ん坊が顔を真っ赤にして泣いていた。
ーーああ、私の子が泣いている……。
私は、息子に笑いかけ、息子を抱き上げた。
すると、さっきまで泣いていたのに、私に抱き上げられた途端に、泣き止んでしまった。
そして、私の顔を見て、あう、あう、と声を出しながら笑った。
その笑顔を見つめる私の心の中に、パッと明るい花が咲いた。それは、幸福という名前の花だった。
たくさんの記憶が駆けめぐる。そして、記憶と共によみがえった感情が、車に揺られる私を満たす。
私は、どこかにいる息子にこう思った。
〝息子へ、
たくさんの笑顔を、
たくさんの幸福をありがとうーー〟
私は、この気持ちが、息子に届くことを願っている。
完~~
11
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる