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梟(ふくろう) 第一話
しおりを挟むここは都心部にある中堅の出版会社。「我が社は法令を遵守しています」と表明している多くの企業がそうであるように、この社内にも、セクハラもパラハラもマタハラも普通に存在する。社会全体の理性が、これらの問題を直視していないのと同様に、この会社の上層部も、これらの問題の解決にはまったく無頓着であった。つまり、この会社は先進国ならどこにでもある、普通の会社なのである。
早朝、社内の二階にある、まだひと気のない、静かなロッカールームの中から、女性社員たちの明るい声が響いてくる。
「ねえ、秋本さんってふくろうに似てない?」
「彼が何に似てるかなんて、さっぱり興味もないし、考えたくもないんだけど、なんで、そんなこと思うの?」
「なんかさあ、あの、ぼけーっとして、いつも、どこを見ているのかわからないような視線とかさ……。さしたる用事がなければ、ほとんど身動きひとつしないわけでしょ? あの人はね、私が新卒の頃から、ずっとからそうなのよ……。周囲の人や勤務のことを、どう考えてるかなんて、まるでわからないし……、作業中だって、絶対に上司や同僚のことなんて念頭になさそうだし……。普段の午前中なんて、ずっと眠たそうにしてて、周りの人からちょっとした話題をふられても、ひと言も言葉を発しやしないし、夕方、薄暗くなって、仕事が締め切りに追われてくると、ようやく慌てだして椅子から立ち上がる感じ。みんなはもう、帰り支度を始めているんだよ。あの人はね、いつも夜になると動き出すわけ、つまり、ふくろうそっくりなんだよ」
「わかるわかる、それはわかるんだけどさ、なんで急にふくろうと彼を比較することにしたの?」
「昨日、彼氏と動物園に行って来たんだけど、野鳥の展示室で実物を見てきたわけ。ふくろうは昼間は枝にとまってじーっとして、目の前にお客さんがいても、全然動こうとしないのよ。自分の夢想以外は何物にも興味がないって感じ。それでピンと来たの。これは、秋本さんとそっくりだってね」
「あの人はほんと何を考えてるかわからないよね。仕事中も、絶対、アイドルとかアニメとかコスプレとか、そういうくだらないこと、帰ってから夢中になれることだけを考えてそう……」
「ふくろうってね、同じ檻に入れると、メスは高いところにある枝にとまって、オスをじっと見張ってるんだよ。オスはメスに頭が上がらないわけ。自分よりいい場所を取られちゃって、いつもびくびくしてるの。大した理由もなく他人に脅えて、社内に自分の机の他に居場所がない秋元さんに、そっくりだと思ったのよ」
「たしかに、あの薄ぼんやりとした目つきは何を考えてるかわからなくて、よく似てるかもね……。ただ、殺気はないのよね……。他の同僚に悪意を持っているわけではなさそうだけど……。会議でもひと言も意見を出さないものね」
社内において、始業前や仕事の合間などの会話で、秋本のことが比較的悪い意味合いで話題になることは、珍しくはなかった。自分より劣った人間を見つけて、それをとことん会話の種にして笑い合うのが、OLたちのストレス発散の特効薬である。彼は外見にしても内面にしても、他人から低く見られやすい性質(たち)の人間であった。いつも言葉少なく、おとなしく、仕事中も休憩の時も常に無口で、仕事の覚えは悪いが、謝罪の言葉は適切で、反抗的ではない。他人から責められると、自分だけの責任とはいえないことでも、すぐに受け入れて頭を下げてしまう。極めて臆病なので、何かことが起きると、その要因を自分の配慮が足りなかったことにして、他人と無用なトラブルになることを避けたいようにみえた。ただ、残念ながら、多種多様な人格の集う企業社会においては、そのような犠牲精神旺盛なる存在というものは、自分のプラスになることには、決して繋がらないことが多い。本当は誰が敵か味方なのかも分からぬ状況にあって、自分の弱みを素直にさらけ出す行為は、多くの場合、他の底意地の悪い同僚による、格好のストレスのはけ口にされてしまうからである。
『また、こちらのミスでしょうか? 本当に申し訳ございません。すぐに手直しをします。いや……、定時までには、必ず終わらせておきます』
『その事故につきましては……、確かに覚えがあります。おそらく、私の関わった仕事だと思います。もう二度と、そのようなことがないように…』
『営業が捕まらなくて、例の件が進まないのですか? 了解しました。では、連絡がつくまで、社内(ここ)で待機していますので……』
彼は危機が迫ったとき、このような受け身の台詞を、好んで用いることにしているらしい。しかし、こういった弱腰の態度は、一聴して万能で便利なようにも思えるのだが、その実、彼が本当に望んでいる、「なるべくなら、敵を作らない形で仕事をしたい」という願望からは、かけ離れた結果をもたらすことが多くなる。企業社会にあまねく蔓延る、攻撃的な人間の本性は受け身には、つけ込みやすい特性を持つからである。
勤務時間中は妄想と空想を織り交ぜた現実逃避。片手に持ったペン先で、机の表面をコツコツと叩く癖がある。それは三十分でも、一時間でも続けられる。その意識は、一度脳から脱すると、元のレールには容易には復帰しがたい。当然ながら、仕事にはうまく集中できず、新しい仕事を解説されても、理解することもできず、単純な注文書一枚書くにも、頭が回らないタチで、一つのことだけなら、長時間をかければ何とかやれるが、二つのことに同時に取り組むことは、なかなか困難であった。ひとつの作業が終わるまで、隣の席で大人しく鎮座して待っていてくれる顧客など、理想社会(ユートピア)でもなければ、存在するはずもなく、次々と難解な仕事を投げ続けられる彼は、日々混乱状態の体(てい)であった。
社会人の常で、一つの仕事に夢中になって取り組んでいる際に、後から、それを阻害すべく、緊急の仕事が舞い込むことは多いのだが、彼は二つのことに手を出そうとすると、頭脳が集中を欠き、混乱に陥ってしまうため、一つを余すことなく完全にやり終えてからでないと、もう一つの仕事に移ることができない性質であった。そのため、彼の机の上では、部内の急ぎものの書類が大量に積み込まれ、流れがせき止められてしまうことが多かった。仕事が貯まってくると、解決しなければならぬことはわかっているのだが、独力で何とかしようとすると、すぐに緊張に負けてしまうため、何のミスも犯さぬうちから、あわてふためき、それによって余計に能率が悪くなり、仕事がさらに滞ってしまうのだった。
決断力にも欠けていて、重役との会議など、仕事の大事な局面では、常に誰かの指図を必要とした。自分より遥かに経験の浅い人間に、堂々と指示を仰ぐこともしばしばあった。それを屈辱や恥であるとは思っていないようだった。終業時間が近くなると、締め切りのプレッシャーに押されて余計に能率が落ち、上司に付き添われていなければ何もできなかった。どんなことをやらせてみても、常に手際が悪く、終業時間になっても、他の社員よりも、会社に長い時間居残ることが多くなる。その結果、上司や同じ部所の同僚に、それ相応の迷惑をかけることが多かったようだ。
しかし、時間はかかっても押し付けられた仕事については、すべてやり終えて帰宅するため、昨今の未曾有の不景気の中にあっても、首にされるところまではいかなかった。彼は企業社会のカースト制度での、『仕事はできないグータラだが、悪い人間ではない』という身分に属しているとみられ、本人も心の内ではそれを密かに認めていたことだろう。この身分に生きる人間は、社会全体で見れば、その総数は決して少なくはなく、『できない上に性格まで悪い』という最下層の人種よりは、ずいぶんマシであるとみられていた。
二千十年年五月三十一日、この秋本という男が、会社の同僚を殺害して死体を山中に遺棄した容疑で逮捕されたわけだが、警察署でこの男の取り調べにあたった刑事数名は、いずれも、彼の殺人に至るまでの動機と殺害手段を決定的にすることができなかった。
この一件で殺害されたのは、秋本と同じ職場の皆川という二十二歳の女性で、同じ年の四月末に同社に入社したばかりであった。彼女は五月二十三日の深夜、絞殺され、翌日の早朝に山中に埋められたと見られている。彼女が職場に初めてその姿を現してから、都心から遠く離れた山中において、無残な遺体となって発見されるまで、わずか一か月。秋元と、この女性は五月二十三日の仕事終わりに開かれた宴会において、同席している。同僚らの供述から、この宴会の終了後、酔いの回った同僚たちの目を盗んで、秋元容疑者が被害者を一方的に自宅まで送り届けようとしていたことは分かった。
しかし、深夜にも関わらず、その道中において、被害者皆川の姿を確認していた目撃者が少なからず存在した。だが、肝心の秋本本人が、それに連れ添っていたかを明確に証言できる者は数少なく、しかも、どの証言もきわめて不明瞭であった。さらに、彼女が入社してからのひと月において、社内において、ふたりの間に事件に繋がりそうなトラブルは、まったく見られなかったという。それどころか、ふたりが向き合って会話している場面すら見た者はいなかった。事件当夜の秋元の足取りは、取調べにおいて語られた当人の証言を参考にするならば、きわめて不正確であり、しかも、同僚の証言によれば、彼には妄想癖や虚言癖があるという。
生きている彼女の姿を最後に確認したのが、この秋本であり、彼の供述は曖昧ではあったが、それに沿う形で、自宅から遠く離れた山中から、彼女の絞殺遺体が発見された。しかしながら、皆川宅に秋本が侵入した形跡はなく、彼の指紋も靴跡も発見されなかった。秋元が被害者宅の合鍵を手に入れた形跡もなく、変装した様子もなく、手袋や軍手も現場付近からは発見できなかった。
これらの事実から、殺害時間の立証は困難といえた。二十三日の宴会については、被害者である皆川本人のための新人歓迎会であり、これは部内の企画であった。ただ、秋元本人はこの企画の提案者ではなく、しかも、参加に至る動機には、数人の同僚との偶然的な会話による要因が重なった節がある。容疑者本人がこの会への参加を決めたのは、出欠確認の期限ぎりぎりであったという。そうなると、計画的犯行の立証も困難となる。
秋本自身の供述では、二十三日の深夜に、帰宅途中の彼女の後を追いかけていき、自宅のすぐ側まで行ったことまでは認めている。しかも、心の中で彼女に好意を持っていて、未来の願望としての交際についても、強く意識していたことを認めている。ただ、彼女への殺意については、強く否定している。
彼自身は警察による取り調べに対して、どのような核心に迫る問いかけにも素直に応じた。しかし、皆川という女性を、自分の手でいつどのように殺害したのか、また、殺害に至るまでの心理の具体的説明をすることができなかった。自分は皆川を悪漢から守るために彼女の家まで尾行して行ったのであって、殺すつもりなどなかったし、実際に殺害に至ったことも、まったく認識していないと供述した。
しかし、ここ一ヶ月における容疑者の日常生活における記憶は、割合にしっかりしていた。操作を進めていくと、秋本がこの被害者に好意を持っていたのは事実のようで、事件に関わったと思わった多くの捜査関係者は、次第に動機の解明の方に全力をそそぐことになった。後述するとおり、この期間内の、彼の心理的変化を追っていくことは困難をきわめた。全容解明への道筋をつけるために、彼の五月に入ってからの勤務内容の調査。それと、詳細な行動と足取り、加えて、秋本自身の人間性と性質を詳しく調べることが不可欠であった。
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